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#5 今だから見えること 〜教職人生〜

高校教師を退職し大学に勤めて改めて自分の仕事の原動力が何であったかが見えてきた。

もっと早くに気が付けよ、と言われそうだが、日々の雑事に追われて目の前の課題をやっつけることで精一杯の教職人生だったのかもしれない。

若い頃は、教師になろうと思ったあの時の純粋な志よりも、「この仕事、自分には向いていないかも・・・・」「あの人と一緒に仕事するのキツイな・・・・」とネガティブな思考のほうが勝っていたような気がする。

何をやるにしても、対人スキル、調整能力が求められる。
あーあ、なんて大変なんだ、と。

それを何とか乗り越えてきたのは、折に触れ、心の立て直しを図るきっかけを与えてくれる人との出会いや、素敵なコト体験があったからだ。

生徒であったり、保護者であったり、先輩・同僚諸氏の存在が様々な気付きと学びを与えてくれた。

時に、異業種の方々との交流で勇気づけられることもあった。

今は高校教師の仕事を離れて、高校教育を俯瞰する立場にある。

ひとつの仕事を全うし、管理職という重責から解き放たれて身軽になったこともあり、客観視できているのかもしれない。

見方を変えれば、責任の伴わない批評にもなりかねない。

■こころを突き動かすもの

現在の原動力は実にシンプルだ。

学ぶこと、学び続けることに特化して、学生と共に探究している。

基盤になっているのは、現役高校教師だった時のこと。

自分が向き合ってきた教え子たちが、40代、50代になり、時折再開すると、「今だから言えること」の話に花が咲く。

そこでは「私が知らない私」のことを語ってくれる教え子もいる。

へえ、そんなふうに見ていたんだと思わず感心する。

学級担任としては延べ200名、教科担任としては年間に5クラス200名くらいは向き合い、それを30年以上続けてきたのだから相当な数の生徒と出会ったことになる。

「あの時、先生に見捨てられていたら今の私はない」

「本当に迷惑のかけっぱなしだったけど、先生に出会えてよかった」

「眠い授業だったけど(笑)、例え話をするときが独特で面白かった」

「男子には厳しい先生でした(笑)」

ことさらフェミニストというわけじゃないし、女尊男卑というわけでもない。

若いころは、ジェンダーフリーなどという言葉は浸透していなかったが、私自身、どちらかといえばフリーに対して寛容だったような気がする。

教え子たちは、よく覚えているもので、私の語り口調や身振り手振りの癖を真似たり、板書の仕方、デカイ文字、サプライズするとすぐ泣く先生だった・・・・・といった特徴をあげる。

あの時は面と向かって言えなかったことも含めて、互いに過去の記憶を掘り起こしてみんなでゲラゲラ笑い合っている。

そのつど、生徒たちと真剣に向き合ってやっていたのだけど、目に見えて効果が感じられるわけではなかった。

勉強や資格取得は測定できるが、人としての成長はなかなか可視化できない。

それでも、10年後、20年後、30年後に教え子たちの姿を見て、いろんな言葉をもらって、ああ、この仕事でよかったなと思うのである。

言葉ではなかなか説明しづらい感覚だ。

氷の上に種をまき、砂漠に水をかけるような虚しさを覚えるようなこともあったけど、ずっと後になってから教え子たちの言葉に救われるのである。

それが、ダメだと思っていた自分自身を認めるきっかけにもなるし、こころが熱くなるのである。

もちろん、私一人で生徒を育てたわけではない。
彼ら彼女らが、その後、誰かの支えによって成長しているのだ。

自分なりに培ってきた教育の手法が「不確実の時代」に通用するかといえば、やや心もとない。

大学で教職課程も担当している。

そこで学生と共に立てる問いは「なぜ学ぶ」「なにを学ぶ」「どう学ぶ」「教師になって何がしたい?」だ。

優等生的な答えがたくさん返ってくる。

そこで私はイヤラシく意地悪く切り込んでいく。

「で、学んだ先に何がある?これからの時代はめまぐるしい勢いで変わっていく」
「多くの若者が思い描いていた目的・目標がガラガラと音を立てて崩れて喪失感に苛まれているじゃないか」

これから先をどう生きていくのか。

未来をどう見据えるかが大事になる。

■学びの先にあるもの

教科・科目の枠組みを超えた活動は多岐にわたる。

見える力、見えない力を身に付けようとしている若者たちは、やがてどこかの世界で身を立てる。

私は微力ながらも、その支援をしている。

時代が変わり学生の気質も変わった。

歳を取ったから彼らのことが子どもっぽく見えるのか?
それもあるかもしれない。

しかし、時代背景が明らかに違う。

彼らが当たり前に所有しているスマホは超小型コンピュータである。

ネットにアクセスすれば、要・不要の情報が混在し、彼らはその世界をさまよいながら、社会の中にあふれている認知バイアスまでも飲み込んでいる。

大切なことは何か、気付かせる必要がある。

そんなことも念頭に置きながら、教師の守備範囲がどんどん広がっている。

めんどくさいなと思うのが普通だ。

教職の志望動機としてよく聞かれる「子どもが好きだから」「教えることが好き(得意)だから」だけでは行き詰まる。

どんな職業も好きだけでは務まらない。

好きじゃないこと、嫌なこと、面倒なこともセットにして請け負うからお金をいただいている。

責任を負うことに対する対価だ。

■世界は誰かの仕事でできている

その仕事が社会の中でどう役立っているか、そこに自己の使命や生きがいを見出せるか?と、学生に問いかけている。

その問いはそのまま私に跳ね返ってくる。

当然、学生たちの人生の物語の一部に関わるのだから、相応の責任が伴うことを自覚しなければならない。

つくづく複雑で難しくて面倒な仕事だと思うが、面白い。

私の仕事も役に立っているのだと思いたい。