見出し画像

片岡義男が書いたラハイナ③ウクレレを弾く少年、サイミンを食べた午後

『赤い帽子のバトロメ』(2000年)
「バトロメいうハオレで、いつも絵を描きよった」
祖父が語ったことを、思い出している。
祖父は山口県からハワイに渡り、マウイのラハイナへ。山から引いた水を貯水池にためて、適切な時間に水門を開き、砂糖きび畑の水路へ放つ。祖父はこの水門を造り、管理していた。

「ユーのファーザをバトロメが描き込んだことがありよったよ。学校から帰ると、ストアの前で何日も下絵を取りよったが。腕白小僧がバトロメの絵のなかに入りゃあ芸術よのう」
祖父は皺の深い顔で笑った。
十数年後、僕は父親に聞いてみた。父親は苦笑しながら首を振り、
「作り話だよ」
と、答えた。

30歳の夏の終わりに、僕は姉に宛てた手紙のなかに、祖父の話と父親の言葉を書いた。
姉は、バーソロミューの研究家がオランダに在住していることをつきとめ、父が絵に描き込まれた可能性を調べてもらった。
研究家からの返信は、次のように書かれていた。
『お問い合わせの出来事は、確かにあった』

「ユーのファーザをバトロメが描き込んだことがありよったよ。
学校から帰ると、ストアの前で何日も下絵を取りよったが。
腕白小僧がバトロメの絵のなかに入りゃあ芸術よのう」

『問題の作品は「雑貨店の音楽」という題名で、この絵を制作していた頃のバーソロミューの日記に「ウクレレを弾いているのはジェフリー・Kという地元の日系の子供」という記述を見つけました。Kはキタムラの略と考えて間違いないと思います。この絵には、ラハイナにあったニシハラ・ストアが描かれています』

『晴れた日の午後遅い時間です。店の前の道には陽が当たっていますが、板張りの歩道は影に。中央に店のドアがあり、なかの様子が描いてあります。ドアの脇の窓の前のベンチの片方で少年がウクレレを弾き、もう一方の端には中年の男性がすわっています。彼が少年にウクレレを教えているのは明らかです』

その油絵は、ハワイを第二の故郷としているベルギー人の富豪の所有となっていて、スイスにある別荘の居間の壁に掛けてある、ということだった。
その富豪をスイスの別荘に訪ね、絵を見せてもらう時を持とう、と姉と僕は語り合った。父が10歳だった頃の姿を目にする瞬間は、貴重な一瞬となるはずだ。

晴れた日の午後遅い時間です。店の前の道には陽が当たっていますが、板張りの歩道は影に。

父親は、ウクレレを弾かせると、名手と言っていい腕前だった。ウクレレを弾くのが好き、音楽の才能がある、楽器を器用にこなす、といったことに起因する腕前ではなく、ウクレレそのものに心の底から固執していたがゆえの腕前だったのではないか、と僕はいまでも思っている。

二世部隊の一員としてイタリーからヨーロッパを転戦した期間ずっと、ウクレレを持って戦ったアメリカ兵として、彼の名はいくつかの戦記のなかに登場している。
アメリカからイタリーへ向かう輸送船のなかから、彼はウクレレの弦をアメリカ陸軍に請求した。弦は上陸地点で彼に支給された。本当の話だ。

「敵地に上陸して僕が最初にやったことは、ウクレレの切れた弦を張り換えることだったよ」というのが、彼の語る兵士としての体験談の、唯一のものだった。「張り換えた弦を調弦して、コードをひとつ弾いたとき、涙があふれ出てね。この弦を届けてくれた国のために、思いっきり戦うのだ、と決意したよ」

二世部隊の一員としてイタリーからヨーロッパを転戦した期間ずっと、
ウクレレを持って戦ったアメリカ兵として、彼の名はいくつかの戦記のなかに登場している。

『姉とエルヴィス・プレスリーの会話』(2000年)
僕の姉が3歳だったとき、彼女の母親が死亡した。サンフランシスコの郊外をひとり自動車で走っていて、対向車と正面衝突したのだ。
姉の父親はすぐに再婚した。次の年に僕という息子を得た。そして僕が3歳のとき、僕の母親が自動車事故でこの世を去った。

このときから75歳で他界するまで、姉と僕の父親は、独身でとおした。
僕にとって父親は、遠い存在だ。母親とともに体験していく父親というものを、僕は知らない。だから遠いのだ。
父親が亡くなって間もない頃の、ある夜のこと。僕はカプリースにひとり乗って、夜のハイウエイを相当な高速で走った。

小さな町と小さな町とのあいだで、ふとカプリースを停めて外へ出た。しばらく歩いた。島をつつむ夜のなかに、僕は存在していないも同然だった。
ハイウエイと海に懐中電灯の光を向けてみた。光は夜のなかに吸い込まれた。
島をひとまわりして、晩年の父親が過ごした家に戻った。家には誰もいなかった。

父親が亡くなって間もない頃の、ある夜のこと。
僕はカプリースにひとり乗って、夜のハイウエイを相当な高速で走った。

別の夜には、家のなかの明かりをすべて消し、ラジオでメインランドの野球中継を聴くことも試してみた。父親は野球が好きだった。受信機やアンテナは父親が作ったものだ。無線は彼が生涯にわたって続けた専門の仕事だ。
ビッグ・リーグの試合中継は鮮明に放たれた。

子供の頃に頻繁に遊んだ海岸は、フレミング・ビーチだと父親は言っていた。
ある暑い日、僕はひとりでビーチへ行ってみた。
陽ざしを受けながら、マットの上で寝返りを打つと、上体が熱い砂と触れ合った。砂と太陽の香りを僕は吸い込んだ。子供の頃の父親が親しんだのは、間違いなくこの香りなのだ。

田舎町で、父親とサイミンを食べた午後を思い出す。ほとんどのテーブルは、大きな樹に囲まれた屋外にあった。
ポリネシア系の若い女性が注文をとった。
かなり時間がたってから、彼女は親指をサイミンのスープにひたすスタイルで持ってきた。
「ポリネシア親指スープのサイミンだよ」
と父親が言った。

ポリネシア系の若い女性が注文をとった。
かなり時間がたってから、彼女は親指をサイミンのスープにひたすスタイルで持ってきた。
「ポリネシア親指スープのサイミンだよ」と父親が言った。

姉に関する最初の記憶は、干し葡萄をチョコレートでくるんだキャンディの袋に印刷してあったサンシャインという言葉の意味を、説明してくれたことだ。
姉は口から葡萄だけをつまみ出した。
「干し葡萄とは、葡萄に吸い込ませた太陽の光。だから別名サンシャイン」

9歳のときに僕はハワイから日本に戻った。姉と父親も一緒だった。日本へ持っていく荷物は船に運んであり、身のまわりの荷物だけが家に残った。その様子が悲しくて僕は朝から泣いたような状態だった。
姉は僕に英語で訊いた。
「荷造りはできたの?」
「イエス」
「なにか不都合があるの?」
「ノー」

僕が15歳の頃、姉はカリフォルニアにいて、高飛び込みに熱中していた。
姉は19歳だった。まだ成熟しきってはいない見事に整った体が、陽ざしを全身に受けとめながら、落下しつつ何度も回転した。
限度いっぱいに攻撃的にならなければいけないカリフォルニアの空気のなかで、姉は受容力そのものだった。

姉に関する最初の記憶は、干し葡萄をチョコレートでくるんだキャンディの
袋に印刷してあったサンシャインという言葉の意味を、説明してくれたことだ。
姉は口から葡萄だけをつまみ出した。
「干し葡萄とは、葡萄に吸い込ませた太陽の光。だから別名サンシャイン」

20代のなかばには、エルヴィスのそっくりさんのバンドで、ギタリストを務めていた。サン・レコードでレコードを作っていた頃から、陸軍に入隊するまでのエルヴィスを再現した。
姉は、気楽な様子でスコティ・ムーアのようにギターを弾き、ステージを楽しんでいた。

エルヴィスが衛星中継でアロハ・フラム・ハワイの公演をおこなったとき、姉はホノルル警察で空手の教官をしていた。空手遊びの相手として姉は前後3回、エルヴィスと空手を楽しんだ。
このときの会話を語ってくれた。スターになりつつあった彼は仕事でニューヨークへいき、汽車でメンフィスに帰った。

メンフィスの駅に向かう途中、エルヴィスの自宅の近くを汽車は通過した。ここで降りれば自宅まですぐなのに、と話していると、汽車は速度を落とし始めた。彼はデッキから線路の脇へ降りた。
このとき、機関手に頼んで汽車を停めてもらったという説があるが、間違いだ、とエルヴィスは力説したそうだ。

メンフィスの駅に向かう途中、エルヴィスの自宅の近くを汽車は通過した。
ここで降りれば自宅まですぐなのに、と話していると、汽車は速度を落とし始めた。
彼はデッキから線路の脇へ降りた。

※上記の文章は、片岡義男さんの作品『赤い帽子のバトロメ』『姉とエルヴィス・プレスリーの会話』の抜粋であり、表現を補うために、ウェブ上に公開されている写真を添えた。
『ラハイナまで来た理由』として1冊にまとめられた片岡義男さんの26の短編小説の全文は、下記のウェブサイトで公開されている。
青空文庫

片岡義男.com全著作電子化計画

関連する投稿

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?