見出し画像

#158:忘れる読書

落合陽一氏の本。タイトルが秀逸。

分かりやすいの功罪

情報の溢れる現在、本にしてもネットの情報にしても分かりやすいものが好まれる。

何かを調べて知識を得る時には、分かりやすいものは確かに良い。

しかし、知識を得た瞬間、それは消費される。つまりそのページや本は2度と見ない。

本やサイトの目的としては、それで良いのかもしれない。が、分かりやすい知識のみを蓄えているのがヒトの場合、簡単に消費されてしまう薄っぺらい存在になりかねない。

(もちろん知識とはヒトの一面でしかないが)分かりやすい人だという紹介の仕方は、あまり褒め言葉ではないような気がする。

ゼルダみたいな人

それに比べて、落合陽一氏の言ってることは、非常に分かりにくい。個人の感想だが、全体で3割くらい分かれば充分だと思っている。

頭の回転と知識の広さ深さと言葉のチョイスで、常人が容易に追いつけない難解さを誇る。

一方で突然とても明快に分かりやすいことを確信的に言うので、他の論点では、恐らく単にこちらが追いついていないのだろうと分かる。

この本を読んで感じるのが、彼の旺盛な知識欲と読書量や思考に費やすであろう膨大な時間。それを支える情熱、興奮は並大抵ではない。(根幹にはもちろん才能もあるだろう)

例えるなら、彼はゼルダのブレスオブワイルドのフィールドをひとり馬で駆け回って知識探究している感じ。祠で何かを深掘りしてきたり、聞いたことのない土地まで旅してるから、村人の我々はその話を聞くと新鮮かつ少し呆れる。

基本的には褒めているが、ゼルダの例えが全く分からない人には誠に申し訳ない。

忘れる読書

肝心の本の話。

煎じ詰めて要約すると「(web等と比較して)本は今でも充分に効用のあるパッケージだが、あくまでツール(手段)のひとつなので、自分の目的に沿って自由に読めばよい」とのこと。

本を読むこと、その内容を逐一覚え込むことが目的化してる読書は、ある意味、手段の目的化だというようなこと(意訳)が書いてあった。

僭越だが、全く同感である。

私に収集癖がないせいか知識量を増やすことや愚直に読書や学ぶことだけを励行する感じは、どうも本筋ではない気がしていた。まさしく、どうにも薄っぺらい感じ。

それを肴にして、自分でどう料理するか(思考するか)が楽しいのに。…とても勿体ない。

自分の思考を深めるため、感性を磨くため等、自分の目的に沿って、みんな本は自由な読み方をしていいんだよと書かれていた気もする…。

…が、もちろんタイトルの通り、詳しい内容はもう忘れてしまった。


この記事が参加している募集

読書感想文

サポートなんて恐れ多いので、代わりにコメントいただけたら嬉しいです。