[短編小説]かがみ池(第3話)

 竹林を抜けると、月明かりの下をスピードを上げ、疾風のように庭を駆け抜ける。玄関に飛び込むと同時に鈴は、
「ママ! パパ! 涼が、涼がさらわれたの! どうしたらいい? すぐに助けに行かないと!」
大きな声を張り上げて助けを求めた。
 靴を脱ぎ捨て、どたどたと廊下を走り、客間へ急ぐ。
「パパ! ママ!」
障子戸を押しやって、二人が寝ている部屋に入る。
 「鈴? どうしたの。静かにしなさい。皆寝てるのよ?」
ママがのそりと起きだした。
 「ママ、涼がさらわれたの」
鈴は、ママの元へ飛びつく。
 「なあに、鈴、あなた、びっしょりぬれてるじゃないの!」
「なんだい? 何事だい?」
後ろでパパも起きだす。ママは立ち上がって、パチンと灯りを点ける。
 「あのね、涼が―」
「とにかく、そうね、拭かないと」
ママは、押し入れの中の引き出しを開けて、ごそごそすると、大きなタオルをひっぱり出して、ばふっと鈴をタオルで包んだ。
「鈴、どこで何をしたの? こんなに濡れて。まさか、池に入ったんじゃないでしょうね?」
ママは、おどろきから心配、怒りへと表情を変えていく。
 「まあまあ、まずは話をきこうじゃないか」
布団の上に座ったパパがママをなだめる。
 「あのね、えっと、ごめんなさい。池に行きました。それで、」
「ちょっと、こんな時間に外を出歩いて! 池には入るなって言ってあるでしょう? なんだって」
「まあまあ。落ち着いて」
ママにそう言ったあと、パパは鈴を見て言葉をうながす。
 「私のせいなんだけど、涼がね、神様にさらわれたの。私、神様の蝶々を死なせてしまって、神様が怒って、それで、私のせいなのに、涼が連れていかれたの。ごめんなさい。ごめんなさい」
パパもママも何も言わない。鈴は、続けた。
「それで、助けに行きたいんだけど、神様のところにいく方法がわからないの。どうしたらいい?」
鈴は、頭の中でぐるぐるする言葉を、やっとなんとか並べて話した。
 パパはママと目を合わせると、再び鈴の顔を見つめる。
「夢を、見たのかい?」
鈴は首をふる。
「ゆっくりでいいから、落ち着いて。そうだ、何か飲む?」
ママが優しく聞いてくれる。でも、お腹の仲は水でいっぱいな気がして、鈴は、やっぱり首をふった。
 「夢じゃないの。涼がさらわれたの。神様に。だって、隣の部屋にだって、いないでしょう?」
鈴は、ふすまを開けて隣の部屋を見せる。
 「ねえ、鈴。涼って言うのは、だあれ? お友達かしら?」
背中から放たれた言葉と、一つの布団しか敷かれていない部屋の光景に、鈴は、一気に体のすべての温度をうばわれた気がした。
 ゆっくりと振り返って、ママとパパの顔を交互にみる。
「涼だよ? 忘れちゃったの? 私の双子の弟! 涼だよ? ねえ、嘘でしょう?」
 鈴が必死に訴えれば訴えるほど、パパとママは鈴のこうふんをなだめようとするばかりだった。
 「怖い夢だったのかな?」
とか、
「夢の中で双子のきょうだいができたのかしらね」
とか。
 言葉や、触れる手の優しさが、残酷に鈴に現状を伝えてくる。
 まさか、まさか、涼が、いなかったことになっている?
 「夢じゃ、ないのに―」
鈴は、それだけ言うと気が遠くなり、その場に倒れこんでしまった。
 
 
 
 まぶしい。朝が来たみたいだ。鈴は、うっすら目を覚ますと、ぼうっとする頭の中に、涼が神様に捕まったそのシーンがバチっと流れ、がばっと飛び起きた。
 ぐるりと部屋を見渡す。布団も、旅行用の大きなバッグも、ハンガーにかけられた服も、鈴一人分しか見付けられない。
 「涼」
鈴は、言葉に出した。
「涼」
はっきりと、しっかりと。
「涼」
自分は、涼を覚えてる。忘れるはずない。涼はいる。神様のところに。迎えに来るのを待っている。鈴は、きゅっと唇を結んだ。
 立ちあがって、台所に向かう。本当に忘れられてしまったのだろうか。覚えている人はいないのだろうか。
 「ねえ、涼のこと、本当にわからないの?」
台所に入るなり、鈴はママとおばあちゃんの背中に声を投げかけた。
 「わっ。びっくりしたなあ。おはよう鈴ちゃん」
おばあちゃんはおどけてこちらを見た。
「おはよう、鈴。あら、まだ着替えてないの? 顔を洗って、いえ、シャワー浴びてきなさい。ゆうべあのまま寝ちゃったでしょ」
ゆうべ、という言葉に鈴はピクリとなる。
 「おばあちゃんは? 涼のことわかる?」
すがるような目でおばあちゃんを見つめる。
「涼? 誰だい? 友達かい?」
鈴は、胸がちくんと傷んだ。
 「トマト、いいのなってたぞ」
そう言っておじいちゃんが台所に真っ赤なトマトをかかえて入ってきた。
「おじいちゃん、涼のこと、わかる?」
「なんだい?」
おじいちゃんはトマトをおばあちゃんにあずけると、うーんと考えたあと
「おじいちゃん、わからないなあ。うーん、もしかして、じいちゃん忘れちゃったのかな?」
と困った顔をした。
「違うのよ。夢の話なのよ。ゆうべも涼、涼ってさわいで。よっぽどリアルな夢だったのかしら」
気にしないでと二人に言ったあと、ママは、鈴に向き直り、
「さ、シャワー浴びてらっしゃい」
と背中を押した。
 台所から出された鈴は、風呂場には行かずに玄関に向かい、そのまま靴をはいて表に出た。
 庭の砂利をぎゅっぎゅとふみながら、家の裏へと歩いていく。もしかしたら涼がぽっと立っていたりしないだろうか。
 もしかしたら、何度池に飛び込んでも、もう神様のところへは行けないのかもしれない。
 期待で足が進み、不安で足が重くなる。
 ざあっとざわめく竹林の中、静かに水面をゆらすかがみ池。そこに、人影はない。
 「涼? 聞こえないの? 返事して! どうしたらそっちへ行ける? ねえ、涼ー!」
鈴が声を上げるたび、あざわらうかのように風が竹の葉を鳴らして声をかき消した。
 「どうやって、どうやってそっちへ行ったらいい?」
ゆらゆら波打つ水面を見つめる。
 「お願いします。涼に会わせてください。涼を返してください」
鈴はひざまずいて声に出して祈った。
 キラリと一瞬、池が光った。見ると、揺れていた水面はピタリと凪いで、そこに涼の姿が映った。
「涼!」
瞬く間に鈴は、息を吸い込んで池に飛び込んだ。今なら、涼のところへ行けるんじゃないか、期待に胸が鳴った。
 しかし、水に潜ってすぐに体に異変が起こった。
「っつう」
脚がつって動かせない。
 痛みをこらえて、ザバザバと両腕で水をかく。息を、息をしなければ。必死に顔を水からだそうともがく。もがくたびに体が沈んで息を吸えない。
「だずげ―」
叫ぶことも出来ない。
「がぼぼ」
どんどん体が沈んでいく。
 池の中から見上げた岸に、誰かがいるのがぼやけて見えた。女の子だ。あれは、私の姿だ。笑っている。笑ってこっちを見てる。私を、笑ってる。
 鈴は、大量の息をがぼっと吐いた。ずんといっきに体が沈む。このまま死ぬのだろうか。死んだら、涼のところへ行けるだろうか。そう考えた時だった。
 ザバンっ、と何かが水に飛び込んだ。
 鈴は、近付いてきた大きな何かに掴まった。とたんに、ふわっと体が浮くのを感じた。
 「鈴ちゃん、大丈夫かあ!」
引き上げられた鈴は、力強く背中をさすられ、息を整えていった。
「玄、じいちゃん―」
「まだしゃべらんでいいよ」
ごしごしと背中をさすられる。
 玄じいちゃんは、鈴がしっかりと息をするのを見て取ると、鈴を抱えて家の中に運んでくれた。
 
 
 
 「池に近付くことは許しません」
風呂場から出て、すっかり髪を乾かすと、ママは般若のような顔で言った。
 鈴は、うつむいて黙っているしかなかった。
 「そうそう、玄じいちゃんのところにいって、ありがとうとごめんなさいしてきなさいね」
「はい」
ぐわんぐわんとセミの声が家を取り囲んでいる。世界中から責められている気分だ。
 「その前に、何か食べないとね。お腹空いてない?」
鈴は首をふったが、ママは優しく
「少しでいいから、食べなさい」
と鈴を台所に連れて行った。
 目の前に出されたのは、トマトたっぷりのサラダと、焼いたウインナーと目玉焼き。お味噌汁にはおばあちゃん自慢のナスが入っていた。
 鈴は、お味噌汁に口をつけ、ほうっと息を吐いた。のろのろと箸を持って、トマトをつつく。
 鈴が何度か食事を口に運ぶと、ママは少し安心したようだった。
 「そういえば」
ママが思い出したように言う。
「玄じいちゃんも、涼がどうとかって、言ってたわね」
 「え!」
鈴の手が止まる。
「本当? 玄じいちゃんが、涼を知ってる?」
「そうね、確かに涼って言ってたと、思うわ」
 鈴は、パシンと音を立てて箸を置く。
「私、玄じいちゃんのとこ行ってくる!」
立ちあがろうとすると、ママが手を伸ばして制止する。
「食べてからね」
 「あーーー」
鈴は、一瞬な考えてから、ものすごい勢いでご飯を食べた。
 「ごちそうさま」
「おそまつさま」
「行ってきます」
「しっかりお礼してきなさいね」
ママの声を後ろにおいて、鈴は玄じいちゃんの家へ走っていった。
 
 「玄じいちゃーん。いるー?」
三百メートルは走ったので、息は絶え絶えだ。食べてすぐ走ったせいで、お腹の横が痛い。
「玄じいちゃーん?」
「こっちこっち」
畑の方から声がする。庭を歩いて声の方へ進むと、玄じいちゃんが畑から上がってきた。
 「これ、りっぱだろう! しっかり冷やして、今夜皆で食べよう」
玄じいちゃんの腕には、大きな大きなスイカが抱えられている。
 「あの、ね、り」
「鈴ちゃん、おいで、こっちへかけよう」
玄じいちゃんは、息の上がった鈴を座らせたかったようだ。
 縁側に座ると、玄じいちゃんは鈴をこれでもかと撫でた。扇風機の風が鈴に当たるたび、玄じいちゃんの独特の匂いがしたが、鈴は、じっとされるがままにした。
 「よかったよ。本当によかった。鈴ちゃんが無事で、本当に良かった」
涙ぐむ玄じいちゃんに、鈴は、心底申し訳なく思った。
「ごめんなさい。玄じいちゃん。助けてくれて、本当にありがとう。玄じいちゃんもケガをしなくてよかった」
「鈴ちゃんに何かあったら、お父さんもお母さんも、涼君だって普通じゃいられないよ」
「! それ!」
鈴が、突然大声をだしてのけぞったので、玄じいちゃんの撫でていた手が鈴の顔にかぶさる。
「ぷ」
鈴は音を立てて息を吐いた。
 「ごめんごめん鈴ちゃん。で、なにが『それ』なの?」
気を取り直して、鈴が口を開く。
「涼のこと、覚えてる?」
「もちろんだ。あー? んー? いや、涼ってのは?」
玄じいちゃんは、自信たっぷりの顔から、だんだん不安そうな顔に変わる。
「私の双子の弟!」
鈴が助け船を出すと、
「そうだそうだ。涼君だ。鈴ちゃんの双子。かがみ池の神様と同じ双子!」
と元気を取り戻す。
 「え?」
今度は鈴の顔が曇った。
「ん?」
「かがみ池の神様って、女の子の神様じゃないの?」
「いやあ。双子で産まれた神様だよ。男神と女神の双子の神様。いつのまにか、女神様しか祀らなくなったけど」
鈴は少し首をひねる。
 しかしすぐに本筋に戻って
「神様に会う方法って知ってる?」
と、一番聞きたいことを率直に聞いた。
「さあてねえ。あちらに用事かなければ姿を見せてはくれないんじゃないかなあ」
「怒らせちゃったら、もっと会えないよね?」
鈴は、だんだんとうつむいていく。
「そうだなあ」
 縁側の前の地面を、アリがはっていく。
 「ううんと、誰かにとりなしてもらうのはどうだ? 父神のトイレの神様とかな」
「トイレの神様?」
鈴は、新しい可能性に顔を上げる。
 「その神様にはどうやって会えるかな?」
「そりゃ、きれいなトイレで会えるんじゃないか?」
なるほどと頷くと、
「わかった。ありがとう玄じいちゃん。やってみるー」
と、鈴はロケットのように勢いよく飛び出した。
 
 
 
 「神様、神様、トイレの神様、出てきてください。助けてください」
鈴は、おじいちゃんの家に戻るなり、トイレにこもって、神様に呼びかけ続けた。
 もとからきれいだったおじいちゃんちのトイレを、何度も何度も掃除して、手を合わせて祈った。
 何度も、何度も。
 鈴がずっとトイレにこもっているので、おじいちゃんもおばあちゃんもパパも、トイレのたびに鈴に遠慮がちにお伺いを立てた。
 「いいかげんにしなさい」
ママが怒って鈴を放り出す。後ろには三つの困り顔。
 鈴は、諦めてまた外に出た。あても考えも、何もない。ただ、じっとしていることが出来なかった。
 「どうしよう。トイレ、トイレ」
「なんだあ、鈴ちゃん、トイレ行きたいの? 入ってくかあ?」
ただあしを動かしているうち、いつのまにか、玄じいちゃんちのほうまで来ていた。玄じいちゃんは、畑の中でクワを振っているところだった。
 「そうじゃなくて、トイレが必要なの」
「うん? だから、うちのトイレ使いなよ」
 鈴は、にっかりと笑う玄じいちゃんを見た。
 日に焼けて白くなった麦わら帽子。えりくびの黄ばんだ、すりきれたシャツ。ボロボロとほつれの目立つ、くたびれたズボン。
 「もしかして」
鈴の頭の中で、星がピカリと輝いた。
 「玄じいちゃん、やっぱりトイレ借りる。で、そのお礼に、私、トイレ掃除する!」
 
 「ちょっと汚れてるけど、大丈夫かな?」
「うん。私、頑張ってお掃除する」
「ううん。そんなことしなくたっていいんだけども」
「いいからいいから。まかせてって」
「そうかい? じゃあ、神様によろしく」
 玄じいちゃんが畑に戻ると、鈴は、気合を入れるために大きく息を吸い、
「うう!」
おえつをもらした。
 「これは、やりがいがある」
玄じいちゃんのトイレは、お世辞にもきれいとは言えない。いや、きたない。元の色がわからないくらい黄ばんでいる。空気もどんよりと重い。夜になったら、いや昼でも入りたいとは思わない。
「これじゃ、神様にもあきれられちゃうよ」。
 まず、ブラシで便器をみがくことにした。鈴は、玄じいちゃんちに掃除道具がそろっていることにおどろいた。もしかして、おじいちゃんかおばあちゃんがそろえてあげたのだろうか。それとも、昔はきれいにしていたのだろうか。
 こびりついた汚れは、軽くこすったくらいじゃびくともしなかった。力を入れて、何度も何度もこすった。汗がだらだらと流れて、シャツが肌にはりつく。
 じっとりと熱のこもったせまいトイレの中に、突然サーッと風が入ってきた。風の来る方を見ると、扇風機が置かれて、その奥には玄じいちゃんの背中が見えた。
 「ありがとう、玄じいちゃん」
大きな声でお礼を言うと、気合を入れ直した。
 道具入れの中から、『かけておくだけ』と書いてある洗剤を見付けて、試してみることにした。かけて、待つだけらしい。半信半疑でキャップを開けた。
 ただ待っているのももったいないので、雑巾に持ち替えて、便器のまわりをふいた。壁に作りつけられた棚のこまごました置物をどけて、丁寧に拭き上げる。壁を拭くと、雑巾がとたんに汚れて、壁は白くなっていく。
 床を拭き終わるころには、何枚もの雑巾を使い倒した。
「そろそろいいかな?」
そんなに期待はなく、便器に水を流して、洗剤の効果を見てみる。
「おお! すごい! 白い!」
こすっても落ちなかった汚れが、すっきりときれいになった。
「そうだ、道具入れの中に」
ホコリをかぶっていた芳香剤を引っ張り出して、封を切った。
 「これで、文句ないでしょう?」
鈴は胸をはった。おじいちゃんちに負けないくらいきれいになったんじゃないだろうか。
 「お願いします。神様、出てきてくだい」
鈴は、手を合わせ、頭を下げる。
「いやあ、きれいになったなあ。ありがとう、ありがとう」
現れたのは玄じいちゃんだった。
「玄じいちゃん、神様、出てきてくれない。トイレ、きれいにしたのに。だめだった」
「え? うーん」
困った顔で頭をかく玄じいちゃん。
 「あ、鈴ちゃん、そうだそうだ。鈴ちゃんが汚れっちゃったじゃないか。みそぎっていうのかな。お風呂に入って、鈴ちゃんが身を清めたらどうだろうかね」
「そっか。神様に会うんだもんね。そっか、そっか」
まだやれることがある。それは、折れそうな鈴の心を支えた。
 「じゃ、お風呂入ってくる」
鈴は、ばたばたとまた駆け出した。
 
 「いやあ、せいれんせいれん」
体をきれいにして戻ってきた鈴を、玄じいちゃんはお神酒まで用意して待っていてくれた。
「じゃあ、俺は居間にいるから。気のすむまでやんなよ」
「ありがとう。玄じいちゃん。私、きっと涼と一緒に帰ってくるから」
「え? 涼? それは―」
鈴は、ハッとして、一瞬泣きそうな顔をするが、すぐににっこり笑って見せた。
 「行ってきます」
 お神酒を抱えて、鈴はトイレに入っていった。
 
 
 
 そこは、トイレの中ではなかった。
 どこまでも続く、乳白色の空間。目の前には、立派な輝く御殿がどうどうと建っていた。御殿の中央に、見覚えのある重厚な扉を見付ける。
「あれ、夢で見た、重い扉。あそこから入れるのかな?」
駆け寄って扉を押す。ギイと重い音に反して、扉は軽く開いた。
「わあっ」
勢いあまって、鈴は前につんのめる。持っていたお神酒が前方へ飛んでいく。
 ガシャンと酒瓶の割れる音を予想したが、いつまでたっても聞こえない。
 「案内するまで待てなかったのかい?」
若くて力強い男の人の声がした。
「ごめんなさい」
ふわりを体が浮いて、起こされた。すると、正面には若い男の人が、スーツを着て、にっこりとして立っている。手には、鈴の持っていた酒瓶が持たれている。
 「あの、トイレの神様は、いらっしゃいますか?」
「ああ。私だよ」
あっけなく答える優しそうな男の人。
「え、神様、ですか?」
「そう見えない?」
「なんか、こう、おひげがもじゃもじゃの、おじいさんみたいな姿なのかなって思ってて」
「ああ、こんなふうな?」
 ぼおっと炎が男の人を包み、燃え上がった。
「これでどうかな?」
白い髪に白ひげ、白い着物のおじいさんがそこにいた。
「わあ、イメージぴったり」
「それは良かった」
おじいさん、神様は、愉快そうに笑った。
 「それで」
低い落ち着いた声に、鈴は姿勢を正す。
 「あの、まずは、ごめんなさい。かがみ池の、神様の蝶々を殺してしまいました。ひどいことをしました。とっても後悔しています。ごめんなさい」
神様は、黙って聞いている。
 「でも、私がやったことです。涼は、関係ありません。涼を返してほしいんです。私が、ちゃんと、罰を、受けます」
罰を受けるのは怖かった。ぶるぶると脚が震えた。
 「それは、娘に直接言うと良い」
「それじゃ」
「ああ。行っておいで」
 神様は、腕を伸ばし、宙に大きく円を描いた。そこに空間が裂け、円い入口ができた。目を凝らしても、その先は見えない。ただ暗く、黒いもやがうごめいている。
 この先に、涼がいる。それだけを勇気に変えて、鈴はぎゅっと拳を握りこむ。
「ありがとうございます」
神様に向き直って丁寧に頭を下げた。
 「ああ、そうだ。お酒のお礼を忘れていた。玄五郎のこと、これからもたのむよ」
神様はそう言って、一本の指を立てて円を描いた。すると、鈴の首に火の輪がまわり、ぼうっと燃えて鎮まった。
 鈴は、おどろいて首を触ったが、なんともない。代わりに、緋色の炎が閉じ込められた勾玉が、麻ひもに括られて下げられていた。
 「行ってきます」
鈴は、もう一度深々と頭を下げると、開かれた入口に飛び込んだ。

つづく


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