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【小説】嵐の後には凪がくる 1

頭のさきから足の指まで、風が通っていった。昼までの溶けそうな暑さとはうってかわって、夕方になると強風が吹き荒れた。まだ太陽がいるはずの夏の横浜が、灰色に塗られていった。次の瞬間彼女の体はみるみる飛ばされた。足元から風にお姫様抱っこされるように、ひょいと体は宙に浮かび、ジェットコースターの回転のようにぐるんと一周した。しかし体は軽く、どんどん上に上に持ち上がっていく。重力のない世界で体は自然の驚異にさらされた。上から灰色のマンションを見下ろした。幸運なのか、彼女の脳ミソは機能せず、ただ一瞬のうちに長い夢へと飛ばされてしまった。

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 彼女の生きた30年は一貫して幸福であったと彼女の口から聞いた。彼女の耳に「この世は絶望である。」とはじめて入った時はそのような考えが存在し得るのかと疑った。大学でショーペンハウアーを学んだ時まで疑いは晴れなかった。同じ講義を取っていた彼は言った。幸福は相対的なものであり、「幸福」が存在するには、「不幸」が存在する必要がある。不幸を毛嫌いし、受け入れられないのならば、幸福を遂行する資格はない。と。
彼女は憤慨し、幸福は絶対条件で存在しうると反抗した。彼と彼女は相反する思考を持っていた。だから2人が付き合うのは必然だった。出会って5年。彼は彼女に好意を抱いたのは出会ってから3年。あとの2年はまあ、惰性である。
現在に戻ろうか。彼女の体はみるみる持ち上がり、ついに13階建てのビルを見下ろした時、真っ逆さまに落ちた。それは、一瞬飛んだように見えた。美しく舞う夏のトンボのように、彼女は落ちた。こうして、彼女の体は地面に叩きつけられ、街の秩序を乱すことになったのだった。

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「私の人生は幸福だった。」と一概に言い切る人類は、現代において数少ないと、私は思っている。人は大概、人より自分は不幸だ。恵まれなかった。だからこれができなかった。と、自分の周りの環境を要因にして、自分の無力を隠す傾向にあるからだ。
それに対して彼女は多くを望まなかった。夢を持たず、明確な目標もない。ただ人並みに。人並み以下でもいいや。といった能天気な心持ちだったのだ。しかし、彼女にとって幸福の追求は消して能天気という言葉で片付けられなかった。四宮小春、30歳は、どことなく、常に死期が近いような雰囲気を漂わせていた。小春は常に、幸福を求めて焦っていたのだ。

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彼女を殺したのは50年に1度、未曾有の災害と謳われる大型台風だった。大都会東京に、竜巻が出現した。被害者10名。うち2名が死亡、3名は重症、5名は軽傷であった。中でも小春の死に方が最も残酷かつインパクトのあるものであったため、兎に角世間から注目を集めた。やれ神の仕業だの、未確認生物のせいだの、小春のみが浮き上がったあの瞬間に関して、様々な憶測が飛び交った。台風から一週間も経てば、科学者が「自然の脅威」という言葉で結論を出し、それ以来1部小春の知り合いを除いて好奇心旺盛なコンピュータ好きの話題に上がることはなかった。

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