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~とわの庭~ 闇から光へ。目の見えない少女の物語。


読み終えられないかも…。

途中何度も読むのをやめようと思った。
図書館に返してしまおうと思った。

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大好きな小川糸さんの新作長編小説。
塞いだ気持ちもパッと明るくなるような、黄色い花に囲まれた装丁につられて。
最初の1ページ目の「いずみ」という美しい詩に誘われて。
読書「前」感想文書いちゃうくらい、わくわくして読みだした、のに…。

読み進めながら、ハッと思い出す。そうだそうだ、これは小川糸さんの本だった。のほほんとした気分では読めない。

わたしは小川糸さんのエッセイや小説が大好きで、特に「足るを知る」という暮らしを感じさせるエッセイには憧れを通り越して、崇拝してるかもしれない(笑)

小説ももちろん好きで、今まで出た小説はほとんど読んでいる。(ライオンのおやつはまだだけど。早く読みたい!)そして何となくパターンがあるように思う。

「食堂かたつむり」「ツバキ文具店」「キラキラ共和国」「つるかめ助産院」の主人公は女性で、母親(ツバキ文具店は祖母だったけど)との確執を抱えている。もっとも近くて自分の人生に多大な影響を与えるその人物が消失することで、自分という存在を再認識して成長していく、というストーリーな気がする。

だから、前半部分は結構暗めの展開が多いのだけど、上記の作品の暗さはグレーの濃さくらいだった。だけど、この「とわの庭」は違う。

悲しみの階段を一段ずつ降りていくように、次第に暗くなる闇。わたしが体験したことではないのに、まるで自分の日記を読み返しているかのように、その場面がリアルに浮かび上がってくる。ヒリヒリとした感覚を肌に感じる。

早く、早くここから抜け出したい。主人公のとわと一緒に何度願ったことだろう。まだまだ続くのかこの階段。底はどこなんだ。

生まれたときから目が見えないとわ。手で鼻で耳で口で、そこに存在するものを触って、嗅いで、聞いて、味わって認識する。
とわが感じたことを一緒に感じさせてくれるその丁寧な描写が、言葉だけで形成された小説という姿のないものを、より一層際立たせてくれる。

大好きな、そして愛情をたっぷり注いでくれたお母さんが、徐々に壊れていく。ついには、目の見えないとわ置いてお母さんは消えてしまう。
やさしさの中にある暴力と言ったらいいのだろうか。小川糸さんの紡ぐ言葉はやさしいから、そのやさしさの皮に包まれた怖さが、より人間の奥深い感情を際立たせている感じがする。

「お母さんに捨てられた」という恐怖ともいえる事実を、次第に受け入れていく過程が読んでいて苦しい。水の中で息を止めているようだ。20年近くも家に閉じこもっていたせいで、土踏まずもない弱々しい足。だけど閉ざされた自分だけの安全地帯から、自分の足で外へ踏み出していったことから、やっと光が差し始める。用意された自分の靴はないけど、扁平足の素足で下界に踏み出したからこそ、光は待っていてくれた。

***

この辺りから、やっと息がつけたような気がする。漆黒ともいえる闇の中でとわと一緒に息を潜めながら読んでいたけど、トンネルの向こうに光が見えてきて、やっと呼吸を整えて読むことができた。
とわは「十和子」になって、盲導犬のジョイと共に新しい人生を歩き出す。


後半の好きな箇所をいくつか抜粋。

(P157後半部)
録音図書で読書を楽しむうちにだんだんわかってきたのだ。言葉にも蜃気楼というかオーラみたいなものがあって、ただ音として聞き流すのではなく、じっくりと手のひらに包むようにして温めていれば、そこからじわじわと上記のように言葉の内側に秘められていたエキスが、言葉の膜の外側ににじみ出てくるということが。
わたしはそんなふうにして、言葉がわたしの体温と同化して微熱を帯びるまで、じっと待つ。最初は、早く物語を聴き終えることだけにこだわっていた。けれど、読書に早い遅いは関係ない。それよりも、どれだけ言葉の向こう側に広がる物語の世界と親密に交われるかが、読書の醍醐味なのだ。

言葉の向こう側に広がる世界。奥行きのある、想像を駆り立てる言葉たち。まさにとわの庭はそういう物語だ。


(P183)風が吹くたび、動物たちの匂いが、まるで貢ぎ物を献上するみたいに恭しく運ばれてきた。多くの人は、目が見えないことを不便だと感じるのかもしれない。けれど、わたしにはこれが当たり前なのだ。確かに、目が見えていたら嫌なことや怖いことに遭遇する確率は減るだろう。でも、見えたら見えたで、嫌なことや怖いことがなくなるとは限らない。いや、見えるからこそ、嫌なことや怖いことが増えることだってありえるのだ。(中略)「それって、負け惜しみなのかなぁ?」

ヨシタケシンスケさんの絵本「みえるとか みえないとか」を思い出した。

みえないひとは、「おと」や「におい」や「手ざわり」で
いろんなことが わかる。
「みえないから できないことは」はたくさんあるけど、
「みえないからこそ できること」もたくさんある。
みえるひとと みえないひととでは、
せかいのかんじかたが ぜんぜんちがう。
ってことは、「べつの せかいに すんでいる」
ってことなんだろうか。
でも、そもそも ぼくたちは みんな ちょっとずつちがう。
みんな それぞれ そのひとにしか わからない、
そのひとだけの みえかたや かんじかたを もっている。


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わたしは目が見えるし、見えない人のことを100%理解することはできない。だけど、そもそも目が見えても、見えなくても、感じ方や考え方はひとそれぞれだし、見えるから同じとか、見えないから違うとかではないんだと思う。見える人と見えない人で好きなことが一緒だったら、きっと盛り上がるだろうし、見える人同士でも価値観が違ってたら、全然話が合わなくてつまらないんじゃないかと思う。だから十和子のその気持ちはきっと「負け惜しみ」じゃなくて、素の感情なんだと思う。

(P205)わたしは、半分眠りながら、例の老人とロバの寓話をスズちゃんに話した。うん、うん、それで、とスズちゃんは頷きながら聞いていた。
話しながら、わたしは自分が、まるで穴に落ちたロバのような気持ちになった。背中に落ちてくる石や土が、痛くて痛くてたまらなかった。何よりも辛いのは、背中に落ちてくる石の痛さではなく、よりによって、一番好きで信用していたおじいさんに、その石を落とされている現実だった。
でも、おじいさんの顔をよく見ると、おじいさんもまた、辛くて心を痛めていることがわかった。少しずつ、わたしはおじいさんのいる場所に近づいた。(中略)ロバは、本当はおじいさんを振り返りたかった。でも、怖くてそれができなかった。もしも、そこにおじいさんの瞳がなかったら、ロバはそれこそ一生、更なる悲しみを背負って生きていかなくてはいけない。だからロバは、自分を守るために、振り返りたい気持ちをグッと我慢して前に進んだのだ。


この井戸に落ちたロバのように、自分の足で外へ飛び出し、「とわ」は「十和子」になった。やさしかったおじいさん。きっと愛情はかわらずに持ち続けているけど、そのやさしさの形が変わってしまったおじいさんに、十和子は自分の母親を重ねていたんだと思う。家を出たときに振り返らなかったのは、自分を守るためだ。

そんな風に過去に蓋をして、それを踏み台にすることは悪くないのかもしれない。隠されている真実を知るのは、かさぶたをはぐようで痛々しい。でもその痛みは、成長や自立と表裏一体だとも思う。だから、焦らなくてもいい。ゆっくりとその人のペースで、その蓋を開けていけばいいのだから。

やっぱり小川糸さんの物語はやさしかった。

最後まで読み切れてよかった。

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