掌編小説『水色スイマー』

 ゴーグルを通してみる水底は肉眼で見るのと妙に遠近感が違う。
 俺はクロールで五十メートルプールの中程まで息継ぎなしで泳ぐ。手足の先からピリピリと酸素が抜けていく。限界に達した時、水面から最小限の動作で息継ぎをする。一気に肺が膨らむ感覚がした。
 五十メートルプールの端までたどり着くと、俺は勢いよくプールから上がった。吹きすさぶ風が、もう六月になるというのにどんどん体温を奪っていく。もちろん下半身に競泳用のタイトな水着を着ているだけで、上半身は裸だ。鳥肌になった上半身を両腕で抱いて急いでスタート位置まで戻る。
「柏木、お前今手を抜いただろう」
 右隣のレーンで一緒に泳ぎ出した鞍馬が言った。
「そんなわけない。精一杯だったよ」
 嘘をついた。
「騙されないぜ、俺がお前に五十メートルのフリーで追いつけていたんだからな」
「そうだったか」
「ああ、今度こそ本気でやれよ」
「分かったよ」
 俺はこの鞍馬良太と小学生の頃から同じように水泳を続けていたが、フリーでは鞍馬に負けたことは無かった。その代り鞍馬の背泳ぎには敵わない。
 鞍馬はその黒々と日焼けして筋肉質な背中と、反対に真っ白に光る前歯が絶妙だった。鞍馬は、ははっと笑うと、自分の体をぺちぺちと叩き始めた。ふくらはぎ、太もも、腹筋、胸筋、腕の順に丁寧に叩き、体をほぐす。
 俺は横目にそれを眺めていた。
 一際強い風が吹く。
 容赦なく俺たちの体温を奪い去る。
「うっわ、寒!」
 鞍馬が外見に似合わず女子みたいな声を出した。
「高い声で悲鳴を出すなよ、気色悪い」
「うるせぇ」
 飛び込み台の先に左足の指をひっかけ、右足を後ろへ引く。ホイッスルの音と同時に、水中へと飛び込んだ。
 泳いでいる最中は完全に一人だ。水の泡立つ音と真っ青なプールの底だけに支配された世界で、俺は水を蹴る。

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