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僕の人生の旅路と、共に歩む仲間を探しに 2.僕は働く

僕は働く
 

(「1.僕と仕事」はこちら)

 入社四年目の2008年には北京五輪があって、今も尊敬する上司の推薦もあり、プロジェクトで北京に行った。その日の新聞を日本から空輸し、現地法人や観戦客に読んでもらうという取り組みは、中国という国の独特さもあり想像以上にややこしかったが、心強いステークホルダーとともにシステムを作り上げることができた。
 余談だが北京では少し切ないロマンスもあって、これは映画になるんじゃないかと個人的には思っている。ちなみに当時の中国に今ほどの厳しさはなく、毛沢東を風刺するセンスのいいTシャツなんかも売っていた。

北京

(現地の学生アルバイトたちからのメッセージ。日々勉強漬けの彼らにとって、人生初のアルバイトだったという)



 2009年からは、当時最重要と言われるエリアを担当した。過去に20代で担当した人はおらず、のちの部門トップから「俺より若くしてやるんだから、死ぬ気で頑張れ!」と激励してもらったことを今でも覚えている。

 3年間走り続けた。ダウントレンドの中、読者を1年間減らさないという、もう二度とできないだろう結果も出たし、力のある若い経営者がチャンスを掴み、どんどん経営規模を拡大していくのが嬉しかった。

そうして起きた3.11、東日本大震災。

 僕は真っ先に宮城に向かった。予備校と社会人とで2年過ごした第二の故郷でのミッションは、取引先の安否確認だった。現地入り後も余震は続き、食事のたびに「これが最後の晩餐にならきゃいいね」なんて言っていた。
 幸いにも関係者全員の安否が確認でき、東京から送られてきた食材を販売店に届けていると、ある経営者夫人が言った。                  

「鈴木さん、欲しいのは食べものじゃなくてガソリンです。今も避難所で、情報を待っている人がいるんです。そこに新聞を届けるのが、私たちの使命なんです」

 涙を流しながら訴える姿を目の当たりにした僕は、ガソリンを入れる缶を各店から預かると、インターチェンジから高速に乗り、サービスエリアで給油した。前後を挟むのは自衛隊の装甲車だった。

 なんで高速に乗れたのか?わからない…でもなんとかした。ルールも前例もない時は、覚悟を決めてやるだけだった。とにかく僕は無心でガソリンを配り続け、販売店は新聞を配り続けた。中には自宅が倒壊して避難所に寝泊まりしているスタッフもいた。極限の中、ガソリンと新聞が、ぼくらを繋げていた。
 
 放射線量の懸念もあり、後任へ任務を引き継ぐことになった僕らは、中継地の那須で早朝、10日ぶりの温泉に入った。

よかった、生きている。

 忘れられない大きな痛みと、果たすべき使命感との出会いが、生きることや働くことについて深く考える契機となった。わかったことは、地域で商いをするということは、地域の一員となり、地域のために汗をかき、地域にとってかけがえのない存在になるということだった。

「あなたがいてくれてよかったと言われる商売をしよう」
 それからはこの言葉が、僕の指針となった。
 

 その視座から現実を見ると、販売店の多くは悲しいくらいに地域と断絶していた。地域コミュニティとの関わりは本当に稀で、むしろ嫌がられてもなんでも、営業のためのインターホンを押す。
 確かに、やればやるだけ契約は揚がる。でも、9割以上の消費者が訪問営業に否定意見を持つ(消費者庁「消費者意識基本調査より」)時代に、その陰ではいったいどれだけの家庭が嫌な思いをしているのか。そして、やりたくない仕事を強要されている従業員さんが、本当に自信を持って商品を案内しているとは思えなかった。
 
 営業活動は必要だ。どんなに素晴らしい商品にも買ってもらうための手順がある。けれど、お客様との信頼関係がストックされて、納得して(できれば愛して)購入してもらいたいはずが、もし仕掛けるたびに信頼を失ってしまっているとしたら、本末転倒だ。
 
 やりたくない汚れ役を誰かにやらせて、あげく未来を先細らせてしまうシステムは、いったい誰のためのものなのだろうか。悲しいことに、同じようなことは会社の中でも起きていた。いや、僕は恵まれていたから気づけなかっただけで、もっと前から、個人や組織が疲弊する仕組みは、着々と出来上がっていた。個人の価値観としても、社会的意義としても疑問の残る役割を、同僚は歯を食いしばりながら黙々とこなす。その辛さを知ってか取引先もまた、苦しい我慢をする。
 
 そうまでして守りたいものは、一体なんなのだろう。個人の成長が組織の成長に貢献にする、そんな社会を望んでいたはずだったのに、組織のために個人が犠牲になり、結局組織も力を失ってしまう。そんな社会に加担してしまっていた。

こんな働き方を、子どもたちにさせたいか。

こんな生き方を、親は喜ぶか。
その時僕は、自問していた。

ここまで読んでくださった人にも、そうでない人にも、
素晴らしい今日がありますように。
ありがとうございました。
続きます。

その3 それでも、僕は働く

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