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【読書日記】国境の南、太陽の西 / 村上春樹

2023年3月4日 読了

小説なり、映画なり、音楽なり、「この作品は自分のために作られた作品だ」と錯覚してしまうことほど気持ちの良い体験というのはなかなか無いと思う。ましてやそんな、中高生のときに体験するような錯覚を、まさか今になってさせてもらえるとは思いもしなかった。

村上春樹の長編(中編)の中では珍しく、精神世界や非現実的な現象が出てこない、リアル設定の恋愛小説(短編以外でファンタジー要素が出てこないのはノルウェイの森だけだと思っていた)。

裕福な時代に生まれた子供としては珍しく一人っ子である主人公は、一人っ子であるが故に周囲と壁を感じながら小学生時代を過ごすが、同じく一人っ子である女の子「島本さん」と仲良くなり、二人は特別な時間を過ごしていく。
しかし中学に上がってからは少しずつ疎遠になり、そのまま主人公はガールフレンドを作ったり様々な恋愛遍歴を経て大人になっていき、結婚して義父のもとで事業を成功させ、娘二人に恵まれジャズバーを経営する裕福な暮らしで幸福を手にする。
しかしそこに、25年ぶりに主人公の前に「島本さん」が現れ、少しずつ幸福の歯車がズレていく、というようなあらすじ。

あらすじだけ書くとなんて事のないありがちな恋愛小説だし、実際主人公は常に女性を品定めしているような奴で、性欲に従順で浮気をし、恋人を酷く傷つけた過去を持ちながら、幸福に暮らす結婚後も「島本さん」との再会によって心を奪われていく、どうしようもない人間である。
それでいて村上春樹の文体による内省的な描写によって繊細な人間性が描かれていくのもタチが悪く、この作品を「主人公が浮気しまくるけど繊細な描写で共感を生み出して良い感じにしてるだけの小説」と批判する人がいても正直反論できないと思う。それは本当にその通りだから。

それでも、そんな主人公のどうしようもなさに、どうしようもないほど共感してしまうのも事実であり、この作品は特にそんな「どうしようもなさ」を上手く捉えて描いた小説であると思う。

自分のしょうもない性欲で人を酷く傷つけ、それでも幸福な人生を送っている自分を許すことができず、「こんな自分が幸せになってはいけないのではないか」という罪悪感が常について回る感覚には、酷く共感してしまった。
正直に言えば自分にも似たような経験があり、そのときの自分をずっと許せずにいる。男のしょうもない性欲で人を振り回し、傷つけ、そのときの自分に会ったらぶん殴ってやりたいくらい許せないのに、もし今の自分が同じ状況に立ったらまた繰り返してしまうだろうという確信まで含めてこの作品で描かれていて、辛い気持ちにすらなってしまった。

酷く自分と重ねてしまうこの小説の主人公だが、こんな彼が都合よく幸福を手にする結末だとしてもムカつくし、かといって全く救われない結末だとしても悲しいし、どんな結末になるのか感情がぐちゃぐちゃにさせられながら読み進めたが、実際に迎えるラストは震えるほど素晴らしかった。
「自分には人生を選択する資格がない」という主人公に対し、主人公の妻・有紀子の「資格というものはあなたがこれから作っていくものよ」という台詞は、まさしく自分に向けられた言葉だった。自分が幸せになってはいけない、その資格が無い、ずっと自分につきまとう呪いのような考えを救ってくれる台詞だった。
これまでほぼモブキャラのような存在だった妻・有紀子の最後の長台詞がこの小説の評価を決定づけていると言っても良いほど、このラストシーンの有紀子の会話が素晴らしい。人生にハッピーエンドもバッドエンドも存在しないように、この小説にも明確な結末は無く、主人公がどんな人生の結末を迎えるかはこの小説が終わったずっと先にあるものなのだ。

村上春樹の作品は、読んだことが無い人からは「おしゃれで雰囲気だけの小説」という偏見を持たれやすいが決してそんなことはなく、人間の空虚さや孤独感に寄り添うのがとても上手く、それでいてストーリーテリングに長けた作家だと思う。
この小説も、家庭を持つ主人公の前に昔好きだった人が現れるという、恋愛モノとしてありがちな題材にも関わらず、ここまで完成されたワールドを作れるのはすごい。
基本的にはリアル設定の作品でありつつ、島本さんは夢や幻想の類の存在だったのではないかと思わせる描写もあって、島本さんの素性が全く明かされないあたりもこの作品の不思議な魅力となっている。セリフ一つ一つを取っても象徴的で、心に残る物語だった。

また、『国境の南、太陽の西』という標題は、村上春樹の他作品と比べてとても地味で、それゆえか村上春樹の長編の中でもこの作品の影が薄い印象があるが、実際読んでみると本当に素晴らしい標題だと感じる。

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