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【ヒデコ日記①】 ヒデコの進路指導

facebookで、ヒデコ(母、でぶ)のことを「ヒデコ日記」というタイトルでたまに書いている。ヒデコにまつわるコラムも電子書籍で書いたことがある。その原稿を時系列もバラバラながら、ここに少しずつアップして残していこうと思う。ヒデコがこの世を去った時、読んで思い出すために。


レタリング。明朝体。トレーシングペーパー。ポスターカラー。ケント紙。エアブラシ。当時、小学3年生で、この美術用語を知っているのは、学年でも僕とヨシユキ(同級生の秀才。父は教師)ぐらいだった。夏休み、学校からポスター募集の課題があった。「明るい選挙」や「消防キャンペーン」、「交通安全」、「運動会」などのテーマの中から、描きたいテーマで、描きたい人が出す課題。1人1枚出せばそれでも褒められる。
僕は、ヒデコ(母、でぶ)のせいで、全テーマ(5枚ぐらいあったかな)のポスターに応募し、全てに賞をとってアホみたいに天狗になっていたことがある(笑)

なぜ賞を取れたかといえば、小学生なのに、画用紙とか普通の水彩絵の具とかでなく、上質なケント紙は使うは、ポスターカラーは使うは、文字は明朝体やゴシック体をトレーシングペーパーでレタリングし、中学の美術で習うズルい技を、小3の分際で生意気に駆使していたからに他ならない。ちびっ子三輪車レースに、バイクで出てるようなもの(笑)。今思うと、あれは反則だ。

でも、出すポスター、出すポスター、アホみたいに賞を取れた。文部大臣なんちゃら賞みたいな、よく分からないけどスゴそうなのを取ったときは、デブなヒデコが小躍りして喜んでたのをよく覚えている。
ホントかどうか定かじゃないが、ヒデコはかつて美大に行こうとしたのだが、家が貧しくて親に行かせてもらえなかったらしい。
確かに、画材にも詳しく、絵に関する道具が、家には売るほどあった。押し入れの、ある棚を開けると、そんなに使い切れるのか?という新品の絵の具やポスターカラー、小学生が使う安い筆とは違う、竹の持ち手に「面相筆」「隈取り筆」など書かれた筆が大量にストックしてあった。

ヒデコはいつも、則幸(僕の3つ上の兄)や僕が課題ポスターを描くっていうと、まるで自分の宿題かのように嬉しそうに手伝い始めた。これまた作文同様、過去の受賞作品集の冊子をなぜか持っていて、あれこれ案を出してきた。ボロボロの薄汚いヒデコノートがあって、そこには、昔の新聞に出ていた大きなスポーツイベントのポスターや、イラストなどがスクラップされていた。今まで運動会のポスターというと、体操着を着た肌色のかわいい女の子や男の子が玉入れなどしてる様子を描くものだと思っていたのだが、ヒデコはスクラップを見せて、真っ黒なシルエットの無機質なデザイン(オリンピックの競技種目ロゴのような。あとでそれがピクトグラムという手法と知る)がいいなど、子供にとって無茶苦茶なことを提案して来た。ヒデコは「これは黒んぼじゃないでね」と言っていたが、僕には黒んぼ(黒人)にしか見えなかった(笑)

夏休みの最終日、8月31日の夜、新聞を敷いた床に丸くかがみ、ポスターの手直しをしていたヒデコの背中は今も目に浮かぶ。僕的にはもう仕上がっているポスターなのに、ヒデコ的に納得いかず、勝手に直し始める。朝刊のバイクの音が聞こえてくる明け方、ヒデコは、ついウトウトして豚のように寝てしまい、筆が滑り、はみ出す。アホみたいに、よだれを垂らしてしまう。それを慌てて直しては、またうたた寝し、直しては、うたた寝。(そんなブタ画伯が、美大なんて行けないよ!って話だが。)今思うと、絵とおにぎりが好きなデブのヒデコは「裸の大将」みたい。
「日時」「会場」などの文字は、レタリングで印刷のように後から書いて、太陽の光は、網と歯ブラシを使ってシャカシャカやると、スプレーのようにボカシが入る。僕は、ヒデコのせいで、早くからそんな技を覚えてしまった。それは今思うと小3らしからぬ嫌味なポスターだった。

僕が苦手だった作文が好きになったキッカケもそうだったのだが、賞をとると、好きになる。好きになると頑張るし、うまくなる。うまくなれば、将来そういう仕事に就きたくなる。ヒデコ仕込みですっかり絵が得意になった小5の僕。担任の先生から、将来は本気で美大に行くよう薦められ、僕もその気になっていた。しかし、その夢は、ヒデコによって、悲しくついえる。

ある日の参観日のあと、担任と進路について話したヒデコは、血相を変えて僕のとこに来てこう言った。「美大だけは行くもんじゃないでね。絵描きだけは、なるもんじゃないに。M先生、知ってるら? 旦那が磐田で一番の有名な絵描きの」と言い出し、僕は磐田で最も著名な日本画家の家の前まで、ヒデコに連れて行かれた。2人で家の前に立ち、あんなに偉大な画家なのに、どれだけ貧相な暮らしかを教えられた。「ね、始末な(貧相な)家だら? クルマも乗ってなくて、自転車はゴミ置き場から拾って来ただらーね、見てみ、サビサビだに」 
失礼なことを平気で言う親だ。「お母さんも昔、美大に行きたかったけどね、行かなくて良かったと思って。絵だけは、趣味にしとくのがいいだよ。仕事にしたら、苦労するだけ。趣味で絵がうまいっていうのは、周りからすごい尊敬されるに。でもね、仕事が絵描きになると大変。あんな、こんじぃ(乞食のこと)みたいな自転車じゃ、切ないら〜」

あの画家先生が、ホントに稼げてなかったのか、ただの節約家だったのか、真実は知らないが、子供ながらに「絵描きは儲からない、絵は趣味にしておくのがいい」と、強烈に心に刻まれ、二度と将来、そっち方面のことを考えなくなったのだけは、よく覚えている。今思うとあれは、生涯でたった一度だけの、ヒデコからの進路指導。それ以外の職業は、何になりたいと言っても、全く反対されなかった。「ブタもおだてりゃ木に登る」と言うが、僕の場合、ブタにおだてられて、木に登ったら、ブタにハシゴをはずされたような、妙な気分だった。

ヒデコの言う通り、絵は趣味にとどめた。高校のときに僕が描いた油絵の大隈講堂(※写真)は、今も実家のリビングにヒデコによって自慢げに飾られている。
(2013年の電子書籍「離婚は遺伝だでね」より)

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