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僕の人生の旅路と、共に歩む仲間を探しに 1.僕と仕事

僕と仕事

 2021年春、僕は17年間勤めた新聞社を辞め、ベンチャーに入った。大企業を去り、不安定な世界に飛び込む姿を応援してくれた人もいれば、退社の挨拶から目を逸らした人もいた。でも全く気にしていない。ネガティブな視線ももっともだし、それこそ価値観は多様だということを教えてくれる。それでも僕には、目の前の安定と引き換えに現実から目を背けることはできなかったし、本心を騙すことは苦しかったし、志を無くすことは悲しいことだった。
 この気づきは全て、会社が教えてくれた。だからこうして今、自分の気持ちをさらけ出すことで、お世話になった精一杯の恩返しをしたいと思う。そして、たくさんの友人たちが「まるで自分のことみたいだ」と言った意味もまた、少しでも伝わったらいいなと思っている。

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プロフィール
鈴木孝英(すずきこうえ)
1980年生まれ。高校まで秋田で育ち、大学卒業後2004年に朝日新聞社入社。在職17年の間に販売局、編集局を経て、2021年5月にソーシャルベンチャーMIKAWAYA21株式会社に取締役として参画。
旅を愛し、47都道府県踏破。バックパッカー渡航歴は約20カ国。
全ての人に役割と居場所のある社会を目指しています。

                 ◆

2004年4月。
「俺もついに、マスコミの一員か」
そんなことを思いながら入った新聞社。当時は就職氷河期と呼ばれ、共に就活する仲間は次々に就職浪人や大学院進学にシフトしていった。けれど僕にとって就職は秋田に住む親への恩返しだったから、くじけるわけにはいかなかった。大学のキャンパスで電話を受けた喜びの瞬間は今でも覚えている。
 入社した新聞社は、世の批判を受けることも多々あるけれど、教養のある素敵な人が本当に多かった。肩書きではなく「さん付け」で呼び合う自由な雰囲気が大好きで、当時はまだ少し珍しかったピアスの穴にも理解があった(よくイジられはした)。
 

 調子に乗った学生時代を過ごした僕は、会社でも同じように振る舞えると思い込んでいた。

バレンシア

(学生時代のバックパックで、大ファンだったバレンシアのスタジアムに。地元サポーターと一緒に応援し、その後は大宴会)


 その思惑は大きく外れ、配属された販売局で当時最も過酷と言われた部に配属された自分は、社会の厳しさを「これほどまで!」というほど味わっていた。親も、そのころ同棲していた彼女もさすがに心配し「そんなに辛いなら辞めたほうがいい」と言った。

でも、それは悔しかった。

 ストレスによる過食で体重が15キロ増え、ヘルニアになり、急性喘息に罹った僕は、痛み止めを飲み、ステロイドを吸い込み、15キロくらいある荷物を背負い、必死についていった。ひどい姿だったと思う。
 二度とやりたくない、でもなにより成長させてもらえた1年を経て、自分は仕事で怖いものが無くなった。これだけ努力している人は、そうはいないだろう、その時はそう思っていた。

ここまで読んでくださった人にも、そうでない人にも、
素晴らしい今日がありますように。
ありがとうございます。
続きます。

その2 僕は働く

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