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とある母と娘のおはなし

とあるも何も私と私の母の話である。

以前の記事にも書いたが私の母は家に居て家族を待つのが苦にならない人である。
そこからして私とは全然違うのだ。

そんな母と娘の私には、人生で何度となく、衝突、、、が出来ればいいが、母の言葉で私が一方的に深く傷つくことが起こる。

母と娘という立場は大変難儀である。

母の愛を幼い頃には分からず、いつか捨てられる恐怖があった。
それは、中学生時代まで続く。
高校に入ってからも突然放たれた言葉が思春期真っ只中の私を突き刺した。

「私、お姉ちゃんみたいな子とは絶対友達にならない」

え、何故それを今言った。
脈絡も何もなく、放たれた言葉に当時はもの凄く傷付いた。
私は、幼い頃から両親の顔色ばかり伺って生きてきた。その言葉にどうしていいのか分からなかった。
母は、言うだけ言って、あとは通常通り。
戸惑いだけが残った。

私、お母さんに嫌われてる。。。

当時の私はそれでも偉かった。
お母さんは、お母さんじゃなくて、ひとりの人間なんだ。
お母さんをお母さんと見ると傷つくし、不満が溢れてくるけど、ひとりの人間としてみれば好き嫌いがあっても仕方ない、と許せた。

社会人になっても母が私とゼロ距離だからこそ起こる不快感があった。
仲が悪い訳でもない、ただただ私が気を遣う日々だった。

しかし、遅すぎる初めての反抗期を私は迎えた。

25歳、周りも結婚し始めてそろそろ私もと思っていた時、ひと回り以上、母のほうが歳の差が近い人から猛烈アプローチを受けた。
両親は、付き合うのを大反対。
反対されればされるほど、私の中で恋心とも呼べない何かが燃え上がっていった。

私は、家出同然でお付き合いから同棲を始めた。
両親は、興信所を使って、私の居場所と彼の粗探しを行った。
この時点で私に対して異常な執着を見せたのだ。

私は要らない存在だったのでは、、、
よく分からなかった。

そんな険悪な状態でも弟妹とは連絡を取り合っていた。同じ両親を待つ弟妹だからこそ分かり合えるところもあったからだ。
だからといって、母と弟妹は、母と私にみる凸凹な関係性では全く無かった。

母のコンプレックスがここには隠れている。
母は、婿取りで実家を継いでいるが、三姉妹の次女である。
長女と末っ子は、誰からも可愛がられて、次女は、忘れられる存在だ!
だから、次女を可愛がってあげなくちゃいけない!
というコンプレックスからくる独自の考えがある。
妹はもちろん末っ子の弟は、両親の担当で、お姉ちゃんである私は、祖父母の担当。
こんなルールがあるんだと私は密かに思っていた。

実家を出て、しばらく膠着状態であった両親とも、弟妹が仲を取り持ってくれ、実家へ寄る事が出来るようにまでなった。

そんな折、社会人2年目の弟が体調を崩すようになり、会社をしばらく休んだ。
弟の気分転換になればとドライブに誘った。
酷く弟が悩んでいる事は分かった。
それでも厳しい言葉をかけてしまい、暗い顔のまま家に帰してしまった。
翌日、私が美容院帰りに実家に寄ると弟がちょうど居て、たわいもない話をした。
「お姉ちゃん、髪短いと従姉妹の○○ちゃんに似てるね」
まさか弟と話すのがこれで最後になるなんて思いもしなかった。

夜21時、祖母からすぐに実家に戻って欲しいと連絡があった。

実家の周りは、消防車と救急車、あとからパトカーまで現れて、騒然としていた。
両親が叫びながら救急に乗り込むのが見えた。
私と、同じように呼び出された妹が、家にも近づけず、呆然とそこに立ちすくんでいた。

救急車の後、消防車が立ち去り、パトカーだけが残った。
祖母からは、部屋に戻った弟が長い間出てこないので母が様子を見に行ったら息をしていなかったと説明を受けた。
パトカーから警察官が2人降りてきて、事件性がないか確認したいと、弟の部屋に入っていった。

あまりにも現実味が無さすぎて、弟は、生還するものだと信じていた。

深夜0時を過ぎたあたりに、父から弟が亡くなったと知らせを受けた。

信じられなかった。
妹がポツリ

「あぁ、運が良い子なのに今回はだめだった」

と、つぶやいた。
あぁ、居なくなってしまったんだと、私もぼんやり思った。
お通夜やお葬式が目まぐるしく過ぎた。

両親の心が折れてしまい心配だった。
私と妹は、実家に戻る事にした。
実家は、お通夜を通り越してお墓の中のようだった。
母がみるみる痩せていき、長年の確執が馬鹿らしくなった私は母に寄り添うことにした。
そこで、母は母なりに私の事も愛している事を知った。可愛いと思っていることも。
母は人との距離の取り方が下手なのだ。
厄介な事に、それは子どもである私にも発揮される。
思い返せば、私だけでなく、母は、実の両親とも距離を測り損ねていたのだ。
皮肉な事に、弟が亡くなって、お互い抱える哀しみの共鳴で理解出来たのである。
母は、不器用な人なのだと。
あと、私には甘えやすいのだと。

弟が亡くなって10年以上が経った。

家出までして付き合った彼氏とは、弟が亡くなってすぐに別れた。
家族に対する思いが違うと思ったから。

「亡くなってしまったんだから仕方ないだろ。」

仕方ないなんて言って欲しくなかった。
私がいくら落ち込んで、悲しんでいたとしても。
私には、それが励ます言葉として響かなかった。

『時が解決してくれる』

時間が経ってもこの悲しみから抜け出す事なんて出来ないと思っていた。
母も私も、悲しくて哀しくて生きているのがやっとだった。

そんな中、光明が差したのは、音楽だった。
地元の歌手に勇気を貰った。
今の推し活よろしく、母と私で東は東京、西は山口までツアーを制覇した。
心が癒された。
満たされる事がない、底に穴の空いた心が、底が見えるくらいまでにはなった。
そこからまた人との出逢いがあり、友人が出来た。

そして、音楽違いで、Aという親友まで出来た。
何でも話せる親友だ。
弟の事も話した。
ただ聞いてくれる、その姿勢が心地よかった。
A曰く、仏が続くと仏しか来ない、慶事がくるよう結婚相手を探さないと!と、後の夫になる彼を紹介してくれた。
彼は、バカ話が出来て、ふたりで笑える人だった。
お互いがのんびりで、Aから叱咤激励されながらなんとか結婚まで漕ぎ着けた。

しかし、夫の母が入籍してすぐに亡くなった。
仏がまた続くのかと思われた中、子どもが出来た!
夫がお母さんの生まれ変わりかもしれないなんて言っていたが、生まれ変わり云々なくてもきっとお力添えしてくれたと思う。

出産は、里帰りすることにした。
そこには、私よりもマタニティーブルーになった人がいた。

母である。

何故かいっぱいいっぱいになって

「私は世話出来ないから産まれたらすぐ帰って」

と叫んだ。
仕方ないので軽く流したら、母の怒りの沸点を押してしまい、しばらくヒステリーを起こしていた。
本当を言うと、妊婦の私もいっぱいいっぱいで布団の中で泣いた。
母との距離は、相変わらずである。
そうして、夫が間に合わず、母が立ち会うことになった出産当日。
泣きの連絡でAが深夜3時にも関わらず、様子を見に来てくれた。
何をどうしてそうなったのか。
助産師さんが他のお産で居ない中、Aは、産婦人科で働いた経験から手慣れた様子で、ヒッヒッフーと言いながら私のお腹をさすり、母にそのレクチャーをを施し、帰って行った。
9時間半ほど、お産に付き合ってくれた母は、急に改心、じゃなかった、憑き物が取れたように私に優しくなった。
どうやら私のお産に感心したらしい。
自分の時のことは忘れちゃったようだが、お産を乗り越えて同じ母になった私が尊く見えたようだ。

そして、孫可愛さに前言を撤回することにしたらしい。
私が産後2日目で恥骨結合離開で歩けなくなり、退院しても座ったり立ったりが不自由であった為、母の協力は非常に助かった。
とはいえ、実の母ではあるが、めっぽう気を遣ったのは事実である。

母と私は、まだまだ距離を測りかねるが、孫=私の息子の可愛さで今一度共鳴出来ている。
嬉しい事に、今度は慶事で。

弟の事は、決して忘れる事はないけれど、幸せになってもいいんだ、心が満たされてもいいんだという許しを息子から得た気がした。

母も孫=私の息子から何かしら感じるものがあればいい。母が孫に大変愛情を注いでくれていることは分かるから。
暴れん坊でお世話が大変などと余分な事は言わないでいてあげて欲しい。

ちなみにAは、私の妹と同じ歳の娘がいるが、

「お母さん、お母さんみたいな人をヘリコプターペアレンツ、今だと毒親っていうんだよ」

と言われ、怒り心頭だった事がある。
その前に、Aも娘の就職先が大学の専攻と違った際に

「投資の失敗」

と言って怒らせた事もあった。

でも、これだけポンポン言える関係って羨ましい。
本当の毒親に毒親なんて言えないと思う。

私もこれから息子とどうやって親子の関係性を築くか模索する日々である。
母は、私とゼロ距離で接するが、私は息子とその距離をどうしたら良いのか。
息子に母親として成長させてもらっている。

#創作大賞2024

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