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# 48 悩める人間

自己愛について#47で思考、自己愛と進歩が幸福につながった。しかし、自己愛に関して語り尽くしていないし、神への愛についてもだ。
神への愛と自己愛は交わることのない平行線である。しかし、神への愛を最もとする人々から自己愛は公正性に欠けると指摘される。
自己愛をさらに深掘りしたい

漸進法で考える。
1。神を信ずることにより公正性を保ているのだろうか?
2。神を信じているなら、神が中心となるわけだ。自分が世界の中心であるという、不自然な立ち位置は回避できる。謙虚になれるし、公正な気持ちにもなれる。
3。その考えは西欧文化の匂いがする!
4。浄土真宗では南無阿弥陀を念じれば、救われると言う。この念仏を唱える事自体、弥陀の本願を信じ、受け取り、感謝の念を現しているのである。唱える事により、心安らかになり、公正性も増してくる。
5。無神論者が公正である事は叶わないと解釈すべきか?
6。そうではなくて、自己愛が公正性を欠くと述べているのだ!無神論者が公正であるのは別に不思議なことでもない。社会ルールを守り、マナーのある行動をとる紳士、淑女は愛とは関係なくても、バランスの良い社交家である。国家レベルでは多くの法律を策定する事で公正性を担保する。
一方、自己愛の強い心を覆い隠して、公正である事をアッピールすることも可能だ。
7。前者が良いのか、後者が良いのか?
8。選択する必要があるのだろうか?そもそも、両者は混在していて、容易に見破ることは出来ないのだ!
9。いやいや、これはあらゆる社会生活で、遭遇する。選択に迫られる場面もあるのだ。
自己愛を抑え戒める徳川家康の言葉を見つけた。
『人の一生は重荷を負て遠き道をゆくか如しいそくへからず
不自由を常と思へばふそく無し
こころに望み起こらば困窮したる時を思ひ出すヘし
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思ヘ
勝事はかり知りて負くる事志らされは害其身にいたる
お乃れを責て人をせむるな
及ばざる過ぎたるよりまされり』 
慶長九年卯月家康
国を納めるためには公正でなくてはならない。公正を期するには自己愛を抑えて生きてゆく。堪忍するのは重荷を負って遠き道を行くがの如し、という事なのだろう。この東照公遺訓から家康は素晴らしい君主であり、紳士であったことが伺える。

10。これは資本主義以前の話ではないか?公正感に配慮すれば多くは許されるというのが資本主義の基本ではないか!自己愛は重荷どころか、我慢する必要もないし、幸福感への切符のようなものだ。資本主義は経済ナルシシズムと言われているのだが、言い得て妙だ。
反面、そのもとでは、貧富の格差は拡大して行く。不公正へと偏よりがちで、如何ともしがたいのだが、公正なフリをしてアッピールする手段が残されている。
話題にしている公正であるが、時代とともに公正の内容が複雑化している。多くは法律でがんじがらめ状態である。さらに、各国家により公正に関する見解に違いがあり、グローバリズムで公正はさらに複雑化している。

11。公正をその様に軽々しく論じる事には反対だ。自己愛と進歩が幸福をもたらすと言うが、資本主義を考えると何かしら、違和感がある。

12。資本主義が間違っているとは思わない!経済ナルシシズムである資本主義を否定して、共産主義経済になり、問題は解決したのであろうか!国民はモラルハザードに陥り、働かなくなってしまったではないか!ソ連邦の崩壊は経済の崩壊でもあるのだ。果たして、資本主義に代わるものがあるのであろうか?
13。現在の資本主義が間違っていると言っているのではない!正しいとは言えないと思うのだ。
セルフラブを皆で共有して、自分を豊かにして、他人の幸福を祈るような気持ちを基調とした仕組みを作り上げる必要がある。具体的には自分の成長と共に、他人の成長を手助けする環境を構築するということだ。急ぐ事はないのである。必ず、その方向に歩んで行くはずだ。

14。それは、理想論の様にも思える。だが、資本主義を固定概念で捉えるのは良くないという意味では受け入れられる。資本主義は変貌しながら進化を続けている。
一方、経済ナルシシズムから経済セルフラブに進化しても、公正に関わる課題は次々と生まれて来る。
魂が心底、公正を欲するなら、神の前にだけしか本当の公正はない!
これは人間や社会の思い上がった心、悪習に気づかせてくれるし、身の丈にあった自分や社会に戻してくれる。
15。どんな人も魂の深層に公正感という漠然としたモヤモヤが内在しており、不可分である。
時々、神への愛と言う、交わることのない平行棒に乗り、行ったり来たりしながら、身を軽くしながら、揺らぎながら、迷いながら、生きている!
16。だが、エゴや自己愛だけで生きて行く人生もある。そうせざるを得ない運命もある。それでも、心に潜む公正感はそのような生き方の壁となり、心の葛藤から逃げ出したい気持ちになる人も居る。その最善の解決策は神への愛である。
それが出来ないのであれば、自己愛と公正感のバランスをとりながら、平衡感覚を磨いて行くしかない。
バランスを欠くと、勢い不公正な自己愛に沈んでしまい、ナルシシズムに汚染してしまう。
17。何か決めつけている様な論調だ。人間は変わる事ができる。
バランスを取る話なのだが、ナルシシズムに気付いたり、気づかなかったり、繰り返すのが普通の歩みのように思える。自己愛とナルシシズムは親和性があるし、そうなりがちだ。自覚すれば、バランスを取り戻し公正感を取り戻すことも可能であるはずだ。マインドフルネスになる事だってあり得る。ナルシシズムに知らず知らずに陥っているのではないかと、常日頃から見つめる心や、平衡感覚を養えば、公正感を取り戻せる、それで良しと言う話ではないだろうか!

今回もなんとなく、楽観的になりました。



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