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記憶/外傷

 国立精神・神経医療研究センター主催のPTSD対策専門研修を受講する機会に私は恵まれた.講習会の中で久々に受けてよかったと思うものの一つと言って良い.これは厚生労働省のこころの健康づくり対策事業の一環であり、国立精神・神経医療研究センターという日本の精神医療をリードする研究機関が催すものだ.私は今回、たまたま講習会を受講できる機会があっただけに過ぎない.ちなみに受講料などは発生せず、別の手続きを踏む必要をして、希望者は研修に参加することができる.よって私には千載一遇の好機であった.謝謝..شكر جدا こんな機会は早々無い.せっかくなので、お勉強した内容を少しだけ共有できれば良いかと思う.

 PTSD(心的外傷後ストレス障碍)のT、「トラウマ」に関して私は恥ずかしながら全くの無知である.語義的なことを言うと、トラウマは古代ギリシア語で「傷」を指す.英語で用いられているのは後期十七世紀からで、心的な外傷というテクストで使ったのは十九世紀とされている.

 とは言えど、残念ながら十七世紀より遥か昔から人々は「トラウマ」と無縁ではない.そんなことは私が言わなくてもわかるだろうが、ここで「トラウマ」とは何かを確認しておく.狭義の定義には「実際にまたは危うく死ぬ、重傷を負う、性的暴力を受ける出来事への暴露」(DSM-V;米国精神医学会監修 精神疾患の診断・統計マニュアル)、広義の定義に「身体的または感情的に有害であるか、または生命を脅かすものとして体験され、長期的な悪影響を与えるもの」(SAMHSA;米国薬物乱用精神保健管理局)が代表的であろう.戦争、虐待、犯罪、災害、喪失、ネグレクトといった出来事が我々の精神に変調をきたすことは嫌でも知られてきた.エミール・クレペリン(Emil Kraepelin)も驚愕神経症(Schreck-neurosen)という疾患概念を記述しているが、これはPTSDの概念をよく表している.


 さて、PTSDを私が知る限り概説してみる.

 上記のトラウマに暴露された場合、それは直接体験でも、目撃でも、近親者に起きた心的外傷の伝聞でも、強い不快感を抱く細部を繰り返し見聞きするような体験が当てはまる.大きく分類すると、「再体験症状(フラッシュバック);トラウマ体験が蘇る」、「回避;体験を思い起こすような状況を避ける」「過覚醒;神経の高ぶりが続く.体の症状を制御できなくなる」「認知・気分の陰性変化;事象の認知に歪みが生じ、極端な自己否定感をもちやすい.自分に対してだけでなく他者や世界に対する見る目も変わってしまう」「感情の調節障碍;感情の制御ができず自分の気持ちもわからなくなる」「対人関係の障碍」が起こることが多い.これは診断基準に包括されている.このような症状が少なくとも一月以上持続し、社会的に臨床的に苦痛が生じているとき、診断が考慮される.

 考えてみると、気分障碍に重なるところは大きい.うつ病との併存はよくあるし、過覚醒症状は躁状態や他の精神現象と誤解される可能性もある.自身の戒めとしても問診と鑑別には十分注意する必要がある.

 このブログでもかつて取り上げた戦争神経症(臓躁病)も大きな傷跡の一つだ.ベトナム戦争に従事した米軍の研究や1970年代に認知され始めた性暴力被害から徐々に研究が進み、1980年にはDSM-IIIではじめて「心的外傷後ストレス障碍;PTSD」が提唱された.そのころから既に「複雑性心的外傷後ストレス障碍;CPTSD」の概念は議論されており、2018年にようやく国際疾病分類第11回改訂版(ICD-11)で正式な診断基準として採用されたに過ぎない.疾患概念というのは消えたり現れたりするファーストフードのメニューのようなもので(チキンタツタとか)、未だにCPTSDは議論を呼ぶ疾患である.とは言っても、国際疾病分類が重視するのは、臨床的実用性と、中核的症状に焦点を当てること、そして国際的な適用可能性を持つことだ.


 だから、ヘナチョコでクソザコナメクジな私よりも非常に優秀で聡明な人々が作成に関わっている.私にできることは診断基準を丁寧に丁寧に吟味することだ.ICD-11が日本でも使用されるようになるのは来年以降のことであるし、人口に膾炙するには時間がかかる.私達はあらゆる事象に意見することは保証されているけれども「複雑性」や当事者に対する評価について好き勝手論じる前に、まずは通常のPTSDの理解を進めることがより大切なのだと思う.そして「トラウマ・インフォームド・ケア*(Trauma Informed Care)」という考えが世に広まっていくことを期待したい.今回私が受講した理由には、自身の経験と昨今の社会の動きが関係しているかもしれない.PTSDは日本では過小診断されている可能性が極めて高いという.なんとなくそんな気はしたが遺憾である.

「いやいや、私は関係ないから.周りに精神疾患の身内もいないし、そういう人は気の毒だとは思うけど.えんがちょ!」ともし思ったのなら、失礼ながらそれは貴方が無能か卑劣漢か、とても幸福かどれかかかもしれない.統計的にはPTSDの有病率は0.7%とされている.標準誤差は0.2くらいだ.我が国の成人人口を仮に一億人とすれば、年間70万人!!(標準誤差を加味すると95%信頼区間で年間30万人から110万人)が上記の診断を満たすことになる.これは雑な計算にせよ、そんなにおかしくもないだろう.毎年数十万人がトラウマ体験をしていると考えるとこれは災害級の恐怖である.

*トラウマ・インフォームド・ケア:さまざまな疾患の患者にケアを行う際に、患者がトラウマを体験している可能性やトラウマの苦痛を和らげようとする不適応的な対処行動が、現在の症状につながった可能性を想定すること.これはすべての人が関わることができるケアである.

「こんなに辛い体験を私に話してくださってありがとうございます.よく話してくださいましたね.これ以上は貴方のこころが心配ですから、無理しないでおきましょうか」

 この考えはすごく大切なことで、無関心でいることも良くないが私達は人に余計なことをしてしまいがちだ.人に対して一定の節度を持つ態度が求められている.もちろんDPATなど医療者も災害地救援に駆けつけて、トラウマ体験をした人々に支援をすることはある.ところがどっこい、心理的デブリーフィングのように介入し過ぎるとかえって回復を妨げてしまう.これには正直驚いた.支援者の多くは温かい血が通っているからこそ、サイコロジカル・ファーストエイド(Psychological First Aid: PFA)*を展開するが、それは支援者自身の満足や急性期患者の即時効果という面で考えると、効果は短期的でしかない.もし介入をするのであれば、長期にわたって関与する態度が必要だという.カチカチの冷凍ひき肉を解凍しようとして、急いで電子レンジにかけても部分的に火が入ってしまうだけで、全体が均一にふにゃふにゃになることはない.ゆっくりと低温で解凍しなければならない.旨味の混じった2021年現在、緊急時の心理的デブリーフィングは世界的に否定されている.</p>

*PFA自体も非常に重要な概念である.PFAを否定しているわけではない.こちらを参照願う.

精肉を解凍する

 研修会でも「トラウマ記憶は冷凍保存記憶」だと触れられていた.これは至言だ.トラウマは無時間性と鮮明性を持つ.ゆえに時間を超越してピチピチの鮮度で私達のもとへ飛来する.トラウマ記憶は単なる過去の記憶ではない.現在でも苦しみを生み出している特殊な構造を持った記憶である.その想起には苦痛な情動を伴う.そしてその体験が強烈が強ければ強いこそ私達は言葉を失う.私は例の書籍の一文を思い出す.

 何かを語ろうとするときに、それが根源的な体験であればあるほど、言語の徹底的な不自由さを感じる.
岡真理、思考のフロンティアシリーズ「記憶/物語」より


 あるいは耐え難い受難は「偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃」*のように人知を超えた形態で表されるのかもしれない.李徴の感慨如何ばかりか.アオーン.

 *偶ゝ狂疾に因つて殊類と成る 災患相仍つて逃るべからず(ふとしたことから心を病んで狂気の結果身は獣となってしまった.災難が内外から重なって、この不幸な運命から逃れることはできない)

 さて、冷凍した鶏もも肉が解凍されるには、時間はかかる.でないと旨味の汁がこぼれてしまう.ならば冷蔵庫に入れておけばよい.常温でもいい.圧倒的な体験で氷結した心は、その圏外にある限りはいつか溶けてゆく.

 こうした経過は、私達に生来「レジリエンス(résilience)」という回復力が備わっていることで説明される.事実、PTSD症状をもつ人々の多くは自然寛解することが知られている.貴方が逆境でも、最後に挫けないのは素晴らしい弾性力があるからだ.だからといって放置していいかと言えばそんなことはない.どんなに回復力が強い草木でも土壌と日光と水がなければ萎れてしまうのと同様に、適切な環境構築が極めて重要である.トラウマ体験を被った人々に対して、徹底した安全保障を提供することは、初期対応の基本である.(それが難しいのであるが!)自分自身似たような経験をして、骨身に沁みるほど困難さと大切さがよくわかった霜月のこの頃.

 治療方法は徐々に構築されつつある.完全寛解する症例も一定数いるし、多くは良くなることが期待されている.これは朗報である.希望を持つことができる.だが、何よりも大切なのは物理的・心理的安全確保である.そして心理教育を受けることである.研修の講師は「心理教育が命」と繰り返し言っていた.心理教育とはなんぞや、ということになるが、「心的外傷体験後に精神状態が不安定になるのは決して珍しくないこと、症状は異常な事態を乗り越えるための正常な反応なのだ」と伝えることが一義なのだという.このような考えは(標準化)ノーマライゼーションの一つだ.

 薬物療法についても一定の適応があるという.本邦で保険適応となっているのはパロキセチンとセルトラリンというSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)である.ご存知の方にとってはこれらはうつ病の薬である.他にも併存する病態を加味して、ミルタザピン、ベンラファキシンやオランザピンやボルチオキセチンを使っているという講師の紹介があった.個人的には、どのような薬剤を使っているかという小技を教えてくれることは非常に参考になる(こういうのは友人のお兄さんから、ゲームの裏技を教わる小学生の気分と同じだ).当然症例によってさじ加減が異なるし、薬だけで決して良くなるものでもないことを強調しておこう.全米医学アカデミーの報告でもSSRIの有効性に関するエビデンスは不十分である.あくまでAugmentationかSupplementとして考えるのが良さそうだ.

スーパーヴィジョン・精神療法

 ではどのような治療法が有効なのか.その問に対してはいくつかの学会が出しているガイドラインが参考となる.少なくとも六団体が「トラウマ焦点化認知行動療法;Trauma Focused Cognitive Behavioural Therapy」を第一選択治療として推奨している.うーん、認知行動療法は聞いたことあるけれど、「トラウマ焦点化」なんて知らないなぁという人がほとんどだろうし、そんな治療どこに行けば受けられるのかな、という疑問も生じてくるだろう.私も知らない.少なくとも国立精神・神経医療研究センターはノウハウを知っている可能性は高いが、みんなが東京都小平市へ駆け込むわけにもいかない.それにこの精神療法を提供する人はスーパーヴィジョン(SV)を受ける(to be supervised)必要がある.

 SVとは何かを説明するのは骨が折れるし、SVを受けたことのない私が話をするのもどうかと思う.日本語熟語で説明を試みるとすれば、「薫陶成性」、「薫陶を受ける」ということだろうか.フィクションで例えると、ジェダイの騎士が入門の際に、師匠から心構えを教わるようなものだろう.でないとフォースの暗黒面に堕ちてしまう(スターウォーズ).精神科医が暗黒面に堕ちるとどうなるか.あっ……

 SVの仕組みは臨床心理士の世界でしっかり体系化されている印象をもつ.医師間では私の知る限りこのような仕組みはほとんどない.精神分析の界隈ならあるだろうが、畑が違うと文化も異なる.マスター・ヨーダ級の師範は一体どこにいるのやら……近年創設された公認心理師においても、今後SVのミームが引き継がれると良いなと密かに思う.

どこまでも低く

 話をもとに戻そう.「トラウマ焦点化認知行動療法」は敢えて(Dare)トラウマを焦点化して認知を修正する.上述したように、トラウマは凍りついた無時制の記憶である.このカチコチの記憶をじっくりコトコト低温で温めるということは、トラウマを単なる記憶に戻すことだ.名状しがたい体験を自ら証言することで、断片化した記憶を再建する.私達は何かを想起する瞬間、どうも記憶がふわっと揺らぐようなのだ.

「えーっと……」

 認知行動療法はこの瞬間を狙う.プラレールのY字分岐みたいなものだろうか.療法家は当事者が紡ぐ言葉を巧みに援助して、病的な記憶回路の再構築・再強化を食い止める手助けをする.あくまで支援である.これには専門性が要求される.誰もがやっていいことではない.当事者が影と対峙する取り組みを冷静に見守るのが精神医学の原則だ.「私が治す!失敗しないので」というスタンスとは一緒にしてはいけない.

 この態度を如実に表しているであろう文章を引いて、以上肥やしのようなクッサイ記事をお終いにしよう.以前も紹介したことのある、ルネ・シェレール(René Schérer)は歓待論(ホスピタリティ)における重要な哲人である.今読み返すと私は、これはトラウマ・ケアの核心に迫る文だと思う.今のところ、これでいい気がする.細かい精神療法は専門家の数だけ療法があるとも言われるくらい無数にある.そんな枝葉は眺めているだけで良い.私達は、ただただこの態度を尊重するに尽きる.眼前で微笑む相手に対して内界を慮る姿勢が求められている.綺麗事ばかりでは済まないとは思っていても、私は「低く」あり続けたいと心から思う.

Que veut dire témoigner? Non pas se faire pur spectateur, mais vivre avec; non pas contempler, mais partager; non pas se tenir en haut. où l’histoire se décide, mais être en bas où elle se subit. En bas, au plus bas, où le mot disponibilité cesse d’être un verbiage, pour devenir l’acte même d’exister.
René Schérer, Zeus Hospitalier;Éloge de l’hospitalité
証言するとは何をいうのか.純粋な傍観者となることではない.それは、共に生きることだ.観察するのではなく、分かち合うことだ.歴史が決定される高みに立つのではなく、歴史が耐えられている低さに身をおくこと.低く、どこまでも低く、受容性という言葉がもはや駄弁ではなく、現に生きる行為そのものになるような、そういう低さに身をおくこと.
ルネ・シェレール『歓待のユートピア』

ありがとうございました.

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