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noteをはじめるきっかけ-すずころ日和 漫書つれづれなるままに-

以前投稿した記事でも少し触れたけれど、noteを始める後押しをしてもらった本。

本との出会いは面白い

アウトプットの一環として始めてみた読書録。MacBookを買ったものの、何をしていいか分からず3ヶ月経過してしまった私にとって、単純に文字をうっていく。ということなら出来そうとはじめたのも理由の一つ。Macの使い方としてもったいないのは重々承知しています。いずれ、イラストも描きたいと目論んではいるんです。
読書録ですが、読み返すとたった1ヶ月ほど前のことも忘れている自分にびっくりするのと、そうだったな、と思い出させてもらえることに気づく。これ、いいかも。

誰に見せるつもりもなく、思うがままに書いたものですが、少しずつnoteにものせていこうと思います。少しでも興味をもっていただけたら嬉しいです。


漫書づれづれなるままに
~皐月の読書録 1~

タイトル:きみのお金は誰のため
作者:田内 学

 経済教養小説。との帯と本の表紙がきになっていた「きみのお金は誰のため」を一昨日二日にかけて読んだ。予想とは全く違う「お金」についての考え方、捉え方を見せてくれる内容に、戸惑いながらもとても新鮮な気持ちである。
 主人公の「僕」は中学生、偶然しりあったキャリアウーマンの女性と共に、錬金術師とよばれるお金持ちから、お金について学んでいく。というストーリー。これだけみると、どうお金が動いて、どう富を築くか。という話かと思うが、本書は最初から予想外の始まりを見せる。「お金自体には価値がない」と。トランプの紙とお金の紙。何が違うんやと。お金は、ただの紙切れに過ぎないと。その証拠に古い紙幣は日銀で毎年30兆円処分されている。「お金」自体に価値があるなら、なんで燃やすんや?と。

 「お金」がどうやって始まり、なぜつくられ、それが広まってどうやって今に至るのか、というところから物語は始まる。大昔、人々は物々交換によって生活を営んでいたが、それでは物も過座ばる上、お互いの物が欲しい人がいないと交換ができない、と色々と不便だった。そこで、貨幣が登場し、物を売って貨幣を手に入れ、その貨幣で欲しい物を手にいれる。というのが、私の理解だったが、それは間違いではないけれど、正解でもなかったようだ。貨幣、をまず信用できるものとするため、最初は貨幣はいつでも金と交換できたのだという。また、庶民が貨幣を必要とする為の策として、税金を貨幣で収めることを政策として行い、庶民が必死で貨幣を手にいれようとするように仕向けたという。こうして、貨幣経済は急速に広がり、私たちは「お金」自体に価値があると思い、お金は何でも叶えてくれるためのとてつもなく便利で力のあるものとして認識するようになった。と。

 おおまかでいえばそのような内容であり、「お金自体に価値がある」のか?を、自分の中の概念をグラグラとお金持ちのボスは揺さぶってくるのである。
 本書を読んで、考えてみる。たとえば今飲んでいるコーヒーはドーナツとセットで589円だった。私は美味しいコーヒーと甘いドーナツを手に入れ、お洒落で開放的で暖かい店内でゆっくりと本やパソコン作業ができている。
 では、ボスのいう、このお金の向こうには誰がいるだろうか。
 単純に考えれば、カフェにお金が入る。働いている店員さん、お店のオーナー。そこまでで、以前の私は終わっていたが、その向こうも見てみると…コーヒーは焙煎している工場、豆を輸入する運搬業者、生産者。ドーナツも同じく、製造工場、小麦や砂糖の卸業者、運搬業者、生産者。驚くほどたくさんいそうだ。ああ、ドーナツは紙に包まれていたから、その製造もコーヒーやドーナツとは違う分野だろう。食事の提供にはトレー、食器、紙ナプキン、お手拭きもあった。わたしという水たまりから流れる先には、こんなにも多くの別の水たまりがあるのか。
 私はコーヒー豆も小麦も砂糖もつくれない。豆が手に入っても焙煎できない。同じ小麦を使ってもこんなにふっくらと美味しいドーナツは作ることはできない。お金の向こう側には、常に自分が思う以上の多くの人がいて、その分野で活動している人がいる。お金を払う人がえらい、のではない。とボスが言いたいのはそういうことらしい。お金の向こうには「人」がいるのだと。
 想像力をちょっと持てば、自分では作るのが不可能なモノを提供してもらっているという、当たり前の事実に気づくことができるのに、どうして私は思いもしなかったのだろう。コーヒーを作ってくれた人、それを美味しく提供してくれる人、その人たちがいなければ「お金」はお金というモノだけでしかない。うーん。お金は、道具や手段でしかない。お金自体には「価値」がない。お金ではなく、いつも「人」を軸に考えてみる。ああ、キーワードは浮かぶけれど、消化しきれていない自分がいる。私は一読した今も、頭の中で「やはりお金には力がある」と思っているのだ。

色々な豆を日替わりで楽しめる幸せ

 そういえば、ここのカフェはマグカップ持参で20円引いてくれる。ずっと「20円くらい」と思っていたが、よい保温マグをプレゼントでもらって以来、マグを持参するようになった。この20円は、使い捨てカップ代だと思っていたが、お店では食器を選択することもできる。調べてみると年間800万カップ分マイタンブラーで販売されているという。サスティナブルな取り組みということと、オリジナルグッズを毎シーズンこまめに発売しているところから商業的な意味もあるのだろう。この20円の向こうには、値引きを得に感じる人と、環境貢献活動をしていることを世間にアピールでき、またグッズを売ることができる人がいる。使わなかった20円は水たまりに残り、また別の水たまりにいくことができる、ということか。これだけ考えると、視点が経済の循環にとらわれてしまう。

 ここで本書を読み返してみると、そうだ。重要なことがかいてあった。「経世済民」(けいせいさいみん)これは本来、経済はみんなが協力して働いて幸せになるためにある、という言葉だそう。だれかが働いてくれているから、私たちは受け取るものがある。これは自分の労働もそうだ。お金のために働く、ではなく喜んでくれる人がいるから働く。喜んでくれる人がいないなら、それは労働の無駄遣いだというのも、新しい視点だ。

 「お金」が絡むかは、労働の本質には関係ない。本来、働くこと自体が誰かのためになる行為そのものであり、誰かの問題を解決している。お母さんがごはんを作るのは、家族の空腹を解決し、お父さんが洗濯をするのも家族の衣類の清潔を解決してくれている。私たちが仕事としていることも、たとえば警察として働いている人がいるから、私たちは安心して生活できている。人、僕たち、というコミニュティを広く捉えて考えていけば、社会はもっと優しいものに見えてくる。
 「働くことは誰かのためになる行為」そこにお金が発生しているかではなく、誰かの問題を解決している。誰かの問題を解決し、喜ばれることは仕事としてお金を受け取ることもできる、ということでもあるのだろう。
 今「働いていない」私は、「お金を稼いでいない」「仕事をしていない」という意味で使っているし、思っていた。でも、私は家族のためにごはんも作るし、洗濯も掃除も片付けもする。犬の世話もする。七海さんも言っていた、子育てや専業主婦が「働いていない」という違和感は私もあったが、これに対する回答としてはとてもわかりやすく、しっくりくるものだった。
 お金の向こう研究所は、綺麗事のようで真実を言っているとも受け取れるから不思議だ。この学びを続けてみたいと、初めてラインのオープンチャットを登録しみた。ずっと気になっていたnoteも登録した。
 「勇気をもって」「行動する」「わからないことは調べる」を、すべて完璧でなくてもやってみよう。三日坊主でもいい。やってみたことで、たとえばラインのハードルは少し低くなったしnoteにもやっとアクセスした。これは思っていたよりも使いやすそうだし、ブログよりも私向けな気がしている。
 ああ、「わからない」けれど、もう少し調べてやってみる。やってみるんだ。





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