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背中

 前から来た女に右肩裏の肩甲骨のあたりを刺された。とっさのことだったので、声も出ず、むしろ女の方がわめいていた。追いかけようとしたが、女は猫のような身ごなしで、すぐの角を曲がってしまった。背が痛むので足が前に出ない。前から来た女になぜ背を刺されたのか、理不尽で判然としなかった。女は来た方へと逃げて行ったから、振り向くこともなかった。息が荒くなっているのもどうも釈然としない。

 近くにカップルと思われる男女がいたので、救急車を呼んでくれと頼んだ。そのときは大声が出た。しかし、事件に関わるのはまっぴらだとでも言うように、男女は女が逃げたのと同じ方へと走り去ってしまった。こんな馬鹿な話があるものかと、角の先めがけてもう一度目一杯の声をだした。街角と用水路に声は力なく落ちた。背中から血が流れた心地がした。傷口が見えないので確かめようがなかった。痛みの感覚は背中半分を覆い、さらにその全体へと侵攻していた。どうしようもない。私は膝をついて目を閉じた。布団に横になりたかった。

 しかし、少しすると先ほどの男女が助けを呼んでやろうと戻って来た。どうも気が変わったらしい。なぜ一度逃げたのかと問い詰める気にもならなかったので、男女に連れられるままに車に乗った。彼らの車らしいが、運転手はやたらがたいのよい別の男だった。男女はその運転手に、病院まで、とだけ告げてドアを閉め、手を振った。気遣いなく閉めたので、背の傷口が脈打ち、彼らへの怒りを思い出した。

 もう刺した女などどうでもよかった。実際、顔も背格好も年齢もなにひとつ思い出せなかった。というより、そもそも覚えてすらいなかった。目にうつったのは確かだが、見たと言えるかといえば怪しい。

 きっとどこかで息もなく待ち構えているあの白いフクロウのような防犯カメラが、そのうち女の顔を暴くだろう。女の顔を前にしてから、はじめて思い出せばよい。ありふれた顔の女に刺された自分を情けなく思い、気だるさのなかに呪った。いや、結局どうでもよかった。刺した女など話の種にすぎない。むしろ一度逃げた男女の方が癇に障った。背が痛んで、息をするのも億劫に感じた。

 車は合流に差し掛かっていたが、本線が渋滞していたので、1台ずつ車線に入っていた。しかし我々の車の番になり合流しようとハンドルを切ったとき、猛々しいエンジン音とドンという嫌な音、それにともなう衝撃があった。背中の痛みが非常に面倒な重荷に思えた。ため息をひとつついた。

 後ろの車の運転手が車から降りたのが気配でわかった。排気音の中で、扉をしめた際の車体の微妙な浮き沈みの振動が、背中の傷口にこたえたようだった。

 案の定、運転手は怒り狂っていた。その怒りの矛先は、なぜか後部座席の私へと向いた。窓をあけろとしきりにガラスをたたく。その音と振動がいちいち背中に響く。何をそう騒いでいるのだ。今にも窓ガラスをかち割らん勢いだ。早く病院のベッドに横になりたい。処置を施され、楽になりたい。

 男は、ガラス越しに私の表情を読み取り、背中の方に目をやった。男の顔色が変わるのがわかってホッとした。私は傷がどんな状態か尋ねようと、背中の方に首をやりながら、ふるえる口を締まりなく動かした。男の顔がみるみる青ざめていった。どうやら呪いの言葉でもかけられているのだと勘違いしたらしい。男は怯えて逃げ帰ってしまった。

 病院に着くと、建て替えの工事かなにかで閉鎖されていた。

 運転手が

 「どうしましょうか」

 と聞くので

 「どうしようもなにも病院に行ってくれ」

 と言うと、

 「病院はひとつじゃありませんしね」

 と至極当たり前のことを返した。

 「別を考えるので1本タバコを吸わせてくれ」

 と言って運転手は車をでてしまった。

 面倒も痛みも通り越して、怠惰な気持ちに沈みきっていた私は、運転手の勝手な振る舞いをむしろ心地よく感じた。傷はすでに癒えはじめている気がした。膝小僧の擦り傷のように、かさぶたが出来て、傷をふさいでいく。そんなイメージが背中に芽生えていた。

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