見出し画像

アートの知識は、見えないものを見えるようにしてくれることもある

アートを鑑賞する方法は、自分が楽しければ何でも良い。

とはいえ「知識は鑑賞の邪魔」と最近巷でよく聞こえてくる。

鑑賞するために、知識はそんなに悪者なのだろうか。

例えば、ミケランジェロの専門家が膨大な資料の中から、当時の領収書を1枚1枚調べて、ミケランジェロの顧客、契約内容を調べる。一見、無駄な努力なようだが、その結果「システィーナ礼拝堂の壁画は、当時の教皇ユリウス2世が注文した」という事実が、浮かび上がってくる。

つまり、キャプションや美術書を通して我々が読んでいる事実の1行は、研究者達の努力の結晶であり、それが「歴史」であり「知識」だと、僭越ながらart(アート)を専門にしてきた私は考えている(以下、本記事では「art」をアートとする)。

まあ、「知識は鑑賞の邪魔」と言われてしまうのも仕方ない。それでも、アートを見るときに「目では見えないものを見せてくれる」ツールのひとつが知識だと信じている。

それを前提にして話をすすめる。

西洋美術史は、どこからはじまるのか。

この問いに対して、あなたは、どう答えるだろうか。

個人的には、先史時代の洞窟壁画(例:ラスコーの洞窟)と考えるけれども、「それって美術なの?」と考える人も多いかもしれない。

となると西洋美術のはじまりは、一般的に「古代ギリシア美術からはじまる」と考えるのが自然なのだろうか。確かにギリシア文化は、西洋文化の神髄ともいえる。

では、古代ギリシア美術の彫刻といえば、あなたは何を想像するだろうか? フランス、パリのルーヴル美術館所蔵の《ミロのヴィーナス》か、この《サモトラケのニケ》が、目に浮かぶかもしれない(画像1)。

画像1画像2

厳密にいえば、《ミロのヴィーナス》も《サモトラケのニケ》も、古代ギリシア美術というよりは、ヘレニズム美術に分類される。

実のところ、古代ギリシア美術の彫刻(主に青銅、大理石もあり)の大多数は、現存していない。現在我々が見ている「古代ギリシアと言われる彫刻」のほとんどが、古代ローマ時代に造られた模刻だ。

例えば、誰もが知っている古代ギリシアの彫刻家ミュロン(紀元前480年頃-445年)の《円盤投げ》も、青銅で造られたオリジナルは、現存していない。

次に、下の彫刻を見て頂きたい(画像2)。ドレッドヘア風の青年の裸体像だ。高さは、2m近くある。

画像2
画像1

この大理石の彫刻を「古代ギリシア彫刻」とわかった方は、西洋美術史を学んでいらっしゃるはずだ。

この彫刻は、紀元前590年〜580年、ギリシアのアッティカ地方(現在のアテネ周辺)で制作されたと考えられている。この時代の様式を、西洋美術史では、アルカイック期(美術)と分類する。この時期のギリシアでは、画像2の彫刻と同じような青年の裸体像が数多く造られ、一体をギリシア語の単数形で「クーロス」と呼ぶ。画像のクーロスは、「ニューヨークのクーロス」として有名だ(所蔵先が米国・ニューヨークのメトロポリタン美術館)。

彼の顔を見てみよう(画像3)。

画像3画像3

画像では、わかりにくいが、彼の口角は少し上げて微笑んでいる。これを「アルカイック・スマイル」という。アルカイック期に造られた彫刻には、男女問わず、このスマイルを見ることが出来ることから、アルカイック期の美術の特徴の一つとして考えられている。ただし、当時の古代ギリシア人達が、このスマイルにこだわった理由は、不明だ。

さて、このクーロスの左足を前に出すポーズ(画像4)は、古代エジプト美術でよく見受けられる。

画像4画像4

実は、古代エジプト美術と古代ギリシア美術は、無関係ではない。古代ギリシア人は、エジプトやオリエント世界から美術を学んできた歴史がある。

例えば、古代エジプト美術では、頭、胴体、足は、ある一定の比率を守って描く(彫刻の場合は彫る)。驚くべきことに、この《ニューヨークのクーロス》の頭、胴体、足の比率は、このエジプト美術の人体比率と同じなのだ。

つまり、この事実は、古代ギリシア人は、エジプトからその美術表現を学びながら、一般的に知られている「古代ギリシア彫刻」を発展させていった可能性を意味する。そして、このクーロスが制作されたアルカイック期の後に、パルテノン神殿の彫刻が造られたクラシック(古典)期がやってくる(画像5は、パルテノン神殿の一部の《イリス》)。

画像5画像5

そして、エジプト美術もオリエント世界なしに語ることは出来ない。簡単に言ってしまえば、オリエント世界なしにギリシア美術、しいては西洋美術も誕生しなかったとも言える。

この記事を読んでいただいた後、何か見えないものが見えてこないだろうか?西洋文化の神髄と呼ばれている「古代ギリシア美術」の背景に、もっと壮大な物語が見えてこないだろうか?

それでも「知識なんて邪魔だ」という意見もあるだろう。それはそれ。こちらはこちら。お役に立てば幸いだ。


画像リスト:
画像1 《サモトラケのニケ》紀元前190年頃 サモトラケ島 ルーヴル美術館(フランス、パリ)
画像2&3&4 《ニューヨークのクーロス》 紀元前590年〜580年 アッティカ地方と推定 メトロポリタン美術館(米国、ニューヨーク)
画像5 《イリス》 パルテノン神殿東ペディメント(ギリシャ、アテネ) 紀元前438-432年頃 大英博物館(英国、ロンドン)
画像1〜5の材質は、全て大理石。
(以上、全ての画像は、著者がフランス、米国、英国にて現地の各美術館で撮影)

NOTE:
*ギリシア美術の参考文献は、いろいろあるけれども、個人的にはNigel Spiveyの本がおすすめ。特に図版が美しいPHAIDONのシリーズで、彼の著書は以下の通り。

*「ギリシア」と「ギリシャ」で、日本では用途により区別して使用するが、このnoteでは、ギリシアに統一する。

*日本で王道の「西洋美術史」の教本といえば、美術出版社より刊行されている高階秀爾氏監修『西洋美術史』だと思う。本記事で主張している通り、先史美術(洞窟壁画)、オリエント美術、エジプト美術を押さえてから、古代ギリシア美術へ進む。使用している図版の数に関しては、賛否両論あるかもしれないが、基礎を押さえながらも充実した内容、この値段でコンパクトにまとめてあるのは、さすが。


追記:一部修正しました(2020/09/17)