見出し画像

記憶を失って、小さな感動を毎日得る

こんにちは、すうじょうです。さて、今回は自分の経験や思いを語るエッセイです。内容は、抽象的にタイトルで表現されています。

--------------------------------------------------------------------------------------

私は、色々と忘れやすい。言い換えると記憶が消えていっている。記憶と言っても、意味記憶や手続き記憶ではない。知らない人は今の一文は無視して構いません。エピソード記憶で、思い出の方のことだ。別に認知症ではないし、日常に支障をきたしているわけではないのでアルツハイマーというわけでもないと思う。支障をきたしていないのは、重要なことや予定はスマホにメモしているのとほぼ毎日先の予定でもチェックしているからかもしれない。

思い出が、消えていくのだ。もちろん、印象的な出来事は今でも覚えているし今後も忘れないと思う。消えていくのは、例を挙げれば、小学校、中学校の記憶は高校生の段階で細かい記憶がない。そのときの友達との会話や学校行事の内容などを思い出せなかったのだ。また、これは共感する人もいると思うが、前日の夜ご飯もよほど印象的な食事でない限り、翌日には忘れてしまっている。おそらく、年数がたった記憶に関してはおよそ3年経つと忘れてしまっているのではないかと勝手に仮説を立てている。高3の頃には、中3の思い出はほとんど忘れてしまっているのだ。

ここnoteは自由な場だと思っているので、この原因について勝手に考察してみようと思う。といってもタイトルを先に書いているので結論ありきの議論である。私は理系の人間だけど、科学的ではない考察になっているかもしれないことを先に宣言しておく。どうしてもこのような考察が好きなもので・・・

忘れているということは代わりに何かを覚えているのではないかと考えた。といっても思い当たるものはない。勉強かとも思ったが、なぜ勉強で物事を覚えることが思い出を忘れるのにつながるのかイマイチ納得できないのでそれは考えないことにする。

では、忘れる記憶とそうではない記憶を比較してみることにする。忘れていないのは大切な記憶たちで、忘れているのは今の自分にとってどうでもよい記憶たちであると言える。例えば、今月の予定は大事だが、自分の小学校の運動会のことは今の自分にとってはすごくどうでもいい。

では、意外に覚えている記憶があるか?直近(ここ数日)に思ったことや小さな感動を得たことである。小さな感動というのは、泣いたとかいうわけではないが、他の人のnoteを読んだり、ニュースを見て少し心が動いたり納得や学びがあったことだ。といっても、それも数日経つと完全に記憶から失われる。もちろん、改めて振り返るとそんなこともあったなとはなるが・・・ということは、もしかして

毎日の多くの小さな感動を覚えている代わりに、今の自分にとってどうでもよい昔の記憶を失っているのではないか?(暴論)

この文言は少し素敵だなと自分のことではあるが思った。だって、感動と記憶を交換していると言っているのだから。まるで、脳の中で小人さんたちが記憶というメモリに格納されたデータのようなものと感動という不定形の(ひょっとしてハート形?)暖かいものを交換してもらって、寒い世間に生きる日々の中で温まっているかのようだ。(急にどうした?)メルヘンチックな想像は書いてみたかったから書いただけです。特に後悔はありません。

とにかく、そう考えてしょうがないと思うことにする。しょうがないは逃げともいえるが、これは人生を楽しく素敵に生きるための逃げなので許してほしい。毎日、多くのことに小さな感動をしているのだからいいではないか。

このようにして自己正当化しておく。そうでもしないと、今のことも3年経つとほぼ忘れているのだろうかという漠然とした恐怖を抱き続けないとならないから。

日記として使っていないのであまり意味はないのかもしれないが、そうやって忘れないために毎日noteを書いているともいえるのかもしれない。きっと、1か月も経つと、書いたことは覚えているけど細かい内容は忘れてしまっているのかもしれないけれど。

--------------------------------------------------------------------------------------

以上、私の思いを伝えるエッセイでした。では。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?