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北の空に輝く孤高の星

昨日、私にとって最後の祖母が他界した。
昭和元年生まれ。95歳。大往生だった。

雪深い山奥で生まれたため、出生届けが一か月ほど遅れたらしい。
生年月日は昭和二年の一月(兎年)だったけど、兎年生まれってキャラじゃない。
十年ほど前、「実は前年の年末に生まれた」ということが本人の口から明かされた。

孫一同で大爆笑。寅年生まれ。腑に落ちた。

昭和のお寅大婆さま。
文字通り、孤高に戦い抜いた人生だった。

幼い頃に実母を亡くし、
後妻の継母と父親との間に生まれた兄弟姉妹を合わせて10人、大家族。
15歳で既に家を出て、親戚の家の家事手伝いなどをしていた。
17歳の時に単身、樺太(現在のサハリン)に渡る。
親戚の幼子を本土(日本)に連れて帰るという大役。
17歳の少女が、3-4歳の幼女を抱いて一人、帰国した。大したものだ。

20歳で結婚し、21歳の時に私の母を産んだ。
しかしながら、結婚後もお気楽な奥様ではいられなかった。
30代、祖父が事故で右腕を失う。
その日から、祖父の左腕と祖母の両腕が家族を支えることとなる。
農作員、炭鉱会社の社員寮の寮母など、祖母は当時、最先端の職業婦人だった。

転機は40代の時に訪れる。
北海道のそこそこ大きい町の繁華街に、店を出すことになった。
祖父と二人三脚。「天津(てんしん)」という名のラーメン屋さんだった。
当時の繁華街は、スナックやキャバレーなどの出店が相次ぎ、賑わいを見せていた。
祖父母の持前の真面目さと丁寧さのお陰で、店は人気のラーメン屋に。
夜の街で働く人々にとって、安らぎの一杯になっていた。

当時、繁華街からほど近い場所に習い事に通っていた私は、
習い事終わりには、必ず天津に寄った。
週に一度。孫が無事、店に立ち寄るのを、首を長くして待っていた。

当の私は、祖父母の作るラーメンがお目当てだった。
当時、今のワンコイン以下で買える最高のご馳走。
醤油が定番だったけど、味噌に挑戦してから、塩にも挑戦した。
どれも最高に美味しくて、思い出の味だ。
今でも似たようなラーメンに出会うと、懐かしさが込み上げる。

でも、今でも変わらず、
天津のラーメンが、私にとっての「Top of ラーメン」だ。

二十年ほど続けたラーメン屋も、60代に入ってとうとう引退することとなった。
今まで働き詰めだった分、ちょっとゆっくりした60代を送って欲しかった。
しかし、運命はそんな風には回らなかった。
祖父が倒れ、祖母の60代は祖父の介護になった。
十年近く続いた介護だったが、最後の数年、祖父は寝たきりになった。
その数年間、祖母はほとんど一日も欠かさず、入院先に通った。

「父さん、十分してやれただろうか」
祖父の葬儀の際の、祖母のその言葉を今でも覚えている。

70代、やっときた遅い青春。
家族のみんなが、祖母に好きに自由に暮らして欲しかった。
好きな時に起きて、好きな時に食べて、好きな時に寝る。
そんな気ままで平和な時が最期まで続いて欲しかったけど、
あんなに気丈で整然としていた祖母も、記憶と認識が曖昧になっていった。

2019年の9月。幸運にもコロナになる直前だ。
元気な祖母に会いに行くことができた。
90歳を過ぎて、身体は元気だったが、記憶と認識は曖昧だった。
私のことも、身内だと思うが孫の誰かははっきりしない、という状態だった。
ただ、不思議と猜疑的にも攻撃的にもならない。
なんだか分からないけど、大勢集まって楽しい、という心情。
大家族の中で育ち、勇敢にも単身、異国まで出向いた気骨な人。
そんな大らかな性格が、最期までの生活を暖かく支えた。

そんな祖母がとうとう、あの世へ旅立った。
近くに住んでる身内の話では、眠るように逝ったらしい。

今回、親族の薦めもあり、私は祖母の最期には会いに行けない。

半ば覚悟していた。
でも、もう少し生きててくれるかな?…という期待もあった。

知らせを聞いた時は、実感が湧かなかったけど、
今日になって、昔のことなんか、ふと思い出したりしていた。

七五三も成人式も全部、おばあが着物を着せてくれたよね。

大学浪人してた時、年金から毎月、お小遣いを送ってくれたよね。
苦学生だったから、本当に有難かった。

社会人になる前に、一週間くらい、おばあのとこに泊まったよね。
まだ入院していたおじいの介護に、毎日一緒に通った。
明け方に、おばあんちのトイレの窓から星かなんか見た記憶がある。
あれ、なんで、星なんか見たんだったっけ?

社会人になってから久々にサプライズ訪問した時に、
「おばあちゃん」って声掛けると庭から飛んできたこともあったね。
転ぶかと心配するほどだったよ。
母に「おばあ、そんなに喜ぶとは思わなかった」と告げると、
「孫が来る、ってのは、何よりも嬉しいものなのよ」と教えられたんだ。

初孫なのに、どの孫より長い年月を過ごしてきたのに、
会いに行けなくて、ごめん。

でも、ありがとう。
あなたの孫で良かったです。


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