[短編小説]かがみ池(第4話:最終話)

 藍色の水の中に、金色に輝く水泡が踊っている。深く深く、鈴は一人、落ちてゆく。
 落ちて落ちて、最後まで落ち切ると、あのいくつもの色の空が混ざった空間へとたどり着いた。
 そこには自分と同じ姿の女の子が、ふてくされた顔をして立っていた。そして、そのとなりには、涼が青白い顔をして、並んでいた。
 鈴は、すぐに涼に駆け寄りたい気持ちをおさえて、女神様に頭を下げた。
「本当に、すみませんでした。心から謝ります。私、私が、悪かったです。ちゃんと、私が罰を受けます。だから、どうか、どうか涼は返してください。お願いします」
ぎゅっと目を閉じて頭を下げているのに、女神様のするどい視線が突き刺さるようだった。
 沈黙。鈴と女神様の間には、沈黙だけが重々しくそこにあった。どちらも口を開かなかった。鈴は、祈るように頭を下げ続けた。
 音もなく、無数の気泡がはじけた。飛び出した金の粉が、チラチラと光を放って空に消えていく。
 鈴は、動かなかった。
 空が何度となく混ざりあった後、二人の間で二つの泡がぶつかってはぜた。女神様は、しびれを切らして口を開いた。
「父神に頼るとは、小賢しい娘だ」
鈴は、頭を下げたまま、女神様の言葉を受けた。
 「そうだ。涼だ」
女神様が楽しそうに笑う。
「そうだそうだ。涼に決めさせよう」
「え?」
鈴がおずおずと頭を上げた。
 女神様は振り返って、にんまりとした真っ赤な口を鈴に向ける。
 ぞっとする笑顔には怯んだが、鈴は、心の中で喜んだ。それなら涼は帰ってくるに決まっている。
 「そううまい話かな?」
心の中を読んだような物言いに、鈴はドキッとする。
 「え? どういう意味?」
「ふん」
女神様は、すうっと後ろに下がった。代わりに、涼が数歩前に出る。
 鈴は、涼の元へ駆けより、倒れそうな体を支えた。涼は、うつむいていた顔をあげ、閉じていたまぶたが持ち上がった。
 「涼? 大丈夫?」
涼からの返事はない。
「何か言って、涼。こっちを見て」
涼の体を揺さぶると、涼の視線が鈴に向かった。
 「帰ろう、涼。パパもママも、おじいちゃんもあばあちゃんも、玄じいちゃんもまってるよ」
「り、ん?」
涼がそう言ったときだった。
 「それ、これを見ろ」
女神様が左右に腕を大きく振った。それに合わせて、天と地の空に、青と水色の光の帯が縦横無尽に走り、
鈴と涼の二人の人生の、これまでの画像がいくつも映し出された。
 それはまるで、鈴が作ったアルバムのようだった。あの画像も、この画像も、鈴があの夜、一生懸命選んだ写真の画像だった。自分だけじゃない、涼もかっこよく映っているものを選んだ。二人が、はち切れそうな笑顔の写真を選んだ。忘れられない思い出の写真を選んだ。
 いつも一緒だった。涼のことが大好きだった。涼に好意を向けられるのが嬉しかった。二人でいられることは特別なんだと信じていた。そういう風に、自分たちは過ごしてきた。それは、宝物のような時間だった。
 鈴は、これから涼と二人で帰って、皆で誕生日のお祝いをするのだと思った。そして明日から、また涼と二人、新しい思い出を作っていくのだと思った。
「涼、一緒に帰ろう」
鈴は、涼の手を握った。
 「これはな、涼。鈴の執着だ」
女神様の声は、冷たかった。鈴の握った涼の手が、ピクンと跳ねた。
 鈴が女神様を見ると、片方の唇の端を上げて笑っている。
 「鈴にとって、涼、お前は欲を満たすだけの人形だ。装飾品だ。おのれを高揚させるための秘薬のようなものだ。お前の中身などどうでもいいのだ。お前がどう考え、何を好み、何を求めるか、知ったことではないのだよ」
「な、何言ってるの?」
鈴は怒るが、女神様は気にもとめない。ただ涼に、甘い毒のような声をまとわりつかせている。
 「変なこと言わないで! 私、そんなこと思ってない!」
「無意識とは業の深いこと」
クククと低い声をあげる。
「さあ、涼。帰るならそこの月を通るがいい」
涼の数歩先に、水鏡が現れ、大きな満月が映された。
 「しかし、なあ」
においたちそうなほどに甘い声だ。
「ここに残るなら、お前はお前としてあるのを邪魔するものはない。男神として、永遠にお前らしくあれ。さあ、どうする?」
女神様は、自信満々に声を立てて笑った。
 パシッと、音を立てて、鈴の手がはらわれた。
「え?」
鈴は、信じられないままに、目をまん丸にして涼の顔を見つめた。
 「涼?」
涼の顔は、赤黒く染まり、二つの瞳が真っ赤に光って鈴をにらみつけていた。
「お前は、いつもいつも俺に引っ付いて、ああしろこうしろ、ああしたいこうしたい。引っ張りまわして。お前の思い通りにしようとして。うんざりなんだよ!」
鈴は、まだ呆然と涼を見ているしかできない。
「たまたま双子として産まれただけだろ? そんなの、ただの偶然で、ただそれだけの事だろ? ほっておいてくれよ、俺は俺だ。自由にさせてくれ。俺に、かまうな!」
 涼のこんな怒鳴り声は、初めて聞いた。怒らせることなんて、数えきれないくらいあった。でもこれは、それとは違う。鈴は、後ずさって、わなわなと震えた。
 「ごめん、なさい」
鈴の両目から、大粒の涙がぽたりぽたりと、落ちた。
「そんなに、嫌だったなんて、思わなくて。ごめんなさい」
ぽたぽた、ぽたぽたと滴が落ちた。
 涼は、赤く光る眼でその涙を見ると、
「涙? そうやって、泣いて俺をコントロールしようとするんだよ。お前は、俺の気持ちを考えないで、自分ばかり通そうとするんだ」
と、さらに怒りを爆発させる。
 その後ろから、女神様は、嬉しそうに二人を見ている。
 鈴は、ボロボロとこぼれる涙を何度もぬぐいながら、涼に訴える。
「ごめん。泣かない。泣かないから。涼が嫌だってこと、もうしないから。帰ろう。皆、待ってる」
 『皆』という言葉に、涼がピクリと反応する。赤く燃える瞳がゆらりと揺れる。すかさず女神様が涼の横に移動して、
「騙されるな。涼。家族をだしにして言うことを聞かせようという腹だぞ」
と耳打ちする。涼の瞳は、ふたたびゴオと燃える。
「おまえの言うことなんて、信じない。俺が何をどう言ったって、おまえには届かないんだ」
 女神様は、涼を腕の中におさめ、ニコニコと笑っている。
 「涼。どうしたらいいの? 涼、本当にここにいたいの? そうだ、私が、私がいなくなる。それなら帰る? ねえ、涼?」
涼は答えず、鈴をにらみつけるばかりだった。鈴の膝はがくがくと崩れ、ついに手をついた。
 女神様が勝ち誇り、高々と声を上げた時だった。
 鈴のポケットから、小さな箱がこぼれた。
 青い小さな箱に水色のリボンがかけられた、プレゼントのようだった。
 それを見ると、涼の眉間がさらに険しくなった。
 カコンと音を立てて、箱が底に当たり、跳ねた。勢いあまって開いた箱から、赤いリストバンドが飛び出して、涼に向かった。落ちていくそれを、涼は、両手で受け止めた。
 「これは?」
そうつぶやいた涼の顔は、鈴からは陰になって見えない。
 「あのね、皆でデパートに行ったでしょ。その時、選んだの。誕生日プレゼント。いっぱい考えた。ちょっと前から、涼が私と一緒にいるの、避けてること、わかってた。でも、私は涼が大好きだよ。だから、寂しいけど、我慢する。私も、きっと変わる。だから、このプレゼントを選んだの。涼の好きな色の赤を選んだの」
 鈴は、なかば呆然としたまま話した。
 もう、何をしても、何を言っても、涼は行ってしまう。一緒にはいられない。涼は、もう、それほど自分を、嫌ってしまっているんだ。
 そう思った。
 鈴は、下を向いた。顔を上げて、またあの眼で睨まれるのが嫌だった。
 鈴は、涼からどんな言葉を投げられるのか、身を固くして待った。
 数歩近づく足音がした。
 「俺、帰るわ」
涼の、ひょうひょうとした、いつもの調子の声だった。
 「へ?」
鈴は、恐る恐る顔をあげて、涼の顔を見た。
 涼は、気まずそうな顔をして、頭をかいて立っていた。その腕には、赤いリストバンドがはめられている。
「ほら、帰るぞ」
差し出された手を、鈴はつかめず、目の前の赤い色を見つめていた。まごまごとしていると、パッと涼が鈴の腕を取り立ちあがらせてくれた。
 「いいの?」
鈴は、自信なく聞いた。
「いいよ」
涼は、何でもないように答えた。
 手をつなぎ直し、並んで出口の月に向かう。
 「なんでだ?!」
悲痛な声だった。
「涼、おまえまで行ってしまうのか? なぜ?」
女神様が泣いていた。ただの小さな女の子のように、泣いてた。
 「ごめんね。誰と重ねているのかわからないけど、それ、俺じゃないよね? また、遊びに来るから、それで勘弁して」
涼は、女神様に優しく声をかけた。
 月の向こうから、さわさわと竹の葉の音が聞こえてくる。
 「そうか。わかった」
女神様がうなずく。
 「じゃあ」
涼がそう言いかけた時、
「だが、鈴、おまえには罪を償ってもらう!」
バッと、女神様が鈴に向かって水の刃を飛ばした。
 涼がかばおうと体をひねるが、それよりも早く刃は鈴をおそう。
 刃が鈴に触れる瞬間、カッと炎が鈴を包み、刃は蒸発して消えた。
 「おのれえ!」
鈴が助かったのを見ると、女神様は今度はつかみかかってきた。
 「鈴、行こう!」
涼が鈴の手を引き、出口に飛び込む。鈴は、後ろ向きのまま出口に吸い込まれていく。
 女神様の伸ばした手が、鈴の首にぶら下がった勾玉に届いた。そのまま握りこまれ、強く引っ張られる。
「待て。許さん。鈴」
恐ろしい声が鈴の耳に届く。女神様の小さな手が、勾玉の炎に包まれる。
「離さん。逃がすものか」
炎が、女神様の体をおおっていく。
 「ダメ、女神様、離して」
「うるさい! 許さん許さん許さん!」
怒りにまかせて、女神様はぐいぐいと引っ張る。
 バチッと音を立てて、麻ひもが切れ、炎に包まれた女神様が、後ろに倒れこむ。燃え盛る炎が勢いを増し、バチバチと大きな音を立てると、急に鎮まった。
 そのあとには、見たことのない小さな女の子が、白い衣をまとって、あどけなくしゃがみこんでいた。
 女の子が、握りしめていた掌を、そっと開いた。そこには、緋色の蝶々が、はたはたと翅をはためかせている。
 涼が、何も言わずに鈴を引っ張った。
 鈴は、コクンとうなずいて、月の出口をくぐった。
 
 銀色のトンネルを歩いていたはずだった。気が付けば、二人は池に浮かんでいた。
 目の前には青い空が、竹林に囲まれて丸く切り取られている。
 「帰ってきた?」
鈴がつぶやいた。
「帰ってきた」
涼が応えた。
 岸に上がった二人は、ぎくしゃくと向き合って、どちらからともなく握手を交わした。
 「りーんー? りょーおー? どこいったのー?」
ママの、心配と怒りのこもった声が聞こえた。
 「まずいかも」
「まずいだろ」
二人は、お互いのびしょびしょの姿を見て、慌てる。
 「鈴ー? 涼ー?」
声が近付いてくる。
 「逃げる?」
「逃げよう」
 顔を合わせて笑い合うと、走ってかがみ池を後にした。
 「見付けた! 待ちなさい!」
すぐにママに見つかった二人は、ニヤニヤしながらお説教を受けた。
 「また池に入ったの? 池には入るなって、あれほど、言った、かしら、ね?」
ママは混乱しているようだった。
「ところであなた達、お昼ご飯も食べないで、どこで遊んでいたの?」
 「内緒」
「内緒」
二人が声をそろえると、ママは呆れて笑った。
 「さあ、お腹は空いていない? おにぎり、あるけど?」
鈴と涼は、ママに手を引かれて、家の中へと入っていった。
 
 
 
 その夜の宴会に、玄じいちゃんはいつもと違って、きれいな恰好でやってきた。鈴が選んでお土産にした青いシャツを、真新しいズボンに合わせてお洒落をしていた。靴下だって、穴の開いていない新品だ。
 「玄じいちゃんかっこいい。似合ってる」
鈴は、玄じいちゃんを褒めちぎった。いつもこうならとってもいいと思った。
 「ありがとう鈴ちゃん。鈴ちゃんのおかげで、あれ? なんだっけ?」
「いいからいいから」
皆の記憶は、あいまいになっていた。あいまいでちぐはぐな記憶は、夢みたいにどんどん忘れられて、気にもしなくなっていくんだろう。
 でも、私は忘れない、鈴はそう思った。
 涼はどうだろう、もしかすると、すぐに忘れてしまうのかもしれない。思い出すことなんて、ないのかもしれない。
 あれは、涼の本心なんだと、鈴は思う。それでも、涼は帰ってきてくれた。それも本当のことだ。
 鈴がぼうっと考えていると、涼の視線にぶつかった。
 「ケーキが二つはすごいね」
鈴は、はしゃいだ声を出した。苺のケーキとチーズケーキの二つのホールケーキが、テーブルの中央に置かれている。
 「私、チーズケーキがいい」
「俺、苺のやつ」
やっぱり涼は苺を選んだ。鈴は、取り分けてもらったチーズケーキに集中するふりをした。
 ケーキをほおばり、たくさんのプレゼントをもらって、二人の誕生会は終わった。
 
 「ほい」
「何?」
お風呂も済ませて、後は寝るだけという時、涼が鈴にラッピングされた可愛い袋を渡してきた。
 「プレゼント。俺も、用意してたんだ」
「あ、ありがとう」
鈴は、プレゼントをまじまじと見つめる。淡い黄色の袋に、白い造花の飾りがくくり付けられている。
「可愛い」
「プッ。まだ開けてないじゃん」
「いいじゃない。ラッピングが可愛いって思ったんだから」
鈴はちょっと顔が赤くなるのを感じた。
 「あのさ、気にしすぎるなよ」
涼が、真面目な顔をした。
 「え?」
「あの時、池の中で俺が言ったこと。あれは、まあ、本心だ」
やっぱり。鈴は、わかってはいたけれど、あらためて言葉にされて、胸がズキンといたんだ。
 「でも、あれは何倍、何十倍に大袈裟にした感じだ。大きさというか、重さというか、温度というか、ま、違うんだよ。とにかく、あのままそっくりそのままが俺の本心ってわけじゃない」
「うん」
「うっとうしいと思うことは、けっこうある。でも、嫌ってない」
「うん」
鈴は、手の中のプレゼンを優しくもてあそびながら、胸のズキズキが小さくなるのを待った。
 「本当だぞ! だから、まったく気にされないのも困るし、気にされすぎるのも困る」
「うん」
鈴は、プレゼントを見つめながらうなずいた。
 ズキズキは、小さく小さくなった。それでもきれいには消えない。
 「開けていい?」
鈴は、プレゼントをもちあげた。
「どうぞ」
涼がそう言うと、鈴はゆっくりと包みを開けた。
 「わあ。か、可愛い!」
出てきたのは、水色の大きなリボンの付いたバレッタだった。
「涼が選んだの?」
「そりゃそうだよ」
なんだか照れくさそうにする涼。
 「うれしいうれしいうれしい」
爆発しそうな幸せな気持ちを、ぎゅうっと胸の奥に詰め込む。
 「ありがとう。ねえ、これからもよろしくね」
鈴は、抱きついてしまいたい衝動を抑えて、にっこり笑ってそう言った。

おわり

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