不自由さは前へ進む原動力。西加奈子さんの「ごはんぐるり」を読んで。
イラン生まれで、小学4年生までエジプトのカイロで暮らした経験を持つ、作家西加奈子さんの食エッセイ。
海外暮らしが幼少期の基盤としてある西さんの食に対する貪欲さは、「不自由さ」からきてるのかもしれないと思う。
虫や石が入っていないピカピカの白米。
安心して口にすることができる生野菜。
真っ白でふわふわの食パン。
日本では当たり前に食べられるものを食べられない不自由さ。その渇望が原動力となって、愛情たっぷりに食べるものを描写している。
例えば、料理本が大好きだという西さんは、思わずよだれが湧き上がってくるような映え写真が並ぶレシピ本より、ちっとも美味しそうに見えない粒子の粗い白黒写真の料理本の方が好みらしい。
その理由は「見た目の美しさ、印象に引っ張られることなく、活字の料理たちと、思う存分対峙できる」からだそう。
誰しも一度は経験したことのある「異国の食べもの」への憧れ。西さんは、文中に登場する未知なる食べものへの描写に夢中になったそうだ。
「文字で表す料理」は、実際のそれよりも、特別な魔法を持っているように感じるという西さんの興奮具合が伝わってくる。
異国の食べものでなくとも、「ほうれんそうのおしたし」や、「蒲鉾屋さんで買った蒲鉾を板から切り離した後に、板に残った部分を包丁でこそげるようにしたとったもの」などは、色も匂いも味もない文字で描き出した方が、よほど素晴らしく思えてしまうらしい。
その気持ちは私も、少しわかる。
異国のごはんに関して言えば、イタリア新婚旅行に行く前、本場ナポリで食べるナポリピッツァに期待が止まらなかったし、学生最後のスペインひとり旅では、何を食べようかと妄想が止まらなかった。
過去2回訪れたメキシコでは、お肉や野菜などの具材にたっぷりのワカモレやサルサを挟んだタコスや、レモンを搾ったシーフードセビッチェの写真や文字を機内で何度も眺めた記憶がある。
直近で言えば、義実家で正月のおせちの準備を手伝った際に、かまぼこを板から切り離した。こっそりとつまみ食いをする手を止められなかったのは、この本を読んだせいだったのかもと思ったけれど、味は想像の範囲内だった。
文字で描かれた食べものは、どこまでもどこまでも美味しさを追求できる。
今夏、一人旅をすることを決めたフィンランドに対しては、実は、食べものへの期待値はそれほど高くない。フィンランドは、衣食住の中で「住」がもっとも大事で、2番目の「食」は「住」に大きく引き離されての2位らしい。(ごはんぐるり お洒落って何 〜はじめましてのごはん・フィンランド〜 P112参考)
確かに、以前近所に住んでいたフィンランド人家族のお気に入りは、インドカレーと石川県で人気のチェーン店8番ラーメンだった。「料理はあんまり好きじゃないの」と語ったフィンランド人の友人Lauraは、外食やテイクアウトを楽しんでいて 「お母さんは手作りしなくちゃ!」という気負いは感じられなった。料理に時間をかけるというよりも、家族との会話や1人の時間、夫婦の時間を大事にしているように感じられた。
では私は今回のフィンランド旅に、どんな楽しみを見出しているのか。過去の旅と同等か、それ以上にワクワクを感じているのはなぜなのか。
それは「不自由さ」「渇望」があるからだと思う。
最後に海外に行ったのは、もう10年以上前だ。
今の生活に満足しているし、日本にいる方が物理的な不自由さも、移動の不便さも、言葉が通じない孤独さも感じることなく過ごせるはずだ。
それでも、そういう「未知の体験」をしている人たちへの憧れがあった。
「憧れ」とは、今は届かないけれど、いつか手にしたい目標。その距離を縮められるのは、自分しかいない。
今までのつもりに積もったその「不自由さ」「渇望感」が、旅への期待を未だかつてないものにしている。そんな気がしている。
不自由さは前へ進む原動力だ。
食への期待がそこまで高くないなんて書いたけれど、やりたいことはたくさんたくさんある。
アカデミア書店に行って、2階の吹き抜けから階下をのぞく私は、一体何を感じるのだろう。
かもめ食堂で、シナモンロールとコーヒーをほおばる私は、どんな表情をするんだろう。
マリメッコで試着を楽しむ私は、どんな顔で鏡に映った自分を見るんだろう。
頭の中で妄想していた風景が、現実のものになることを、今かいまかと待っている。
この「ごはんぐるり」のエッセイ集の中で、フィンランドのごはんについて語られているのは5ページ半。その中で「お洒落!」という言葉はなんと21回も使われている。そして驚くことに「お洒落」という言葉がフィンランドには存在しないそうだ。
西さんと同様、「お洒落やん!」と心の中で叫ばずに過ごせる自信は、私にはないなぁ。