【考察🤔】読書好きからみる映像化について思う事
僕は基本的に、
漫画や小説の映像化って原作を超えることは無いと思っています。
これは原作リスペクトの思考に依存しているとか、そういう道徳的や心理的なものではなく、物理的に無理だと思っています。
理由は簡単で、
読み手の創造力や感受性ってのは無限で、映像化される際の限界をはるかに超越するからです。
映像化に携わる人たちを舐めているわけではありません。そうではなくって、映像化したくなるようなヒット作ってそれだけ読み手の創造力を掻き立てるのです。それはもう無限大に。
■海賊と呼ばれた男
ガッカリした映画のひとつに百田尚樹原作の「海賊と呼ばれた男」があります。出光創業者の戦中戦後の奮闘を描いたもので、好きな役者である岡田准一が主演を務めていたのですが、映画の感動は原作の10分の1も無かったように思います。
これは脚本がどうとか演者がどうとかではなく、シンプルに、120分では入りきらない起承転結が原作にはあったからです。
人の集中力はどんなに頑張っても2時間ちょっと。原作の丁寧な描かれ方をその尺に押さえ込んで物語にするのにはそもそも無理があったのだと思います。
そう考えると、
脚本が原作に対して忠実でない時点で、やっぱり原作を超えることはむずかしいんだろうなと、基本的にはそう思うわけです。
■キネマの神様
原作に対して忠実でない、という点で度肝を抜かれたのが原田マハ原作の「キネマの神様」です。
志村けんが主演を務める(実際はコロナで亡くなってしまった)と話題になり、原作を読んできた自分も密かに期待していたのですが・・・出来上がった映画はびっくりするぐらい原作とかけ離れていました。
もう脚色とか言うレベルを超えています。別物です。
あらすじを見た時点で「なんじゃこりゃ!?」と思ったのでもはや映画は見ていないのですが、こんなことあるの?どういう話し合いでこうなったの?と、それはもう衝撃的でした。
この頃から、小説が原作の映画って観なくなってしまいましたね。
■セクシー田中さん
とまぁ原作に対する映像化について色々と考えを持っていたところ、
とてもショッキングな事件が起きてしまいました。
原作者が、想いと異なる脚本に対してアラートを挙げたことによりいざこざが起こり、結局原作者が亡くなってしまうという・・・。
僕はですね。映像化自体を否定するつもりはありません。
そこには凄い技術が詰まっているし、映像にしか出来ない演出があるし、俳優や声優が演じることで新たな発見があるわけで。
役者や映像技術者を志望する人からすれば、(脚本の出来はさておき)映像化そのものにとてつもない価値があり、ネガティブな印象は無いはずです。
ただですね。原作に対して敬意を持つってのは、脚本家のみならず関わる人全てが持つべき大前提だと思うんですよね。
■キネマの神様 の続き
原作レ〇プとも言われたキネマの神様。実は続きがあることをご存じでしょうか。
それがコレ。
続編があるんですよ。
正確に言うと、
原作と全く異なる物語に仕立て上げられた映画を、原作者の原田マハがノベライズしたって言うんです。
これ、冷静に考えると凄くないっすか😅
私の想像の域を出ませんけど、
これが、お互いがお互いをリスペクトした先にあるもう一つの展開なのか、と。これはこれで驚くと同時に、芦原さんの件も周囲のしかるべき対応があれば事件にはならなかったんじゃないかな、と。
そんな風に思うわけです。
■新参者
ちなみに僕は、
面白かった小説が映画化されたとしてもよっぽどのことが無い限り映画は見ない(その時間を次の読書に使う)んですけど、
その代わり小説を読み終えた後にキャストを見るのは大好きです。
あぁ
この役をこの人がやるのかー。わかるわかる。とか笑。これは結構好きで、小説読みながら想像したりしています。
中でもドはまりしてるのが東野圭吾が書く加賀恭一郎シリーズ。これはドラマで阿部寛が演じたんですけど、もう主人公の加賀と阿部寛がピッタリ過ぎて困っています。
途中から東野圭吾側が阿部寛に寄せいているんじゃないかと思う所とか出てきたりして。
原作と映像化には、こういう関係もあるんですね。
■不適切にもほどがある
原作軽視についていやーな気分だった時に、
話題になっていた「不適切にもほどがる」というクドカンドラマで
を連呼するミュージカル調の演出がありました。
クドカンと言えば人気脚本家。このタイミングでこの演出はタイムリーなんてもんじゃない。「話し合いましょう」は最強のメッセージになりましたね。彼の脚本家としてのセンスに脱帽です。
映像化は良いんです。原作が好き。映像が好き。それもどっちでも良いんです!
大事なのは、原作に敬意を示しながら話し合う事。それさえあれば全ては上手くいくはずです。
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