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これほど感動的な地下鉄の出口がかつてあっただろうか

これは今年の1月、誰も世界がこんなふうになるなんて考えもしなかった頃、途中で書くのをやめたままだったエッセイ。
旅行記、しかも中国の話なんて不謹慎だ!って非難されると思ったのです。

けれど、目には見えない恐ろしいウイルスに、生活が突如脅かされて、頼りない政府に不信感を募らせているのは、中国の国民だって同じ。
何も悪いことはしていないのに、家族や友人を亡くして、悲しみに打ちひしがれているのは、中国人だって同じです。

中国人の友達がいる僕は、今こうして中国が世界中から悪者のようにされている現状を、見過ごすことはできませんでした。
そこには美しい街があり、美しい景色があって、たくさんの罪なき人が暮らしている。
当たり前のことなのだけど、それをもう一度みんなに解ってほしい。

中国の自治体や企業からたくさんの医療用マスクが日本へ贈られたように、今は、誰かを悪者にするのではなく、世界中が手を取り合って危機を乗り越えるべきとき。
そして、行きたいところへ行けて、会いたいに人に会いに行ける平和な日常を取り戻せるように、みんなで励まし合うべきとき。
だからこそ、今このエッセイを書き上げる意味があるのではないかと思いました。

ぜひ最後まで読んでいってください。

「家の中マジ最高」って思ってた

僕は元々、すごく出不精。
執筆業は家でもできるから、特別な予定がなければ一歩も外に出ない日だって珍しくない。

20代の頃は収入が少なく、会社員の友人に金銭感覚のギャップを感じていて、飲み会や、お金の掛かりそうな遊びの誘いをそれとなく断ったのは、一度や二度じゃない。
買い物だって、旅行だって、当時は満足にできなかった。

そうこうしていると「家の中だってぜんぜん楽しいじゃん。ひゃっほぅ」ってなってくる。
家の中のどんな些細なことも楽しみに変えられる念能力が目醒めてくる。

例えば、普通に料理で使う食塩に無印のアロマオイルを数滴垂らしてオリジナルバスソルトを作るのが楽しい。これ、めっちゃ楽しい。
けれどそういうのって、そうでもしないと寂しくて死んじゃうから防衛本能で無理やり楽しみを見つけてるんじゃないかって、「もし無理させてたらごめんね僕の脳みそ」って思ったりしてた。

30代になり、仕事はそれなりに順調で、ささやかだけど贅沢もできるようになってきた2017年のこと。
4月から5月にかけて、とても忙しい時期があった。
計算してみたら、あと40日くらい休みなしで働かないと間に合わないスケジュールだった。ハゲそう。

そういうときに限って、また別の仕事が急に舞い込んできたりする。
しかも「是非やらせてください!」っていうオイシイ仕事だったりする。
ゾンビみたいに起き上がって、死人のように力尽きて眠るまで、ほとんど机から離れられない日々が続いた。

死に物狂いで4月を乗り切ってからの5月、楽しいGWの様子をみんながInstagramにアップし始めたくらいで「あ、もう限界」ってなった。体力もだけど、ハートの方が。
まったく手が進まなくなって、半日くらいベッドの上でぼーっと過ごしてみた。そんなことしてる暇なんてマジで無かったのに。
背徳感が気持ち良すぎて、ちょっと勃起した。

自分へのご褒美をなにか決めておかないと、もう前に進めない。
それも、今までの自分ならぜったいに選ばなかったようなご褒美を。
ふと思い立って、中国人の友達にDMを送った。

Hey, If I go to Shanghai, can you host me?
(ねえ、もし上海に行ったら泊めてくれる?)

Cool!
Sure, come to hang out!
(いいね! おいでよ!)

僕が選んだご褒美は、出不精の対局、海外旅行だった。
上海の友人に連絡してから15分後、僕は羽田発 上海行きの航空券をWebで購入していた。

「海外旅行なんて余裕」って思ってた

あまりにも家に缶詰だったから、とにかくどこか違う世界へFLY AWAYしたかったんだと思う。
ご褒美のおかげでなんとか怒涛の40日間を終えて、勢いで決めた海外旅行が現実味を帯びてきた。

海外は、高校生のときに短期で留学に行って以来、約15年ぶり。
パスポートは期限を切らしてしまうのがもったいなくてなんとなく更新してあったけど、ひとりで飛行機に乗るのも、ひとりで空港を使うのも初めて。

とはいえ、もう三十路のいい大人だもの、海外旅行くらい余裕っしょって、航空券を確認してみたとき、気づいた。

ん?
姓名が逆になってる?

姓 SUZUKAKE
名 SHIN
じゃなきゃいけないのに、
姓 SHIN
名 SUZUKAKE
って書いてあった。
そういえば、航空券を購入するときの画面に「姓名の入力をお間違いないようにご確認ください」って赤字でデカデカと書いてあった。
え〜自分の名前なんて間違える人いるんかなプププって思ってた。
いたじゃん。俺じゃん。

一応お客様センターに聞いてみたけど、ざっくり言うと「パスポートと別人の扱いになるから無理っすね(だから確認しろっつったろ)」とのことだった。ぴえん。
航空券のキャンセル料は9,000円。
自分が手放した席をまたすぐ自分が買うっていう“ひとり椅子取りゲーム”を9,000円でやる羽目になった。
全然楽しくなかったのは言うまでもないよね。

「上海なんてすぐそこ」って思ってた

そんなこんなで出発の夜、東京モノレールの最終電車で羽田空港へ向かった。
そう、僕が購入したのは、深夜発の格安航空券だった。

日中に出発する便と比べると半額くらいお得だったし、寝てる間に移動できるなら効率的だし、深夜バスに乗るくらいの軽い気持ちだった。
けれど、終電から深夜2時の離陸までの時間潰しは、けっこうキツい。

ターミナル内のお店はほとんど閉まってる時間だし、免税店も開いてないし、空港全体の明かりが薄暗いから気分も上がらない。
デッキで滑走路を眺めたり、眠いけどKindleで読書したりしながら、ようやく搭乗時刻。

飛行機のエコノミーシートに座って、いよいよテイク・オフ。
やれやれ、やっと寝られると思ったら、もう上海に着陸してた。
え?
時空超えた?
羽田空港から上海浦東(プードン)国際空港までのフライトは約3時間。
マジで一瞬。ぜんぜん寝らんない。
近いのはいいんだけど、ここからが長かった。

時刻は朝の5時、と思いきや、中国は時差で日本より1時間早いから、まだ4時。
上海市街地までの電車やバスが動くまで、まださらに2時間!!
航空券が安かった理由はこれだったのか……。
寝てる間に移動できるなら、と思ったのに、なんてタイムロスの多さ。
それもこれも僕がしっかり調べなかったからいけなかったのだけど。三十路にもなって、恥ずかしい。
旅慣れてる人ならこれくらい常識なんだろうな、と思いながら。

空港内のコンビニで買ったサンドイッチを食べたり、寝不足だけどまたKindleで読書したりしながら、午前6時。
やっと始発電車が動き出すというところで、またも大誤算。

上海浦東国際空港は市街地まで約30km離れていて、ほとんどの観光客は市街地までたったの8分で着けるリニアモーターカーを利用するのだけど、リニアの始発まではまだ1時間あった。
地下鉄ならもうすぐ動き始めるけど、市街地まで1時間乗らなきゃいけない。
こんなことってある?

【ではここで問題です】
今から地下鉄に1時間乗っても、1時間待ってから8分で着けるリニアモーターカーに乗っても、到着時刻はほぼ変わりません。
さて、みなさんならどちらを選びますか?

きっと、ほとんどの人はリニアを選ぶと思う。
けれど、僕は地下鉄に1時間揺られる方を選んだ。

そもそも航空券を買い間違えたり、スケジュールをよく確認しなかったり、すべては自分の不注意と無知のせい。
こうなったら、自らの戒めとしてすべてこの体に刻もうと思った。
待つより、進もう。
きっとすべてが旅の思い出になる。

地下鉄のホームは、同じく深夜の便で海外から帰国した中国人で既にごった返していた。もちろん席に座れるはずもなく、っていうか通勤ラッシュ時の山手線ばりの超満員。
なんとか掴まれる手すりを確保したけど、揺れるわ、暑いわ、電車でもお構いなしにみんな大声で喋るわで、僕はすっかり借りてきた猫。迷い込んだ日本人。

地下鉄とはいえ、市街地に入るまで電車はずっと地上を走っていた。
窓の外は、見渡す限りの田園風景。
東海道新幹線で通る県境の景色によく似てる。
僕は本当に海を渡ってきたんだろうか。
なんだかぜんぶ夢の中みたいだ。
そんなことをぼーっと考えているうちに1時間が過ぎた。

こんな気持ちになるなんて思わなかった

上海に住んでいる友達が迎えに来てくれるという魯班路(ルーバンルー)駅で電車を降りると、そこはほとんど日本の地下鉄の駅と変わらなかった。
すごくきれい。
僕の生まれ故郷の、名古屋市営地下鉄 東山線からJR名古屋駅に上るときの地下道にそっくり。
ここは本当に中国なの?
時空が歪んだような気分で、僕は地下鉄の出口へ向かう。

すると、まぶしい朝日が目をくらませた。

これが、僕が上海市街に降り立ったとき、初めて目にした景色。

通勤、通学へ向かう人々。
騒がしく動き出した朝の街。
太極拳で体を動かすおじいちゃんとおばあちゃん。
木々の緑や、自転車や、洗濯物、朝日に照らされた鮮やかな色彩。

これが、僕がこれまで34年間生きてきた中で、最も感動した瞬間。

ほとんどの人は「ただの地下鉄の出口じゃん」って思うかもしれない。
けれど、航空券を間違って買ってから数週間、家から羽田空港への終電に乗ってからほぼ寝ずの状態で約9時間、空港から満員電車に揺られること約30km、東京から1,762kmを飛び越えて、僕はここへたどり着いた。
自分の足でここまでやって来た。
その感動が、身体中を駆け巡った。

朝っぱらから起こされて眠そうな友人が迎えに来てくれて、空港からここまで地下鉄で来たことを告げると、

What?
Are you stupid?
(は? バカなの?)

って言われた。
バカだよね。でも、来たかったんだよ。自分が海を越えてこの街まで来たことを、体で感じたかったんだよ。
ってなことを弁明したんだけど、それからしばらく「1時間かけて? リニアなら8分で着くのに? バカ? バカなの? ほんとバカ」ってずっと言われ続けた。

旅行記なら本来、ここから旅が始まるのだろうけど、この旅行記はこれでおしまい。
読んでくださったみなさんに心から感謝します。

旅には、旅でしか得られない感動がある。
だから、世界が平和を取り戻したら、また旅をしよう。
飛行機や、電車や、宿や、レストランにお金を使おう。
そんな日が再びやって来てほしいから、今はまだ旅をしない。
家の中で、まだ見ぬ土地の景色を想像する。
もう少しの辛抱の先に、これまでにないもっと感動的な旅が待っているはずだから。

こうして上海に着いた後、他にどんな感動が待ち受けていたかは、また別の機会に。

日本語が
話せぬ君と
言葉では
ないもの交わす
上海の夜

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