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シジフォスの石——完成させない建築《サグラダ・ファミリア》


1.

「バルセロナに来てはじめて、ぼくは大聖堂を見に行った——近代的な大聖堂で、世界でいちばん醜悪な建物のひとつだ。まさにライン・ワインのビンの形そのままの、銃眼模様の尖塔が四つあった。バルセロナの大半の教会とは異なり、革命のときに損傷をうけなかった。「芸術的価値」のために命拾いしたとのことだ。これを爆破する機会がアナキストにあったのに、彼らがそうしなかったのは俗悪な趣味だとぼくは思う。もっとも彼らは尖塔のあいだに赤と黒の旗をかかげていた。」
——『カタロニア讃歌』(1938 年、ジョージ・オーウェル)

 1936 年、資本家やカトリック教会などの保守勢力に後押しされたファシストと闘うために内戦下のスペインへ赴いたオーウェルは、『カタロニア讃歌』の中でこう書いた。大聖堂とはアントニ・ガウディの《サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪聖堂)》のことである。サグラダ・ファミリアは爆破されることはなかったものの暴徒による破壊はあった。地下聖堂にある墓は暴かれ数年間放置され、ガウディがつくったスケールの異なる夥しい数の石膏模型が粉々になった。図面を引かなかったガウディにとって絶えず手直しを続けたこれらの石膏模型が、コンセプトを明確に現した施工図だったといえる。模型が破壊されたにも関わらず、サグラダ・ファミリアはその後も世の中の状況がどんどんと変わっていく中でつくり続けられた。1960 年代には、ガウディ没後の建設は作品性を損なうという理由で建築続行を反対する運動も起こり、ル・コルビジェやジョアン・ミロも賛同していた。表向きはスタイルを踏襲していないが、ガウディのコンセプトをしっかりと引き継いでいる《受難のファサード》を制作した彫刻家スビラクスも、当初においては賛同者の一人であったという。この建築物は、作者本人が死んでしまってからも仕事が連綿と引き継がれ、社会体制が変わり、世代を越えて、つくり続けられているのはなぜだろうか。


2.

「実験的方法は巨大な富と快適さを生むだろう、と(ロジャー)ベーコンは言った。前者は確かだが(というのは、すべての進歩や改善は作業所で生まれるから)、後者はそうではない。なぜなら、富は同時に貧困をもたらすように、もっとも富める都市に最悪の悲惨さの伴うのが見られるし、この悲惨は真なる貧困だからだ。」
——『ガウディ語録』

 ガウディが活動した19 世紀のバルセロナは、スペインの中でもっとも早く産業革命が成功し活気に満ちあふれる都市だった。当時のバルセロナは完全な格差社会で、資本家と労働者の間には富の不均衡があった。セーフティネットであるはずのカトリック教会は、政治へ干渉し私腹を肥やしていた。機能不全に陥った政治や社会問題に直接介入し世の中を変えようと、なかにはテロリズムによって富裕層、支配者を殺傷して社会を救済しようとする者もいた。国家製造推進教会爆弾事件(1891年)、ライアル広場爆弾事件(1892 年)など爆弾事件が相次ぎ、なかでも1893 年のリセウ大劇場爆弾事件は数十名の死者を出している。劇場は新興ブルジョワたちの社交場であり、特権階級を狙ったテロリズムであった。ボロを着て靴下の代わりに干したヘチマの繊維を靴のなかに敷いていたという浮浪者のような晩年のガウディからは想像もできないが、苦学して建築家になりエリートの仲間入りをした若き日の彼もまたこの劇場に出入りしていたという。何を思ったのか彼はこの悲惨な事件をサグラダ・ファミリアのロザリオの間に彫刻として記録している。「誘惑」と名のついたその彫刻は実行犯である無政府主義者が、悪魔が持つナポレオン3 世暗殺未遂事件と同形の爆弾に、天を仰ぎながら触れようとする瞬間が描かれている。政治は堕落、大企業は利益を独占し、世の中は閉塞感に覆われ、既得権益への不満が高まった貧困社会。誰もが行き詰まりを感じているのに動こうとしない。それならば自分がやるしかない。そう思い詰める人間がいてもおかしくない。貧しく孤立した者であればなおさらだ̶——暴力を行使した若者に共感してしまった自分を諌めつつ、ガウディが彫刻した、先の見えない状況を打開する手段をそっとさし出す悪魔の誘惑に惹きつけられてしまう。


3.

 サグラダ・ファミリアの三つのファサードのうち、唯一ガウディ本人がつくった《誕生のファサード》にある「幼児の虐殺」は、サンタ・クルス病院(ガウディが息を引き取った、貧者のための慈善病院)で死んだ子どもを直接型取りして制作された彫刻だ。

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[鋳型の倉庫(1917 年)中央に子どもの型が見える]

 他の彫刻も、ガウディが生活をしているバルセロナに住む市民、建設中のサグラダ・ファミリアの周辺にいる貧しい人びとや現場の労働者とその家族がモデルになっている。写し取られた彼らの表情や肉体は、聖書の登場人物や天使に重ね合わせられ、聖書の物語を織りなしていく。社会を支えるために払われた犠牲を象った貧困の記録が、贖罪聖堂を覆っているのである。ガウディは爆弾事件が続いた後、激しい断食を行っている。なぜ断食をしたのか明らかではないが、以降、社会の貧困の解決を自分の問題に重ねたように思われる。

10ガウディ断食

[友人が描いた断食するガウディ]

01聖堂に集まる貧者

[サグラダ・ファミリア周辺に集まる貧者]

 当時のサグラダ・ファミリア周辺は荒れ地で、貧しい人びとがたくさん集まっており、目の前にいる彼らを建設のために雇いその家族を気遣ったという話も残っている。貧困は複合的な要因、構造的な問題であり簡単に解消されるものではないが、それでも人びとが長く働き続け日々の糧を得られるような場があれば、少しは生活が快適なものに近づく。永続的に仕事を供給し続けることができる事業をつくり出すことができれば貧困の改善に寄与できる。工事が終わらないということは、仕事が永遠に供給され続ける状態である。サグラダ・ファミリアの“完成しない”建築工事は、仕事を産み出し続ける「個人が立ち上げた公共事業」だと言えまいか。聖堂建設に携わる人間にとって、神、そして芸術のための労働が生きる目的としての実践となれば、単に働き口をつくっただけではなく、弱り切った人びとの精神にこびりついた貧困の払拭にも奉仕することになるだろう。聖堂はここ数十年で大幅に工事が進み、当初の予定よりも150 年以上早い、ガウディ没後100 年にあたる2026 年に完成するという。どんな仕事においても完成させることは当然の目標ではあるが、はたしてガウディが生きていたら完成の前倒しを望んだだろうか。貧困の文化は、次の世代に受け継がれていくものだ。現在まで続く貧困の連鎖を断ち切るために、300年という世代を越えた芸術制作の過程がむしろ必要なのではないか。

 永続的に貧困を解消すること。そのための公共事業を継続させるには、政治体制と関係なく社会情勢が変わっても揺るがないコンセプトと技術、自給自足の生産組織が必要である。そもそもサグラダ・ファミリア建設は宗教書を扱う一介の本屋が発起人であり、民間から起こったプロジェクトであった。贖罪の聖堂であるため建設は人びとの寄付金によって成り立っていた。それゆえ、何度も資金難に陥った。ガウディも自分の土地を売り払い、私財を投じて工事を継続し拠点を維持し続けた。国に依らない不安定な事業ではあるが、すべてを民間のネットワークで運営することで国家権力から作品のコンセプトを守り、活動を続ける自由を確保する。芸術家・ガウディは聖堂建設を目的とした生産体制を組織し、サグラダ・ファミリアという芸術生産を中心とした経済圏を構築したのである。

 オーウェルの生きた1930 年代のファシズムの時代でも細々と工事は続けられたという。アナキストたちが聖堂を爆破せず尖塔に赤黒旗を掲げたことは、彼らがガウディの仕事を理解していたからだと考えると納得がいくのではないか。国家に頼らずに自給自足を目指す建築体制の中で労働者の相互扶助、同志的協力によって芸術生産がなされていたのだから、自治を志向し自らの規範をつくり遂行するのがアナキズムの基礎だとすれば、ガウディの仕事はそれを体現している。


4.

「サグラダ・ファミリア聖堂は贖罪の聖堂である。このことは犠牲(生贄)から養分を取るべきことを意味する。犠牲で栄養を取れないのであれば、脆弱な作品になるだろうし、完成もしないだろう。[中略]犠牲は悪い作品を成功させるにも必要である。犠牲は蓄えることができないから、善い作品を目指し犠牲を払う価値があろう。この聖堂の建設方法もしくは建設期間について不満を持つ人々は献金しない人々であり、彼らには、献金する人々が何の不平も言わないのに、献金しない人々は何をなすべきか、と問う必要があろう。」
——『ガウディ語録』

 作家であれば誰もが考えるようにガウディもまた、制作行為と対象の結びつきを問題とした。贖罪の聖堂を建設するのだから贖罪とは何か、聖堂を建設するとは何かを問い直さなければならない。贖罪が建前、表面的なものではだめだ。サグラダ・ファミリアの装飾が構造と分離せず一体となっているように、建築行為が贖罪と結びつき、聖堂を建設すること自体が贖罪の実践でなければならないはずだ。ガウディは私財を投じ、町で帽子を持って寄付運動もしたし、職人と同じく現場で働き肉体を捧げた。第一次世界大戦が始まり、仕事の右腕だったベレンゲールや親友だったパトロンのグエルが死んだ頃から、他の仕事を断り世間から離れて聖堂の建設現場に引きこもるようになる。「親友は皆死んでしまった。家族はいない、財産もない。これで建設に集中できる」と。仕事が終わると日課であるミサへ行きそのまま自宅へ帰り、翌日また現場へ行くという規則的な生活を繰り返し、「生きること」と「建築すること」が分ちがたく一体となっていくようにすべてを聖堂の建設に捧げていった。

 シジフォスの労働はけっして徒労ではない。たとえ破壊されたとしても、本当の芸術家は為された仕事を忘れないし、どれだけ些細な断片も無駄にはしないものだ。石を運ぶ針路を定め、労働そのものに動機(モチーフ)を与えることは芸術家の基本的な能力の一つであろう。芸術家ではない私の今の仕事は少なくとも芸術家のそれではなくて、繰り返し石を運び上げること、運ぶ道を均すことであり、積み上げられた石を支えることである。破壊することなく世界をつくり変えるためには、一見すると極めて地味なうごきも必要であろう。


「明日は早くおいでよ、うんときれいなものを造ろうじゃないか」
——ガウディの最後の言葉

03石工の工房1

[サグラダ・ファミリアにあった石工の工房]


Sa+: ISSUE #004 声と芸術生産』(2016年)初出(加筆)


*図版引用:『ガウディ 芸術的・宗教的ヴィジョン』 R.デシャルス/C.プレヴォー, 鹿島出版会, 1993

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