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【迫真エッセイ】転職と苦悩の話⑯

青天の霹靂とはこのことか。

突如として世の中を変えた未曽有の事態は、僕の社会人生活を一変させた。説明は必要ないだろう。これまで7時に会社に着いて作業をするために4時半に起きていた。それが同じ時間に仕事を開始するためにあと2時間は寝ることが出来る

過労死寸前だった僕は、大袈裟でもなく、本当に、奇跡的に、生き延びることが出来たのだった。


■気付いてしまったこと

在宅勤務が僕を救ったのは、体力だけではなかった。今考えても信じられない。僕は結婚して子供が生まれて初めて、平日に子供たちと晩御飯を食べた

それだけじゃない。今までは子供たちが寝てから家に着き、起きる前に家を出ていた。酷い父親・・・、いやそれが当たり前だと思っていた。

「ただいま」と「お帰り」を言い、「お休みなさい」と「おはよう」を毎日言い合うことがこんなに健全で、こんなに幸せだと言うことに気付いてしまった。

僕はバカだった。

仕事を一生懸命頑張る大黒柱だったかもしれないが、それはどうやら間違っていたようだ。このままコ口ナ禍になっていなければ一生子供たちとこのような時間を過ごすことは無かった。子供たちが親離れしたときに「オレは彼女たちの何を見てきたんだろう」と自問しても何も出てこない。絶対に後悔するところだった。

この気付きが、仕事への情熱を縮小させたことと繋がっているかどうかは今でもよくわからない。でも一つ言えることは、僕は彼女たちが親から離れていくまでの間、この時間を絶対に守らなくてはいけないと思った。

夕方には業務を中断して夕飯を作った。仕事の合間に子供たちの宿題に〇をつけた。朗読を聞いて自分の小学生の頃と変わっていない教材に驚いたりもした。

働き方改革という言葉がバズワードと化していた。バズワードを心から素晴らしいと思い、受け入れたのは初めての経験だった。


■新しいチーム

家族との交流を増やした一方で、確実に減ってしまったものがあった。会社のメンバーとの交流だ。

本格的に在宅勤務を強いられたのが3月の終わり。僕は4月から新しい組織を任されることになっていて、特に若手の新しいメンバーとほとんどリアルで対面しないまま課の運営を行っていた。

何もかも初めてで手際が悪かった、というのもあったと思う。ただ、それよりも当時を振り返って猛省しているのが、プレイングマネージャーとしての余裕のなさだった。


前にどこかで綴ったが、僕はこのころマトリクス型組織の縦軸(プロジェクトリーダー)と横軸(組織長)という全く異なる2つのタスクを兼務していた。
いわゆるプレイングマネージャー状態なのだが、プロジェクトが超絶難儀だったのに加えて、コ口ナ禍が組織運営についても新しさを要求するようになって、少し混乱した。

混乱した、と言えば聞こえは良いが正確には忙しさに任せて課の運営を疎かにしていた。リアルで会えばそうは言ってもそれなりにケアは出来たのかもしれない。けど、在宅になったことで本格的に細部にまで目が行かなくなってしまったのだ。

在宅勤務における稼働の見えにくさは普通、上司が部下の仕事ぶりについて悩むものだと思う。しかし、当時の僕は逆だった。部下から見て、上司が一番見えにくかったに違いない
このころ僕は通勤時間分の睡眠を得た代わりに、いよいよプロジェクトの激務に時間を搾り取られることとなった。昼も夜も、ほとんどプロジェクトの仕事に時間を割いていた。

今振り返ってもあの頃のチームメンバーには申し訳ない気持ちでいっぱいになる。僕には何もできなかった。いや、何とかしようとしなかったと言った方が正しいかもしれない。


在宅勤務が続いて数か月。厳しい残暑の中、僕はある決断をした。課長を辞することにしたのである。




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続く。





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