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【子育てルポ】「朗読」という宿題の本当の価値
小学4年生の次女が朗読をしていると、妻が「懐かしい!」と言った。
続けて、「今でもこれやってるんだねー」と。
確か長女の時も同じやり取りがあったような、と思いつつ私はこの会話に入ることが出来ない。
なぜなら、
私は小学4年生の時に朗読を止めたからである。
私は宿題を真面目にこなすタイプではあったのだが、この「朗読」という作業がとにかく嫌いだった。
まず何と言っても何のためにしているのかが理解できない。そして声を出して読むという行為はむなしさにも似た疲労感を伴う。挙句の果てには聞かせているはずの親が常に片手間であって恐らくほぼ聞いていない。
そこで私は母親にこう提案した。
「恐らく朗読の宿題は、学校で読むときに間違えてクラスのみんなに馬鹿にされないためにやっていると思う。てことで絶対に間違えないと約束するので今日をもって朗読はやらないことにする。だから毎日ここに黙って〇を付けて欲しい」
毎日聞かされるストレスから逃げたいためか、母親はこの提案を快諾した。
こうして私は小学4年生から朗読という宿題を一度もしていない。だから次女の読んでいる物語に「懐かしい」と共感できないのである。
思えば、
これは私にとって生まれて初めてのプレゼンテーションだった。
嫌なことから逃げたい一心だったのだが、よく言えば理由の明確化とその対策をもって両者にとって合理的な解決策を示した素晴らしいプレゼンだった。
人類の発展は常に嫌なことから逃げたい、楽をしたいという合理化の概念からきている。
私は朗読を放棄したのだが、それによって困ったことにはなっていない。いやむしろ進化しているのだ。
そんなことを回顧していると次女がやって来て、「今ママが手が離せないらしいからパパ聞いてくれる?」と国語の本を持ってやって来た。
もちろん。と快諾して次女の朗読を聞いていると、それはなんとほんの数秒で終わってしまった。
「え?終わり?」
と聞くと、次女は平然とこう言った。
「毎日ひと段落ずつ読むと決めている。今日はここまで!!」
なるほど。
読む教材は決められているものの、日々ここまで読みなさいと指示されていないのであれば、ルール解釈のギリギリを攻めて最小限の労力で済ますというのは実に合理的だ。しかも、読んでいるという事実は残る。
こういうやり方もあるのか。
と、妙に感心して〇を付けた。
「朗読」とは、いかにして合理的にやりすごすかというのを養うための宿題なのかもしれない。
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