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#3 なぜ学ぶのか
■別解を求めよ
「教育」や「学ぶこと」の意義について、教職志望の学生とディスカッションすることがある。
可能な限り、私が答えを導き出すようなことはしないよう心がけている。
ネットを検索すれば、いろんな意義や役割は出てくるだろう。
調べる隙を与えず、唐突に学生に問いを投げかけてみる。
「知識・技術を身に付けるためだと思います」
「社会で活躍するための資質・能力を養うことです」
「自立の能力を身に付けさせることじゃないですか・・:・・・」
「得意なことや個性を伸ばすことかな・・・・」
どれも正解。
誰かが口火を切ると、堰を切ったように次々と、いろんな意見が出てくる。
学びの当事者の心の内から紡ぎ出される言葉には、それぞれの正義や真実がある。
偽りのない自分なりの思いだ。
それも正解、あれも正解。
別解はいくらでもある。
もっと、もっとたくさんの答えを導き出せ。
どんな学習歴、生活背景を持っているかで出てくる答えはさまざま。
小中高、大学の各段階での学びは、すぐに役に立つことばかりではない。
教科・科目を通じて、それぞれの特性に応じた思考のトレースを繰り返し、それを応用することが大切なのだろう。
しかし、知っていれば、いつかどこかで何かの役に立つ。
むしろ、そのほうが多いといえる。
何でも実学、実践、即戦力などという言葉に踊らされてはいけないと思うのである。
何年後に役立つか分からないけど、見えない形で生きる力として身の内側に刻み込まれ、将来、自分で問題を解決するにあたって手がかりにできることもある。
人生、ひとりで考えて思考・判断し遂行しなければならないことはいくらでもある。
大抵の場合、できる生徒は発達段階の各過程でそのような意識が身に付いていく。
できないことは「協働」で成し遂げようというマインドが必要なことに気付く者もいる。
逆に、「この学校に入れば、なんでも教えてくれて何かできるようにしてくれるんだ」という発想でいる生徒は案外たくさんいる。
後になってから、「学校案内パンフレットに書いてあることと違う」「だまされた」などと、学校の体制をボヤいたりするのである。
教師や親、大人たちの責任でもある。
確かに、教育制度のことを語れば、いくらでも欠点は指摘できるし、改正すべき点は多々ある。
学校教育が何をやるべきか、何をやっているか透明性を高めるために、文部科学省は広く国民に向けて学習指導要領をはじめ中教審の審議過程や答申、各種政策や国としての教育事業に関する情報を公開している。
意見も受け付けてくれる。
教育機関は将来を約束してくれる自動安定装置ではない。
依存するための場所でもない。
それでも、国として最低限必要なミニマムスタンダードを提示し、「これから新しい教育をします!」と宣言したわけだ。
具体的には、世の中を生き抜いて行くための術を学ぶという意識を持たせることも必要だ。
「これを学ばないと上手くやっていけない(飯が食える大人になれない)」という危機感や飢餓感のようなものがないと人間は必死になって学ばない。
学校は「学び方を学ぶ場」という言い方もされている。
年齢は関係ない。
60歳を過ぎた私でも学ぶべきことが山ほどある。
棺桶の中に入れてあの世にまで持って行き勉強しなければいけないくらいある。
■非日常的な空間の中で何が身に付くのか
実際のところ、世界は学校以外の組織で占められている。
世の中に占める学校の割合は極めて小さい。
しかし重要度は極めて高い。
学校は実社会とは一線を画す形で隔離された非日常的な空間だ。
失敗しても庇護される世界でもある。
現在は、外部との連携も重視されているが、それでも多くの時間は学校内の活動で占められている。
児童・生徒はやがて卒業していくが、教師はずっと教師のまま同義反復で生きていく。
過去の成功体験にこだわりを持ち、「これぞ私の生きる道!私は教育ののプロ!」と信じて邁進する。
なかには勘違いして浮いてしまう場合だってある。
生徒は文句を言いたくとも、「成績・評価」という利害関係の力学が邪魔をすることは多い。
特殊な世界かもしれない。
いや、どんな組織も一緒か。
学校教育が国家を支える人材を育成しているのは紛れもない事実である。
学校の「成績・評価」は、学習の程度を反映しているという意味で、学校にいる間は重要な指標になるが、世の中をサバイバルしていく力があるかどうかは数値化できない。
「いい高校」「いい大学」を出たのにアレだね・・・・
自立の欠如を嘆く場面は結構多いが、「いい学校」の定義は人によって意見が異なる。
若者の自立能力の低さは、実は社会の構成員である大人の責任でもある。
大人は、みんな一応 “ オトナ ” なので決定権があって、多くのことを自ら判断し意思決定している。
私たちオトナは、果たして「合理的な判断」「最適な判断」ができているだろうか。
逡巡することなく、感情に任せてネット上で自己主張し、誹謗中傷しているオトナの背中を見て育つ子どもたちもいる。
■不登校・不適応の問題
学校に行かない(行けない)子ども達の学びはどう捉えたらよいのだろう。
彼らは何も身に付けられずに社会に放り出されるのか?
不登校や不適応は、何が何でも再適応させることにこだわらなければならないのか?
フリースクール、学校内外の居場所、セーフティネットは増えている。
でもまだ十分とは言えない。
そんな投げかけをしたら、学生達が「ちょっと、頭がいっぱいなので宿題にさせてください」と言った。
宿題か・・・・自ら宿題なんて言う?
宿題が大嫌いだった小学校時代の嫌な思い出が蘇る。
思考は続く。