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師匠のグル、大師匠の金言ざます

 私は師匠に、個人的な背景や嗜好などをあまり質問しないのです。それは私にとって大した問題ではないからです。年齢もそう言えば聞いていません。師匠は師匠であり、お友達ではないのです。師匠がフサフサの猫を飼っているのは、写真見せて貰ったので知っています。にゃんこの名前は、レオ。ペルシャ猫だったと記憶しています。私は大の犬派なので、にゃんこ写真にはあまり感動しないのでした。

師匠の愛猫、レオ様

師匠はヨガの大家(私が思う)であり、私の長い長いヨガ学習の中では、屈指の実力?というか、はぁ~、と感嘆するしかないような、素晴らしい指導をする人です。
 私の思う充実したヨガの教え、というのは「その場を制するパワー、技術を有していること。」です。ヨガのポーズをいっぱい知ってるとか、バッタのポーズで背抜きサボったエビのフライみたいにキューっと背骨が曲がる柔軟性とか、そういったレべルではございません。

 師匠は空間と対話し、生徒の大いなるソウルの声を聞き分け、そのソウルにメッセージを届けるため、或いは怠慢によってすっかり閉鎖されたチャネルを活性化するためには、人体のどの筋肉に刺激を与えれば良いのかを、瞬間的に理解して、指導をされます。
ヨガとはユニオン、Union、(結び付き、調和)である、という本質を、短く色々と制限されたクラスの中で実戦できるという素質のある方なのである。
 ですから、そんな師匠のヨガクラスには、歓喜しかありません。

 そんな師匠は、かつて武道に打ち込んでいた時期があったそうです。私は武道の事はサッパリ分かりませんので、適当に聞き流しておりましたので、師匠が取り組んでいたのは、どんな武道だったか聞いていませんでした。確か、武闘系ではなかったです。
 ある日、師匠からお誘いがありました。師匠からのお誘いには、Yesという回答しかありません。それが師匠、なのです。
師匠が武道の稽古をしていた時代に出会ったという、師匠に「師匠へのドア」を開けた人物、師匠曰く「私のグル」という人物だそうです。私にとって師匠は、の師匠ですから、大師匠、雲の上の存在です。深々と合掌し、有難く師匠のお誘いを受けさせて頂きました。

 大師匠は、多くの弟子を輩出されておられますので、会場には、他にも弟子の方々がおいででした。雑談のような大師匠を囲む会で、特に決まったテーマは無く、大師匠への質疑応答が中心でした。
 ここでは、私は大師匠の功績には、触れません。私にとって、私の尊敬する師匠が尊敬する師匠、という事実で十分でございます。尊敬の塊のような存在だからです。
 大師匠が空を飛ぼうが、仮想通貨で大富豪になろうが、何であれ、功績や実績は、私にはどうでも良いのです。私の師匠の尊敬を受ける人物、それだけで十分に私にとっての大師匠なのです。
でも、ちょっと個人的な感想を言うと、

「大師匠、カッコいい!せくしーー」
 
そんな大師匠の金言をザクっとまとめてみました。


自分に「大した事の無いルーザー」というレッテルを貼っていた
 座っているだけの人生が本当に好きな人もいます。しかし、私は座っていると、座っている自分が嫌になります。昔からそういう性格です。
 私は若い頃、ずっと自分は負け組だと思い込んでいました。それをすっかり信じ込んでいました。それは固い信念となり、私の脳に刷り込まれていました。
 私はその「自分はルーザーだ」という考えに、すっかり説得されていました。
 そして、趣味で始めた武道がある程度上達するまで、私は自分が何かに秀でていると思った事は一度もありません。
 学校の勉強も、全く好きでは無かったし、また学問への関心も無く全く、勉強しなかったので、学業の関してはインプット通りの結果を得ていました。つまり、落ちこぼれていました。
 私は自己評価がとても低く、自分は何も出来ない落ちこぼれだと決めつけて、そのアイデアを信じ込んでいました。つまり、自分で自分を制限していたのです。
 その頃、私は他人からの私に対する評価をいつも考えていました。とても気にしていました。他人に言われた事をそのまま受け止めていました。
 これは私が本当に幼かった頃に始まった考え方で、いつしか当たり前になっていたのです。無条件反射で、他人から言われる批判を速攻で取り込む、という習性です。
それは、自分は何も秀でた事がないとか、
自分は落ちこぼれだとか、
自分は裕福な家庭の出ではないとか、
自分は背も低く、特にカッコ良くも無いとか、
自分は運動でも普通で目立つ事は何も無いとか。
自分という人間は、そういう大した事の無い人間、と決めつけていました。

 私は30代になるまで、ある事に気づきませんでした。ある事とは、

 これは全部、私が誰か他の人に言われた事であり、誰かが思う私自身なのです。
 私が盲目に信じていたルーザーの私自身、とは、私個人の意見や意思では無かったのです。
 30代を迎えるまで、私は自分の思う自分自身の現在の姿とは、私自身が、自分を探求して得た結果では無い、という事実に気が付きませんでした。
 私は、他人の評価によって自分が制限されることは絶対にあると思っています。例えば自分が好きな事を、「ダサい」と揶揄されたりすると、傷ついて、もうその事を好きなのにやめてしまったりします。逆に大して好きでもないのに、給料が貰えるから、少しは褒められるから、で仕事を続けていたります。
 他者からの自分自身への評価、は無視できないほど大きいと思います。それは、ある意味で事実です。

努力は必要でーす 
 しかし、あなたはそんなものは打破できます。つまり、自分への自己評価、は規律、自己管理、習慣にによって打破できるのです。
 そのために必要なものは、ある程度の努力と集中力とフォーカスです。それを武器に固まった思い込みを突破するのです。
 ですから、そういった意味で、学問とか芸術とか、自分が創造しようとしているもの、自分が本当に集中しているものを持つことがとても大切なのです。
 なぜなら、人間として集中するポイントを持たなければ、この人生を生き抜くことは難しいと私は思うからです。
 そして、集中が無ければ、真の自分自身との闘いに対する感謝の気持ちを持つこともできないからです。

 なぜなら、現代の私達人間の肉体的な課題は、1万年以上前の人間、穴に住居していた頃の人間に基準を置いてデザインされたという事に由来する問題が多いからです。私達がキュービクルの前で、コンピューターの前で、一日中この不自然な姿勢で座っていますが、その肉体的な課題はあまり現れないものなのです。
 しかし、人間は1日中椅子に座ってスクリーンを見るためにデザインされた身体では無いのです。使用目的が本来のデザインコンセプトから、大きく離れている事を理解しましょう。

 このような全体の状況が、人間の身体を非常に混乱させていると私は思います。私達は個人的な主権を持つために必要なテストを、受けることができないのです。自ら望まない限り、修行の場も、それに伴う成長の場も、修練、鍛錬の場も与えられないのが現代社会なのです。
 だから、あなたは自らそのテストを自分自身に課す必要があるのです。

目標を持つ事の特典
 もしあなたに何か目標があれば、人生はより良く、より豊かに感じられるはずです。あなたはその目標を追いかけ、その過程でいくつかのことを成し遂げます。
 何かを達成する事によって、あなたは自然に自信が湧いてきます。また、自尊心も高まります。自分が好きなことが何であっても、それ自体に問題は無いのです。
 あなたの好きな事は、例えば漫画を描くことかもしれないし、陶芸や彫刻を作ることかもしれません。何でも良いのです。何でもいいから、何もしない人たちみたいに何もしないのではなく、自分が好きだと思う事を、それを十分に追求するのです。

 何か行動を起こしてみる、というのは、例えばアレックス・オノルドのように、ただ岩をよじ登るだけなのに、結果的には彼は世界的なロッククラマーになってしまう、というような簡単なことかもしれません。

困難と歓喜は同じコインの裏側
 事実としては、あなたが、限界まで努力をしないと、本物のリラックスも感じる事ができません。それが人生の陰と陽なのです。いわば、一枚のコイン、表裏一体なのです。
これは、とても大切な事で、ある意味での真実です。
 辛さと歓喜が1枚のコインの表裏関係なのです。世の中の殆どは、そのように相対的に理解できるように構成されています。人間の理解、という意味で、です。

 何かに夢中になる、行動してみる、我を忘れるくらい集中し、できればその集中を習慣化する事、それは、目的を達成するため、だけではありません。
 それは何かと言うと、あなたが得た、圧倒的な集中が、それと同じ熱量の圧倒的な解放感を導いてくれるのです。
人間は、しばしば、その状態を達成感とか幸福感とか表現します。インプットとアウトプットは等号で結ばれます。

 ですから、今までに私は、何かを取り敢えず本気でやってみなさい、と、これでもかと人に嫌がれるくらい言ってきました。
 
 しかし、人間が行うことができる最悪の意思決定の1つ.に…。私は明らかに人間のためにしか話すことはできませんが。それは、快適であろうとする必要はないと思います。快適を目指すべきでは無いという事なのです。
 私はあなたに快適さ、心地良さを自ら勝ち取って欲しいと思っています。それは物質的な所有欲を満たす事ではなく、フィーリング、感情的な意味での心地よさ、充足感です。生きる事のもたらす、圧倒的な歓喜、のような感謝のような感情の事です。

一生懸命、の導く先
 例えば、1日の休日をあなたが働いている会社なり職場から貰うとします。もし、あなたが一生懸命働いて、できれば少しの目標達成なども果たした後に得る休日は、とても甘美な休日になると思うのです。
 私が一日一生懸命働いて、仕事を終えてテレビの前に座っているとき、私はそれをとても楽しんでいます。ソファに横たわり、足を延ばして、手にはお気に入りのおいしいお酒。私はこのような、自分自身の自由な時間をとても楽しんでいます。

 私は必要以上に仕事人間です。ワーカホリックなのです。もしバランスが取れているのなら、私はもっとリラックスすべきなんだろうと思います。でも、私はリラクゼーションを得たという実感がありません。
 でも、それが一生懸命に行動してみるのを推奨する理由の一つなのです。なぜかというと、自分が勝ち得た思ったときに、それを本当の意味で楽しむことができるからです。
それは、私が物事を成し遂げる必要があり、私はそれを達成できる、という考えとより密接に関係しているからです。

 それは、自分以外の誰かの利益のためでも、自分以外の誰かからの承認のためでもありません。自分自身の手によって自分自身に与える利益と自己承認そのもの、なのです。簡単に言えば、自己肯定感、のようなものです。

魔法のリストアップ法のススメ
 私はただ、するべき事があるとき、それが例えば、今日は1000字書こうとか、2000字書こうとか、そういう数字化して、それを達成しよう、今日は2000文字書こう、という風にはしません。
 私は、まず、その日に達成したいことをあらかじめリストにします。1日を始める時に、その日に達成したい事をさっと列挙しています。行動予定メモのようなものです。
 すると不思議なもので、リストに書いた事を実際に達成しないと、気分が悪くなって、気が狂いそうになるのです。もちろん達成できなかった事には裏付けとなる理由があるし、その原因は自分の力の範疇外である事も多々あります。 
 そういった不可抗力な理由を理解していても、リストした事を達成できない自分に満足せず、なんとか達成しようとする自分がいるのです。それが、修行であり、自分自身を律する事だと私は思います。

 武道一般では、この修行、鍛錬が不可欠です。この自分を追い込んで行く、できない自分ではなく、できる自分と同調していく事を選択する事が、私自身を武道のチャンピオンの道に導いたと確信しています。

何も出来ない、続かない体質から、できる体質へ変換
 この「今日やるリスト」を消化して行く事が、私に実績を積ませてくれます。この小さなリストを実行し、小さなゴールを達成して行く事によって、ゴールを達成する事を理解する事にとても役に立ちます。
 達成する事ができる体質、達成が可能なマインドセットに変化していきます。実際に出来た事、どんな些細な事でも構いません、を記録して行く事で、自然と実績の積み上がりを認識できます。
 極端な話、「会社へ出勤する」をリストに加えても構わないのです。毎日リストアップして、それを1日の終わりに眺めます。この時は、単に眺めるだけで、出来なかった事にフォーカスしたり、リストの内容にケチを付けたりの「判断」は不要です。実績を認識するのみ、です。日々、当たり前のように会社に行く事が、リストアップする事で、実績として認識され、日々、増加していくのです。
 この行動によって、「できそこないの自分」の一部に、「実績」が集積されていくのです。こうして延々と継続していくうちに、できそこないの自分と、それに哀調する自分が減少して行きます。何と言っても、「実績」が積み上がってしまったのですから。

失敗や困難こそが、宇宙からの最大のギフト
 しかし、実行し続ける事は、それはなかなか難しい事でもあります。あなたは予想をしない困難な状況に陥る事もあるでしょうし、その度に自分を奮い立たせる必要があります。そして、困難を克服する事によって、「困難」が何であるかという事を深く理解できます。

それは、どのように精神力を持つか、という事です。

 どれだけの精神力を持つ事ができるかという事は、あなた自身のマインドに依ります。それは難しいタスクを実行する時や、或いは、困難に直面した際に感じる逆境に、どのように対処するかの心構えの事です。
 多くの人は、逆境に置かれる事を非常に恐れます。当然ですが、人は紆余曲折や厄介事をとても怖がり、可能な限り避けようとします。
 人はまた失敗する事、失敗そのものもとても恐れます。失敗は人々が恐れる最も大きなものの一つです。

 しかし、実際は失敗は目標を達成する上で、最も重要な出来事です。失敗の体験は、これまでとは違うことをしようという気にさせる、最も重要なもののひとつなんです。失敗すれば、人は自ずと同じ道を辿りませんね。
まさに、失敗は成功の母、なのです。
 今の私にとって、人間関係は最大の財産です。私が素晴らしい友人に恵まれ、どんなフィールドの人とでも、とても良好な人間関係を築ける理由は、若い頃に人間関係で失敗した経験があるからです。
 私は仕事上でとても有能と言われていますが、駆け出しの頃は、役立たずで、失敗の多い、駄目な人間だったのです。 

 私は人一倍、沢山の失敗の経験をしましたから、私は失敗の味を良く知っています。失敗して感じる恥ずかしい気分も、屈辱感も、良く理解できます。弱い人間になった気分、まったくヤル気に欠けた日々、だらしない嫌気がさす自分自身、そういう弱い気分を、私も十分に味わいました。
しかし、この失敗に打ちのめされた状態では、全く自分を尊敬する気分になれませんよね。
私はいつも人にやる気を起こさせるために、こんなフレーズを使うんです。それは、こんな言葉です。

自分自身の映画の主人公になりなさい。
そして、あなたの人生が映画そのものであり、その人生はたった今始まった、とそんなフリをして、そういう演技をしなさい。
 主人公は、映画の中で何をするでしょうか?
もし、あなたがあなたの尊敬している人であるとすれば、その状況↓で、どうしますか?どう演じますか?
 あなたが尊敬している人、あなたにインスピレーションを与えてくれる人、彼らならどう対処するでしょうか?ちょっと考えて見て下さい。

 考えましたか?
では、それを実行してみてください。
それを実行すれば、徐々にあなたに勢いがついてきます。あなたは、その勢いを感じます。

今日、私は自分のやりたいことをやりました。
今日、私はヨガのクラスを始めました。
そして、あれもやったし、これもやった、やる気がないから出来ない、と言っていたことを全部やりました。
 
自分に流れる勢いを見つける
 そして今、私は何か勢いの様な流れを自分の中に感じています。この勢い、はとても大切です。人生において、この勢いを感じる事は、とても大切なのです。だから、人は休みを取りたがらないのです。この勢いの中にいたいのです。なぜなら、休みを取ると、彼等は勢いを失っているように感じるからです。休みによって、勢いが断絶してしまうように感じるからです。人はこの勢いを失う事を怖がるのです。
 そして、休んだら、休み明けに、また新しいスタートを切らなければならないからです。

妬みとか、嫉妬とか
 私は成功する前に、ずっと前からそれが愚かなことだと気づいていました。
私はアマチュア時代には、すごい上手なコメディアンを見ると、「なんであんなに上手いんだろう」と思っていました。そして、上手な人を見ると、あの男もこの男も最低だ、と決めつけていました。悔しかったのですね。
 そして、上手な人と、そうでない私を隔てるものは何かと考えました。
そして、何故、他人に出来て、自分に出来ないかを考えるのは、時間の無駄だと思いました。
 それから、コメディにのめり込んでいったのを覚えています。私はコメディが好きでしたから。
 しかし、自分より下手な人に集中したり、うまくいっている人に嫉妬したりすることは、私にとって良いことは、何ひとつありませんでした。

他人の勢いを借りる
 できれば前進中の人、勢いのある人の仲間になりましょう。他人の勢いを、拝借しましょう。大丈夫です。いつか自分に勢いがついて、他の人にも分けてあげられるようになるから。
 誰かがうまくいっていれば、それに触発され、気合を入れることができます。フォーカスする対象が、いつの間にか、自分自身と同調していくのです。自然の法則です。
 朱に交われば赤くなる、とか、そういう事です。人間は、周囲からの影響を確実に受けますから。

 私は20代前半にこのことに気づきました。20代の前半に、これだ、と思いました。私は見方が下手なんです。だって、これらは武道的なものですから。そんなに単純ではないのです。
 なぜなら武道では、他人や、他人の能力に嫉妬してはいけないからです。稽古を続けていて上達すれば、いつか彼らと戦わなければならないかもしれないことを理解しなければならないのです。

自分より優秀な人から学ぶ
だから、相手が本当に優秀だと分かれば、それを客観視せざるを得ないし、その上で、自分自身も自分の事をしなければならないのです。自分よりも優秀な人の存在を認識した上で、です。あの人は私よりずっと、優秀です。
 私も、もっと優秀にならなくてはいけない、と感じます。そして、そのような心持で、あなた自身のするべき事に取り掛かるのです。
 あなたより優秀な人は、ある種、あなたの目標に、到達すべき到達点となります。誰か他人を過小評価することで、あなた自身プラスになることはありません。
 他人が自分より優れている事を認める事は難しい時もあります。自分が努力をしていればなおさらです。特に自分の至らなさを認識するのは、苦しみを引き出す事が多いです。
 
 しかし、自分自身と、自分より優秀な人の「差」は、思う程大きく無く、その差は自分の伸びしろ、と考えて良いと思います。その人を取り敢えず目標に据えて、修行を続けます。自分で決めた規律を守ることは、間違いなく役に立ちます。
 規律を守る事は、物事を成し遂げるのに大変役立ちます。そして、実際に物事を成し遂げれば、さらに、より多くの成功を収めることができます。成功の大きな部分を占めるのは、単純に、怠けず、ただ、黙々と実行していくという事です。修行、習慣なのです。

土俵に立つ、まずは立って見る
 そう、成功の90パーセントの秘訣とは、ただ登場することなのです。いわゆる、「土俵に立つ」事です。とりあえず、参加してみる、とも言えます。毎日、完璧だと思えなくても、そこに行き、参戦する準備を整えるのです。
 走る人なら、走ろうと決めた時間に、トレーニングウェアに着替えて、ランニングシューズを履き、玄関を出て、道路に立つ、スタートラインに立つ、という事です。
 日によっては、気分は絶好調ではないかも知れません。 乗り気にはなっていないかも知れません。しかし、とりあえず、走る準備をして玄関を出るのです。スタートラインまでは行ってみるのです。

できる理由はたった一つ、出来ない理由は山のようにある
 私が今より太っていて不健康だった頃は、気分の乗った日だけしか、走りませんでした。そして、走る気分になる日は、稀でした。なぜなら、走りたくないため、私はたくさんのエクスキューズを用意して、その言い訳を受け入れて、走らない日が実に沢山あったのです。
 多くの人が同じだと思います。しかし、特に運動関連は、気分が乗らなかったとしても、実行してみると、爽快な気分になります。新鮮な気分になります。走って後悔した人、ヨガクラスに参加して後悔した人は少ないと思います。
 もし、気分がいい時だけ運動していたら、 私はとんでもなく不健康になるでしょう。
 気分が乗らないという、そのような日があっても、それを乗り越えなければならないし、続けて行けば、乗り越えられない日よりも、乗り越えられる日が多くなるはずです。

 これが、規律を守るという事、修行をするという事です。
ひとたび決断した事には、幾多の言い訳が登場しようと、黙々と無視して、とりあえず土俵に立つのです。それが修行です。進化や上達の程度は、単なるオマケです。修行を継続する事、は何よりも重要です。
 そして、規律を守るって継続する事が、自分が到達できないと思っていた地点に立つ事が可能にする、唯一の方法なのです。
 私の目には、規律を守る事で、物事を成し遂げられるという利点が常に映っています。

 私はいつも、「私は最も怠惰で、かつ、律儀な人間だ。」と言っているんです。 だって、やりたくない、って思う自分が、いつもいるのですから。
 一方で、やりたくない気分もあるけど、その気分を突破した所に、とてつもない心地良さがあるのを自分は知っているから、実行できるのです。
 
 多くの人が、「私には家族がいます。養うべき人がいて、責任があります。」そう言って、あなたは外に出て、あまり好きでもないクレイジーな仕事をします。それはそれで素晴らしいアイデアだ、と言う人もいるでしょう。
 しかし、あなたは心の声に耳を傾ける必要があります。
「そんなこと言わないで。」
「そういうことを言うのはやめて下さい。」
そういう人はとても多いですね。

困難、大問題、難点、苦悩、は人生の最高のコヤシ
 何かとても価値あること、特別なこと、困難なこと、並外れたことを成し遂げた人は、みんなそうなのです。偉大な芸術家でも作家でも数学者でも何でもいい、誰でも、必ず困難にぶつかります。
 人生は、そういう風に出来ています。人生には、簡単な道なんてないのです。簡単な道は残念ながら存在しないのです。存在しないから、簡単な道を選ぶ事、は不可能なのです。
 誰にでも、どんな人にでも、それぞれ、問題はあるのです。それが人間の自然な姿なのです。問題はあって当たり前です。

他人と自分は比較不可能です。ので、比較しない
 もし、あなたが趣味を持っていて、それを追求する時間が持てたり、人生の中で何かをする時間があれば、あなたは幸運にも、自分を高めることができます。
 
 そして、ここで、あなたが自分自身を向上させることができない方法の1つを紹介します。向上を阻む心の態度です。
それは、他の人が成功しているのに、なぜ自分は成功できないのかに関して考える事です。できない言い訳を考えています。学歴、家柄、運、能力、そういう所にできない理由を見つけて、安心しようとします。納得しようとするのです。

 それはとても危険なことです。それは、自分自身に逃げ場を与えてしまうからです。それはとても簡単なことです。しかし、人生には逃げ場も逃げ道もありません。できない理由を見つけて、そこで納得したかのようであっても、実は、全く納得していないのです。だから、不満を持ち、不安になるのです。時間の経過と共に、逃げ場が逃げ場出ない事に薄々気が付き始めます。そうなると、絶対絶命です。ここで、人は思い切り攻撃的になったり、他人の感情を傷つける事に躍起になったりします。そして常に獲物というか、犠牲者を見つけ出し、他者を痛めつける事によってのみ、自分の存在価値を見出すという、人間の断末魔状態になります。
 
 これは本当です。事実です。誰にでも辛い道はあるのです。私も若い頃、何度も窓から飛び降りようと思う事がありました。
 電車の前に飛び込んで、全てを終えようと思った事も過去にあります。プレッシャーが強すぎたからです。具体的ではないけれども、私の言う意味を理解して頂けると思います。

困難や苦悩は栄光への道標
 理論的には、人生の中で、私たちは誰しも、辛い時期、落ち込む時期を経験します。疑心暗鬼に陥ることもありますし、人生の中で本当に困難な瞬間が訪れます。それは、本当に困難で、八方塞がりに感じます。そして、誰もが「人生はこんなはずじゃないのに、一体、私は何をしているのだろうと自分自身を呪います。 それは、最強の人生の壁かも知れません。
 しかし、一方で、その困難な瞬間が、あなたの人格を形成するのです。それは、良い鋼は、何度も叩き込まれたものであるように、人生の荒波に揉まれて、初めて、人は丈夫で、強くて、優しくて、理解のある、他人に思いやりを持つ事が出来る人格が備わるのです。
 もし、偉大な人の息子である偉大な人がいたら見せてください、ということなんです。億万長者の家に生まれた子供たちは、残念な面があります。自分で自分を創り上げていく人間にはなれないからです。
億万長者の子供には、予備の信託があります。安全ネットが張り巡らせているので、本当の意味で落ちる事、失敗する事ができないのです。自分自身の限界を知る機会が永遠に訪れないのです。

誰しもが変化し続けています
全ての人にとって最も重要なことは、全ての人が常に1年前の自分とは違うということを認識することです。
 今のあなたは、5年前のあなたでもない 、先週のあなたでもないのです。
今のあなたは、今のあなたなのです。

 そして、これが、今。あなたがコントロールできる唯一のことなのです。あなたに与えられた、唯一のチャンスなのです。
 だから、過去の後悔をどれだけ今に引きずるか、調節する必要があります。しかし、本当に気をつけないといけません。なぜなら、少しの後悔を持つ事は、なかなかに良い事だからです。
 なぜなら、私の後悔は、それが仕事上のものであれ、友情面でのごくわずかな後悔であれ、それは私をとても幸せにしてくれるものの一つだからです。

残酷な過去が、慈愛の素晴らしさを教えてくれた
 でも、人生というのは不思議なものです。いろいろなことが起こります。人生には様々な要素があります。
 でも間違いなく、今の私は、もし私が若い頃に失敗しなかったら、もし私が落ちこぼれなかったら、友情や優しさの大切さを理解することはなかったでしょう。
 そして、もし私が人生のある時点で残酷なことをしなければ、あるいは誰かが私に残酷なことをしなければ、私は愛の美しさを理解することはできなかったでしょう。

 その頃、私はそうせざるを得ませんでした。
私が誰かに思い切り顔面を殴打されたという経験が無ければ、あの差すような痛みを理解する事は不可能だし、殴る事の痛みも、殴られる事の痛みも理解出来なかったでしょう。  安全やセキュリティの意味も理解できなかったでしょう。なぜなら、多くの人が安全に関して無知だからです。
でも、私たちはみんな安全、安全です。
 でも、私はいつだって安全ではありませんでした。
誰かに何度も顔を殴られたり、ほとんど知らない人と路上で喧嘩をしたり、言い争いになったことも沢山あります。

 安全には何かがあります。それは甘美なのです。それは、 もっともっと美味しいものです。カーブでコントロールを失った後に、車をまっすぐ走らせる方がずっといい気分になれます。
 そして、あなたはまっすぐ運転する事に戻ります。おぉーって感じです。 コーナーを横向きに走れとは言いません。しかし、私が言いたいのは、この世には陰と陰があるということです。
 
 あなたは自分自身の失敗に燃料を補給する必要がありまか?そして、ほとんどの人はこのパターンから抜け出せないでいます。失敗の場所に永遠に留まろうとするのです。
なぜなら、ひとつの失敗で、自分を出来損ないだと定義したり、劣っていると確信したり、自分のアイデアを実行できない人、本当の興味や愛を追求しない人だと定義してしまうからです。諦めてしまっているのです。
 
 武道である技を学びたくて練習します。簡単に取得できる場合もあれば、練習を繰り返しても、繰り返しても、体得できない場合があります。でも、いつか自分のものにしたい、と思って修行を繰り返します。
 そして、何の変化も感じなかったのに、ある日、あっさりと技を体得しているのです。まるで、自分の誕生から共にあるかのように、技は自分に馴染んでいます。技を得た歓喜の後に、疑問が沸き上がります。あの、悩みや、毎日の練習は何だったのだろうか?
 
 それは、技は既にあなたの中に在った、という事なのです。修行とは、技が誕生する場を準備する事に過ぎません。人生も同様です。私達に全てが内在しています。それを呼び覚ます事を、修行と呼んだり、瞑想と言ったりします。
 日々の修行。これ以上でもこれ以下でもありません。



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