[短編小説]かがみ池(第2話)

 田舎のおじいちゃんの家には、数時間かけて車で向かった。高速道路を降りると、景色ががらりと変わる。
 鈴も涼も、小さなゲーム画面から顔を上げて窓を開けてみる。太陽はまだ高い。低い山に囲まれた可愛らしい里。ぽつんとぽつんと民家の竹林が盛り上がり、平たい緑の田んぼが何枚も続いている。
 「ねえ涼、もうすぐだよ」
「まだかかるよ」
「でも、来たって感じしない?」
「まあね」
涼だって、ワクワクしてるんじゃない、と鈴は嬉しくなる。
 「いつもの景色だ」
ハンドルを握ったパパが言う。
「ここまでくればもう一息ね。パパ、運転変わらなくて平気?」
ママがパパの口に飴を入れながら聞く。パパはうんうんと頷いて見せた。
 
 「おじいちゃん、おばあちゃん」
着くや否や、鈴は車を飛び出す。
 「来たなあ」
と嬉しそうな声で、おばあちゃんが玄関から顔を出す。家の奥からは、茹でたトウモロコシの匂いが追いかけてくる。
 「よく来たな」
畑から上がって、麦わら帽子を取りながら、焼けた笑顔を見せたのはおじいちゃんだ。
 鈴は、まず近くにいたおばあちゃんに飛びついて、ギュッとすると、今度はおじいちゃんに向かって行って、飛びつこうとする。
「だめだめ、後で。おじいちゃん、土だらけだよ」
そういって両手を伸ばして鈴を制止する。それでもおじいちゃんの顔はニコニコだ。
 「おじいちゃん、おばあちゃん、久しぶり。元気だった?」
涼が車から降りたみたいだ。大人ぶっちゃって。鈴はププっと笑って見せた。涼は、そんな鈴をいちべつして、すぐにプイと余所を向いた。
 ざあっと涼やかな風が吹いて、家の裏の大きな竹林がざわざわと揺れる。
「ああ、また来れた」
鈴は、おじいちゃんもおばあちゃんも大好きだが、この竹林にくることも楽しみだった。竹林と、その奥にあるかがみ池。またあの不思議な雰囲気に身を浸したかった。
 「ねえ、竹林にいこう!」
涼を誘った。
「まず荷物を運べよな。竹林はそのあと」
「ちぇっ。なんか、涼、さっきから大人ぶってない?」
「また、くだらないこと言う」
「くだらなくないもん」
鈴は、むきになって涼に文句を言おうとしたが、
「ねえ、荷物は後にして、先に裏のかがみ池にあいさつに行こう」
とパパが言うので、一気に機嫌を直してしまった。
 
 「今年もしばらくお世話になります」
竹林の奥の小さな池の前。パパもママも涼も鈴も、皆で手を合わせて頭を下げた。
 「ここも変わらないな。はあ、静かだ」
頭を上げるとパパが深呼吸して言った。
「ええ、私が子供の頃から変わらないわ。ちょっと、神秘的よね」
ママは、懐かしむように池を見つめる。池に竹の葉が落ちて、小さな波紋がおこる。
 「さあ、戻りましょ。ごちそうの準備しないと」
「ねえ、私、もう少しここにいていい?」
鈴がこうと、パパもママも少しだけねと許してくれた。
 「涼は? どうする?」
涼は、池の水面に視線を落とし、少し考えた後、
「俺はいいや。鈴もすぐ戻って来いよ」
と言って、三人連れ立って行ってしまった。
 鈴は、それを寂しいともつまらないとも思わなかった。ただ、ここにもう少しいたかった。
 
 薄暗い竹林に囲まれた、小さなかがみ池。池の上にはまあるく空が開けていて、水面にその空を映している。不思議なほどに澄んでいるその透明な水は、自ら光を放っているようにも見える。
 反対に、池を囲む何本もの竹がつくる、涼やかな陰。暗いのに、ほのかに輝いているように錯覚する。静かで、ちょっと怖くて、どこか優しい。
 目をつぶり、あたりの凛とした空気に触れていると、どこか、ここでないどこかと繋がっているような、奇妙な感覚がする。それが、ただ美しいだけでなく、なんとも言えない快感を覚えて、鈴は虜になる。
 「あ、蝶々」
何かが鼻先にに触れた気がして、閉じていた目を開けば、いつのまにか無数の青い蝶が、鈴を中心に舞っている。
 「きれいな青」
手を差し出すと、一羽の蝶がふわりと降り立った。
 近くで見ると、ますます青が美しい。翅の外側は、深く濃い青の中に細かな星がきらきらと輝いていて、内側は透き通るような水色の穏やかな空のようで、風にふかれた雲が流れていた。
 鈴の手の甲の上で、蝶は、静かに翅をはたはたと開いたり閉じたり。鈴は、じっと動かず、蝶から目を離さない。
 欲しい。
 鈴は、突然この美しい蝶が欲しくなった。眺めるだけでなく、自分のモノにしたくなった。
 「えいっ」
自分の手にもう片方の手を重ねた。手の甲と掌のわずかなすきまに、ぱたぱたと蝶の抵抗を感じる。
 逃がさないように、潰さないように力加減に悪戦苦闘しながら、走って家の中に飛び込んだ。
 「何か入れるもの」
客間の端にあったゴミ箱が目に入る。中身を出して、ひっくり返したゴミ箱の中に蝶を閉じ込めた。
「はあっ」
これで逃げられない。あとで、涼にも見せてやろう。きっと、キレイだって驚くぞ。
 鈴は、満足して台所に向かった。
 
 
 
 その晩は、楽しい宴のはずだった。
「鈴ちゃんも可愛くなったなあ」
そう言って鈴の頭を撫でるのは、玄じいちゃんこと、玄五郎大叔父さん。おじいちゃんの弟で、近くにひとりで住んでいる。
 可愛がってくれているのはわかるが、鈴は遠慮したい気持ちでいっぱいだった。
「あ、私、お水もらってこよ」
そう言って玄じいの横をすり抜けて台所に向かうと、先に避難していた涼がいた。
 「あ」
「あ」
顔を合わせて、黙って力の抜けた笑みを向けあう。
 鈴も涼も、玄じいちゃんを嫌っているわけではない。ただ、玄じいちゃんが、なんとなく変なにおいがして、大きく開けた口には歯が数本しかなくて、いつもシミの付いたシャツばかりを来ているのが、どうにも好ましくないのだ。
 ただ、それを口にするのはいけないことのような気がするから、涼とも苦笑いをかわすしかなかったのだ。
 「鈴ちゃん、こっち来て太巻きつまんで」
おばあちゃんが呼んでくれたので、助かったとばかりに座敷に戻る。
「鈴ちゃんはだいぶんと、かがみ池が気に入ったね。さっきもずっといたじゃない」
「そんなにいたかな? でも、とっても好き。ずっといたいくらい」
「あぶないあぶない。魅入られるととられちまうよ?」
おじいちゃんが心配そうに眉をひそめる。
「どういうこと?」
「神様がいらっしゃるんだよ」
おばあちゃんが手を合わせてみせる。
 「ご不浄の神様のこどもにあたる神様だ」
玄じいちゃんが茶化すように言うと、おじいちゃんがたしなめる。
 「ご不浄って?」
鈴が無垢に聞くと、玄じいちゃんが答える。
「便所、トイレだ」
「鈴ちゃん、涼くん、間違えちゃいけないよ。トイレの神様っていうのは、それはそれは徳の高い神様なんだよ」
おじいちゃんがすかさず説明してくれた。
 「俺、知ってる」
「そうか、涼君はたいしたもんだ」
「だからトイレはきれいにしておくんだよね」
「そうそう」
おじいちゃんもおばあちゃんも涼に感心している。
 「さあさ、トイレの話はおしまい。ご馳走、頑張って用意したんだから、食べて食べて」
ママが、パンパンと手を叩いて話を切り上げる。
 「今日は歓迎会、明日は双子の誕生会。上手い酒が続くねえ」
玄じいが言うので、鈴と涼は目を見合わせる。
「明日も来るのか」
と、心の中で声を合わせていた。
 
 
 
 皆が寝静まった夜。開け放たれた窓から吹き込む、ゆるやかな風。リーン、リーンとひびく風鈴。
 欠けた月にゆっくりと黒雲がかかり、部屋の中の闇が濃くなる。
 そこここの隙間から這い出した、するすると伸びた闇の舌先が、眠っている鈴を絡めとっていった。
 
 「暗い。真っ暗」
口にした言葉が闇に呑み込まれる。鈴は、もう一度はっきりと声を出してみる。
「なによ、ここ」
やはり声は吸い込まれるように消えていく。
「夢の中かな?」
「夢の中よね?」
「夢なんでしょ?」
「もう!」
しんとした闇の中、とてもじっとしていられずに走り出す。
 どっちに向かえばいいのかなんてわからない。方向なんてわからない。ただ、同じところにいることが恐ろしく、めちゃくちゃに走った。
 どれくらい走っただろう。真っ暗闇の中、遠くに光が見えた気がした。目を凝らして探すと、やはり光が小さく灯っている。他に見えるものはない。脚にぐっと力を入れて、光に向かって進んだ。
 「扉だ!」
はるか遠くに見えた光は、目指すとすぐにたどり着いた。あんまりにも急に近づいたので、鼻をぶつけるところだった。
 鈴の背の何倍もある高さの、大きな大きな扉。青銅色で、細かなもようが刻まれている、ずしりと重そうな扉。
「えいっとおー」
力を込めて押したが、びくともしない。引っ張ってみても同じ。コンコンとノックもしてみたが、返事はなし。
 来たはいいが、そのあとがどうしたらいいかわからない。
「もう。神様、どうしたらいいの?」
やけになって叫んだ。
 「入れ!」
突然雷のような声がぴしゃりとひびいた。同時に扉が開いて、奥に向かって風が吹いた。先は、薄明るいのに見通せない。鈴は尻込みしてその場に立ち尽くす。
 まごまごしていると、足元に一対の青白い炎がぽっと灯った。
「わっ」
炎は、スーッと奥の方に向かって次々に灯り、飛行機の滑走路のように道を示した。
 「行けってことかな?」
他に進む道もない。
「よし!」
進むしかない。怖くはあったが、前に進むことにした。
 少し進んで後ろを振り返ると、すでに扉は消えていて、炎の道も後にはない。
「引き返せないのね」
ごくりとつばを飲み込んで、あしを動かす。
 どれくらい歩いたろう。ただただぼんやりと明るい、まるで霧の中にいるようなところで、景色なんて見えない。炎だけを頼りに歩く。歩いて歩いて、もうあしが動かないと思ったとき、
「止まれ」
またあの恐ろしい声がした。
「ひかえろ」
続いてそう言われたが、どうしたらいいのかわからず、気を付けの姿勢をとった。
 ジャンジャンガラガラと金属の大きな音がした。耳をふさごうとしたが、腕が上がらない。
「くうー」
首をまげ、声が漏れると、
「黙れ」
と声がして、口を無理やり閉じられた。
 「いらっしゃったぞ」
そう言われたので、顔を上げようとしたらまったく動かせない。じたばたしていると、
「ひかえよ」
とまた怒られたので、大人しくした。
 「名乗れ」
話せないんだよ、と思ったが、ぱっと口が開いた。
「ぷはっ。―り、鈴です。く、椚(くぬぎ)鈴」
 すると、先ほどまでの荒々しい声とは違う、きれいで透き通った声が響いた。
「ああ、鈴。罪深い子供」
「罪?」と言おうとしたが、また口は閉じられていた。
 「あのこを返しておくれ。あれは、お前を歓迎していたのに。捕まえてしまうなんて、ひどいことを。情けのないことを」。
 あのこ? 頭の中に、青い蝶がちらと舞う。
「返しておくれ」
きれいなのに、とっても怖い声が迫ってくる。鳥肌がたって、ぞくぞくする。
 もうここにいたくないと心底思ったとき、黒い風がつむじを巻いて鈴を捕らえた。
 
 バッと目が開いて、鈴は自分が布団の上に転がっていることに気付く。はあはあと上がった息を、すうはあとなんとか整える。
 「ちょ、蝶々」
鈴はすぐに部屋の隅に這うように進み、ひっくり返したゴミ箱を持ち上げた。
 「っ、ああ」
のどの奥から乾いた声が漏れ出た。
 蝶は、死んでいた。
 青い美しい蝶は、翅をぴんと広げたまま固まっていた。輝きは失せ、無機質に、静かな美しさを残したまま死んでいた。
 「死んじゃってる。どうしよう」
とてつもない申し訳なさと、命をうばってしまった罪悪感、後ろめたさ、罪を背負った恐ろしさが胸を締め付け、涙が溢れた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
かすれた声で何度も謝る。他にどうしたらいいのか、まったくわからなかった。
 「どうした?」
後ろからそっと声を掛けられ、鈴はビクッと背中をはねさせた。
「泣いてんの? どうした?」
涼だ。からかいもせず、心配そうに近づいてくる。
「私、殺しちゃった」
鈴は、叫びたいのを必死に凝らえながら、絞りだすように言った。
 「え?」
涼は困った顔をしているだろうか。暗くてわからない。
 鈴は、両手に蝶を包み、涼へと腕を伸ばした。月にかかっていた雲がさっと通り過ぎ、月明かりが蝶を照らした。
 「蝶々? 死んじゃったの?」
「わたし、蝶々、キレイだと思って、欲しくなって、涼にも見せたくて、捕まえて、閉じ込めて、―殺しちゃった」
はらはらと涙がこぼれる。言葉にすると、より自分のしてしまったことがはっきりとして、どれだけ自分が悪いことをしたのかを突きつけられるようだった。
 「はっ。どうしよう。神様が怒ってる。神様の蝶々だったの。返せって、怒ってた。きっと許してもらえない」
鈴はキュッと身を縮めて、ぶるぶる震える。
 涼は、ポンポンと鈴の頭を軽く叩きながら、うんうんと頷いた。
「俺、一緒に謝ってやるよ。一緒に返しに行こう。だからそんなに泣くなよ。な」
 涼は箱ティッシュを手に取ると、鈴のほうへ差し出した。鈴はティッシュを数枚むしり取ると、ずずっとは鼻をかんだ。
 ひっくひっくと、鈴がなんとか涙を止める間、涼はだまって隣に座っていた。
 
 
 
 「静かにな」
涼と凛は、息を殺して、物音を立てないように廊下を進む。どれだけ気を付けても、小さくギシギシと床板が鳴った。
 鈴と涼は、話し合って、朝を待たずに、すぐに返しに行くことに決めた。池は家のすぐ裏だし、危ないこともないだろう。なにより、怒っているなら、すぐにでも返した方がいいと涼が強く言った。
 鈴も、早くこの嫌な気持ちをなんとか軽くしたくて、一刻も早く謝りたい一心だった。
 ギイっと、ひときわ大きく床が鳴る。すると、
「ん? 鈴ちゃんか? どうした? あら涼君まで一緒で」
おばあちゃんが起きてきてしまった。開いた障子戸の隙間から顔をのぞかせる。
 「と、トイレだよ、おばあちゃん。大丈夫だから寝てて」
涼がとっさに答える。
「仲がいいわね。そうね、二人なら怖くないわね」
トイレと玄関は逆方向だが、おばあちゃんは納得して部屋に引っ込んでくれた。
 二人、ほっと息を吐いて、またゆっくりと玄関に向かった。
 
 「セーフ」
玄関を出ると、鈴は小さく息を吐いた。
「アウトって気がするけど。ま、ギリギリセーフかな」
涼はもはあっと息を吐く。
 夜が深い。月は遠くて、星は小さい。
 ポツンポツンと立つ街灯が、山の向こうへとへ寂しく続いている。灯りの周りこそ、闇が濃く、何かが潜んでいそうな気配を感じてしまう。
 昼間、目を楽しませた生垣や花壇でさえ、その葉をめくったら、何か飛び出して来やしないだろうか。獣だって、夜行性が多いんじゃなかっただろうか。
 風が吹くたびザアッと木々が鳴るなかに、カーンとかコトンとか、正体のわからない音が混じる。
 鈴は少し怖気づいたが、涼の前で怖がるそぶりを見せたくなかった。それに、なにより、この罪悪感から早く解放されたい、そう強く思っていた。
 「行こう」
涼が先頭を切って裏の竹林に向かう。
 「うん」
鈴は、まだずっしりと心に重いものを感じていたが、涼が一緒ということに慰められて、きっと神様は許してくれる、気分も晴れる、そんな気がし始めていた。
 
 くるりと屋敷を周り、裏庭に出る。わずかな月明かりが届くのはそこまで。竹林の入口は優しく照らされているが、一歩入れば真っ暗で、奥へ行くほど闇が濃くなるようだった。
 「昼間とはずいぶん雰囲気が違うんだな」
涼は、何でもない風に言う。鈴は涼の顔を覗き込む。すると、涼の顔が少しこわばっているのが分かった。
 「何だよ」
「何でもない」
いつもなら茶化す鈴だが、今回は恩も感じているし、怖がっているのが自分だけでないのがうれしくて、何も言わなかった。
 入口に向き直ると、無数の竹の枝が、おいでおいでと手をこまねいている。
 「行くぞ」
「うん」
両手に蝶を乗せていなかったら、手をつなぎたいところだった。いつもならきっと涼は、伸ばした手を振り払っただろうけど、今ならつないだままにしてくれるんじゃないだろうか。鈴は、久しぶりに涼を近くに感じていた。
 「っあっと」
竹の根にあしを引っかけて転びそうになる。
「気を付けろよ」
真っ暗で、もうその表情は見えないが、当たり前に心配してくれているのがわかる。
「大丈夫大丈夫」
声が、にやついてしまう。
「お前な、真面目にやれよ」
「ごめん」
ここまで来て怒らせたくはない。
 「なあ、真っ暗だからゆっくり来たけど、それにしても時間がかかりすぎないか?」
「うん。でも一本道だし、迷うはずないよ」
「何かライトとか、持ってくればよかったな」
「うん。明かり、ほしいね」
スマホでも持ってたらよかったんだけど、そう思うが、鈴も涼も四年生になるまでは買ってもらえないことになっている。
 「あれ、月じゃないか?」
「え、どこどこ?」
鈴は上を見上げて月を探す。
「上じゃない。前、前、下、下。」
「前の下。あ、あった。お月様」
そこには、大きなまん丸い月があった。
「大きい」
「まんまる」
風が吹くと、月はその姿をゆらゆらと揺らした。
 「池だ」
涼の言葉に、鈴も月を凝視する。池の水面いっぱいに映りこんだ大きな月。さっきまであっただろうか。気が付かないはずのない存在感。それはこうこうと輝いている。
 鈴は、水面の月の真上をさぐる。空が開けているはずだ。星の粒を探して目をこらす。
 「鈴っ! 落ちるっ」
涼に腕をつかまれる。が、つかまれた腕が引っ張り上げられることはなく、鈴と涼は一緒に池に吸い込まれる。とぷんと二人を飲み込んだ水面は、わずかに波を立てると、すぐに静けさを取り戻した。
 
 
 
 藍色の水の中を、大小の水泡が金色に輝きながら、上へ下へ右に左に浮かんで沈む。鈴と涼の二人は、その中をくるくると回りながら、深く深くへ落ちていく。
 涼はつかんだ腕を引き寄せる。鈴は、つかまれた腕をたぐって涼をかかえるように抱きしめる。
 水の中のはずなのに、肌にその抵抗を感じない。浮きあがる様子もない。
 どんどんと下へ向かうたび、通り過ぎる金の粒が速度を増す。
 このまま、落ち続けるのだろうか、それとも、いつか底にぶつかって、潰れてしまうのだろうか。鈴の悲鳴は口から出ると、無数の泡となってゴボゴボと上へ昇っていく。
 突然、ピタリと水の動きが止まった。二人の体はゆらゆらと宙を漂っている。
 先に目を開けた涼は、鈴をつつく。鈴は、ギュッと閉じていた目を開き、岩のように固くしていた体の力をゆっくりを抜くと、涼の手だけはしっかりと握った。
 そこは、どこまでも続く空のようだった。朝の金の空、昼の青い空、夕方の赤い空、夜の紺色の空。グラデーションのように色を変えてぐるりと二人を囲んでいる。
 「むごいことを」
凛とひびいた声の主を探して、振り返ると、バランスを崩して体がくるりと回る。鈴は、回転する視界のはしに、女の子の姿をとらえる。
 「涼、女の子がいる」
「え、あれ。あのこは」
「え?」
「鈴だ」
「私?」
鈴と同じ姿をした少女は、白いノースリーブのワンピースを着て、空に逆さ浮かんでいた。もっとも、くるくると回っているのはこちらなので、逆さまなのは自分たちなのかもと鈴は思った。
 回転が止まると、女の子と向き合う格好になった。
 「鈴、代償を払ってもらおう」
女の子が平たい声を出す。女の子の胸の前に浮かせたてのひらの上には、あの蝶がのっている。鈴は、その姿と聞き覚えのある声にぶるっと震えた。
 「あの、かがみ池の神様ですか?」
女の子からの返事はない。代わりに、
「そこに丁度いいのがいるな」
と涼を指さした。
 「もらうぞ」
くいと手を招く動きをしたかと思うと、涼が一瞬で女の子の横に移動させられた。つないでいたはずの手が空をつかむ。
 「涼をどうするの?」
涼は、女の子のとなりで立ったまま、目をつぶってぐったりしている。鈴は涼のもとへ行こうと手足をバタバタと動かすが、前にも後ろにも進めない。
 「ねえ、涼? どうしたの? 大丈夫? 今行くから。ねえ、返事して!」
進めない代わりに、その場でじたばたとあばれて、叫ぶ声ばかりが大きくなる。
 「いね」
女の子は、表情を変えないまま、冷たくそう言い放った。
 すると同時に、鈴の体がへそのあたりからグイと引っ張られた。上へ下へともみくちゃにされながら、高速で引っ張られていく。
 「涼!」
開いた口から真っ黒い水が入り、大きくむせる。しかし、がぼがぼと口に水が入り込み、苦しい。苦しい。助けて。
 ポンっという大きな音とともに、吐き出されるように鈴は池のほとりに放り出された。
 「げほっ、ごほっ、がはっ」
吐けるだけ水を吐いて、吸えるだけ息を吸った。
「りょ、涼ー」
池をのぞき込むが、水面には細かな星と、欠けた小さな月が映るばかり。うっすらと落ちた自分の影の中には、ただ闇だけがある。
 鈴は池に顔を突っ込んで、
「涼! 涼を返して!」
と叫んだ。
 ごぼごぼと立った泡はすぐに消える。鈴はすぐに息を吐ききって、がばっと顔を上げる。
「はあ、はあ。どう、しよう。涼が、とられた」
鈴は、底の見えない真っ暗な池に、えいと飛び込んだ。
 泳ぎは得ではない。不格好に手をかいてもぐろうとする。しかし、すぐに浮かんでしまって、いっこうにもぐれない。
 何度も試した後、鈴は池から上がり、その場にへたり込む。
「私のせいで、涼がとられた」
ばくんばくんと心臓が騒ぐ。
「涼は悪くないのに、悪いのは私なのに、なんで」
お腹の底がずっしりと重く、冷たい。
 「涼。ごめん。ごめん。ごめん」
いちどせきを切った涙は、止めようとしても止まらない。泣いている場合ではないとわかっているのに、涙が次から次にあふれてくる。
 「取り戻す。絶対に迎えに行くから」
鈴は、涙が流れるに任せて、それでも立ちあがる。
 「涼、待ってて!」
鈴は、池に向かって叫ぶと、走って竹林を駆け抜けた。


つづく


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