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専制主義国家が暴走し始めた背景を、ドラッカーのフレームから読み解く

ロシアがウクライナを侵略して15か月以上が経った。絶対に起こるはずがないと思っていた事が起こると、人はその理由を探したくなるものだ。

トゥキュディデスの罠や、地政学など、さまざまな角度から論評する方はいるが、ドラッカーのフレームから現在目の前で起こっている社会構造の変化について書いている記事はあまり目にしないので、今日はそんなテーマで書いてみようと思う。

歴史の「継続」と「断絶」

一般に「マネジメントの父」と記憶されることの多いドラッカーだが、ご本人は生前自らを「社会生態学者」と称していた。初期の著作は政治学の本であり、そのテーマはファシズム全体主義に対抗して、いかに”自由で機能する社会”を回復・維持・発展させるかにあった。

西洋社会は歴史上、社会の「継続」と「断絶」を200~250年周期で繰り返してきたとドラッカーは言う。ひとつひとつの時代は、常に自由と平等の実現を目指すべき領域と一心同体の関係にあった。

それが「宗教領域における自由と平等」とされた時代もあれば、「知性における自由と平等」とされた時代」もあり、直近の産業革命以降の約200年間は「経済領域における自由の時代(経済人の時代)」と定義される時代だった。さらに経済人の時代を区分すると、前半約100年の「商業社会」と、後半約100年の「産業社会」に区分できると言う。

ひとつの継続の時代がピークを迎えると、約50年ほどの断絶期がやってくる。やがて新たな領域が社会の中心となり、次の継続の時代へと入る。それまでの社会秩序が刷新され、新たな社会秩序が構築される。


これまでの社会秩序が前提としたもの

直近の「継続の時代」である産業社会は、企業が「機会の平等」や「個の尊厳と社会における位置と役割」を提供する役割を担うことによって、社会の秩序を生み出すよう設計されていた。

人々は企業を介し、生産活動に貢献することを通じて、社会とのつながりや社会的な位置を手にした。それゆえに、人々は職業選択や移動の自由は持つものの、それを行使する機会は比較的少なかった。日本における終身雇用制度に代表されるように、働く人の移動の自由をある程度制限することによって、社会の安定が生み出されていた。

ところが1950年台に入ると、専門知識を使って活躍する「知識労働者」なる存在が登場し、急速に増加を始めた。彼ら知識労働者は、1970年頃までには企業における中心的な存在となった。

中核的な資源は「資本」から「知識」へ

こうして僅か十数年の間に、知識労働者が保有する専門的な知識の活用なくしては、企業の成功もあり得ないという、新しい現実が生まれた。社会における中核的な資源は、それまでの「資本」から「知識」へと変わった。

20世紀産業社会の社会秩序は、主たる生産資源は企業の側が保有し、働く者は従属的な地位にあることを前提としていた。

ところが知識労働者は、自らの脳に「知識」という生産資源をもつがゆえに移動の自由をもつ。企業に従属することはない。自ら目的を考え、決定し、行動する。自らの知識や能力を生かし、自らが重視する価値観の実現と、企業が実現しようとする価値観を調和させることによって、より大きな成果をあげる。企業を自らと対等な存在と見る。

前提を失った産業社会の秩序は1970年頃には崩壊をはじめ、われわれは今なお、崩壊した秩序に代わる新たな社会秩序を模索し続けている。

社会の新たな秩序をつくるための鍵

新たな秩序を生み出すための鍵は、産業社会における企業が担った役割を、何によって代替すればよいかという点にある。つまり、「機会の平等」と「社会における位置と役割」を提供する社会機関は何かという問題に集約される。

知識労働者であれ産業労働者であれ、この社会に暮らす一人ひとりの人間誰もが、「機会の平等」「社会における位置と役割」をもたらす社会秩序を必要とする。秩序の空白を埋められなければ、一人ひとりの人間は社会から孤立・断絶し、やがて絶望する。

実はこの種の問題は、かつて商業社会が産業社会へと移行する際に露呈した問題と同種のものだと言える。そしてこの秩序の空白を軍国主義によって埋めようとしたのが、他でもないファシズム全体主義だったとドラッカーは指摘する。

知識を基盤とする社会

「次なる社会の秩序を、(企業に変わって)提供し得るものは何か?」

われわれが直面するこの課題は、政治体制を超えて万国共通の課題だと言える。自由主義体制、専制主義体制のいずれのシステムを採用しようとも、この問いへの答えなくして明日の社会秩序を生み出すことはできない。

そしてこの「何か?」の欄に代入できるものは、「知識」となる可能性が高い。ドラッカーは次なる時代を「知識社会」と名付けていた。

知識社会においては、自らの保有する知識と能力が「機会の平等」の根源となり、「社会における位置と役割」の根源となる。

現代社会最大の課題は、企業における機会平等、企業における社会的な位置がもはや意味をもたない状況を、いかにして知識における機会平等、知識における社会的位置に置き換えるかにある。

専制主義国が感じている脅威の正体

この課題の解決は、当然ながら自由主義諸国においても大変な困難を伴うだろう。しかし自由主義のメリットは、政治と非政治の権力を分離・並置させた多極社会化している点にあり、専制主義よりも柔軟度が高い。

問題は専制主義諸国である。彼らは政治領域の権力に、あらゆる非政治領域の権力を従属させている。基盤となる思想は自治ではなく統制であり、権力が一極集中しているために体制の硬直度が高い。

しかも知識社会の中核的存在たる知識労働者は、自らが生産資源を持つがゆえに従属の地位に置くことはできず、自由に移動する。専制主義と知識社会は非常に相性が悪い。ほとんど水と油の関係に等しい。

つまり専制主義を採り続ける限り、社会の内部矛盾を解決する手立ては存在しない。これこそが専制主義諸国が直面している、脅威の正体である。

われわれに出来ること

歴史上、専制主義諸国において政治的な目的と社会的な目的が対立するとき、優先されるのは政治的な目的の方だとドラッカーは指摘する。

おそらくかつてのナチスがそうであったように、現代のロシアも中国は、体制を脅かすこの脅威の正体を理解しきれていない。それゆえ外部の脅威を被害妄想によって創造し、あたかも敵の陰謀によって自国の体制が攻撃されるかのように振る舞う。

ロシアによるウクライナ侵攻だけではない。国際法の恣意的な解釈を伴う戦狼外交、「中国の自由」なる新たな自由の概念の創造、香港の統治政策変更、台湾および周辺国への軍事的脅迫、上海系の新興財閥郡の解体など、一見何の関係もなく見える数々の行動は、ひとつのフレームに統合して理解することができる。

この理解に立てば、残念ながら今後も専制主義諸国の暴走は続いていく。それは専制体制が危うくなるほど強まるだろう。しかし変化の流れに逆らい続けて生き残った体制は歴史上存在しない。

新たな時代への適応行動が体制の危機につながる以上、彼らを説得することも難しい。残念ながらわれわれに出来る対応は、当面の力関係のバランスを保ちつつ、彼らの自壊を待つことくらいである。

いずれにせよ、かつてドラッカーも言った様に、まずはわれわれ自身が自由な社会を維持発展させるべく、知識社会の新たな秩序を自らの意思と能力で創りあげなければならない。自由社会が知識社会の新たな社会秩序を確立するほどに、専制主義体制の自壊のスピードは早まっていくのだから。

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