見出し画像

「お子さんを信じているのですね。」

この間、子どもの勉強についての記事を書きましたが、その補足的なものを書いてみます。


けっこう前に私の育児感は、アドラーの嫌われる勇気という本で決まったと書きました。

その中で、子どものサポートや知らないことの説明はするけれど、基本的には子供にまかせると書きました。

これをもうちょっと詳しく書くと「課題の分離」と本の中では説明されています。
なにか出来事があったとして、それは誰の課題かを考え、子どもの課題なら親は介入しないという考え方です。

私はだいたいのことを、「これは誰の課題かな?」と考えるところからスタートしています。
細かいんですけど、noteでいうとコメントするのは自分の課題。
そして、そのコメントを相手がどう受け取るかは、相手の課題。
そんな風に考えています。

つまり、私のコメントを読むかどうかは相手次第、さらにコメントを返してくれるかも相手次第、どう受け止めてくれるかも相手次第。
だから、コメントが返ってこなくても、まあ仕方ないと思うし、自分はコメントしたかったんだからそれでいいと思っています。


で、この間の長男が勉強のやる気がでない、ということについては。

やる気が出ない→長男の課題
宿題をすること→長男の課題
家の勉強しやすい環境を整える→私の課題
家族としてメンタルを整える→私の課題
より良い方法を探して、提案してみる→私の課題
私の提案をする→長男の課題

と、こんな風にわけられます。(あくまでも私的な課題の分け方)
たぶん親子学習でうまくいかない時は、この課題が分離できないからだと思うのです。

やっぱり自分の子供だから、本人の領域に踏み込みやすいので。
私も、わかっちゃいるけど言いたくなる。

わかりにくいかもしれないんですが、宿題をするかしないかは本人にゆだねていて、私は彼がそう決めた時は、ならいいかと思っています。
(時にはやりなよと言っちゃうけど)

でも、よりよい方法を探したり、環境を整えることは必要だと思っています。
それでも、それを受け入れるかどうかも、彼しだいかなと。
そして、そういうことをアドラーは「愛」だと言っています。
とてもシンプルで、だからこそ難しく「なんでもない日々」が試練であると。歩み続ける勇気が必要だと。


そして、ひとつ思い出したのがタイトルの言葉です。

長男が二年生の時に、担任の先生と面談していた時に言われた言葉です。
「お母さんは○○君を信じているのですね。」と言われました。

私は「え?信じている…のかなあ?」と思って「はあ。」としか言えませんでした。
いま思うと、相手にゆだねることは信じることでもあるのかもしれないと思いました。
当時は、この課題の分離をしていただけで、見守ろうというよりは「息子のことは私のことじゃない。」って、文面だけを理解していました。
なので、信じているという感覚はなかったのでした。ちょっと放任よりでした。

どんなことを選択していっても、息子なら大丈夫だと信じること。
受け入れられなくても、サポートをする姿勢をもち、見守ること。
文字にすれば、たった一行のこと。
でも、実行し続けることのなんと厳しいことか。
私にできるだろうか…この先が恐ろしいです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。 とっても嬉しいです!! 他の記事はこちらにまとめてます↓↓↓ https://note.com/suzu710/n/n1c65747c24cb いただいたサポートはお菓子の試作などに使わせていただきます!!