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「地頭」について思うこと。。

 みなさん、こんにちは。
今日は「地頭」が良いとか悪いとか聞いたことがありませんか。
そのことについて私見を書いてみたいと思います。

 国語指導の中で思うことなのですが、学年相当の文章の理解ができない生徒がたまにいます。つまり、大人だからわかるというよりは、文科省の教科書レベルの問題で、学年相当の問題を解く時の話です。

 文科省の教科書も随分と改訂され、令和に合わせた文章が増えたことや、文章の読解というよりは、ITを活用させ、あれこれ調べさせてまとめるという授業を国語の時間におこなっている小学校があるようです。

 個人的には、あれこれ調べて(興味のあること)まとめるというのは、できれば「総合」とかの時間に指導してほしいと願っています。

 文科省の国語の教科書には、昔話のようなものも取り扱われています
例えば小学4年生の「ごんぎつね」などです。

 このお話をどのように捉えるのかは、自由です。
様々な意見や思いをたくさん出させて、そこには、楽しみ、悲しみ、悔しさ、無念、取り返しがつかない等の感情を学ぶとても良い機会であり、良問だと考えております。

 ところが、今時分の子どもたちは、「最後撃たれて死ぬ話」で終わっている子どもの多さに驚かされます。

 こんな良問を、撃たれておしまいにしてしまっていいのだろうか?

ごんぎつね

 ごんぎつねは、いたずら好きで、兵十が捕った魚やうなぎを川に戻すといういらずらをします。
 ある日兵十の母の死をしったごんぎつねはいたずらを後悔し、償いの気持ちから兵十の家に毎日食べ物を届けるわけです。
 兵十は大変不思議がります。
 ある日ごんが家の中に入っていくのを見掛けた兵十は、火縄銃でごん(ごんぎつね)を撃ちます。そして土間に置かれた栗を見て、食べ物を毎日届けてくれていたのがごんだと気付くのでした。

 というお話です。

いたずらを楽しむごん、後悔、償いそして兵十の取り返しのつかないことをした悔いる気持ちなど、様々な気持ちがてんこ盛りです。

 それを、「最後撃たれて死ぬ話」で終わらせてしまうと、人間が持つ本来の感情を覚える良い機会を逸していると思うのです。

 地頭というのは、持って生まれた時の能力なのでしょうか。
本来の頭の良さを指す言葉であり、一般的には学力の高さや知識の豊富さではなく、理解力や柔軟な思考力などを持っている人を褒める表現です。 頭の回転の速い人や対応力に優れている人などを指す場合もあり、明確な定義こそないものの、実践的な知恵のある人に対して使われます。

 私は、人は生まれた時の能力は(もともとの障害を持つ人は除きます)それほど差はないと考えております。
では、どこで違いが出てくるのかといえば、育つ環境も大きな影響があるますね。周囲の支援も大きいでしょう。
 しかし、小学校、中学校は義務教育ですから、ここでは、皆同じ環境です。
こういう場を上手く活用すれば、地頭を研く機会になると思うのです。

 もちろん、一度の説明で理解できる子どももいれば、三回説明して理解できる子どももいますので、差がでるのは仕方がないことです。

 ある部分だけを切り抜いて、「この子は地頭が良い悪い」と評価するのは間違っているのではないかと常々思うのであります。



 


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