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カメハメハ大王の生涯

1758年11月の嵐の夜、ハワイ島北西部のコハラで、カメハメハは生まれた。
父は、ハワイ島の王を継ぐカラニオプウの弟カラニクプアケオーウア。
王族が、強力なライバルの出現を予感したからなのか、赤子は、その夜のうちに実母から離され、母方の一族に匿われた。
カメハメハは、寂しい人という意味。

King Kamehameha I Birthplace

1778年11月、ジェームズ・クック艦隊は、ハワイ島沖でカラニオプウ王の公式訪問を受けた。
クックは、王に同行したカメハメハについて「野蛮な顔つきに見えたが、性格は良くユーモアのセンスを持ち合わせていた。立ち振る舞いはいくぶん威圧的だったが、交渉の中では中心的役割を担った」と書いている。

“King Kalaniopu’u Welcomes Cook” Painting by Herb Kawainui Kāne

老いたカラニオプウ王は、息子キワラオーを新王に、カメハメハを息子の補佐役として戦争神クーカイリモクを祀る役に定めた。
1782年に王が亡くなると、二人は戦い、カメハメハが勝利した。
彼は、マウイ島ハナの首長ケエアウモクの娘カアフマヌと結婚。
ハワイ島の新王の娘ケオプオラニとも結婚した。

“Queen Ka‘ahumanu in 1816” Painting by Louis Choris

1786年にハワイを訪れたポートロックとディクソン両船長は、カウアイ島のカエオ王にたくさんの武器を与えた。
これを知ったカメハメハは、1788年にハワイ島を訪れたダグラス船長から回転砲を入手。
ダブルカヌーに備え付け、中国で大砲の使用方法を学んだカウアイ島のカイアナ王子を味方につけた。

“Kamehameha’s Double Canoe” Painting by Herb Kawainui Kāne

マウイ・オアフ両島を治めるカヘキリ王も、西欧人から大砲を入手し、ダブルカヌーに西洋船式の帆装をして、天下統一をめざした。
1790年のハワイ最初の海戦でカメハメハ軍はカヘキリ軍を撃退。
艦隊を指揮したデービスとヤングは、英国船とハワイ島民とのトラブル後、カメハメハが保護した乗組員。

“Battle of the Red Mouthed Gun” Painting by Herb Kawainui Kāne

カメハメハは1791年、ハワイ島コハラに人身御供を行う戦争用神殿プウコホラ・ヘイアウを建設した。
和戦交渉を行うためと偽って、コハラに呼んだキワラオーの異母兄弟ケオーウアを、首長間の儀式に使う神聖な槍で突き殺し、神殿のクーカーイリモク神に捧げた。
ここにハワイ島は再び統一された。

“Building of Pu’ukohola” Painting by Herb Kawainui Kāne

1793年2月、バンクーバー船長は、クック船長の下士官時代以来のカメハメハと面会。
「若き日々のどう猛さは和らげられ、振る舞いは開放的で快活であり、性格にも寛大さや徳が加わっていた」
5頭の雄牛、3頭の羊を与えた。
「牛が顔をむけると、カメハメハはびっくりして群衆の中に逃げこんだ」

“Ruling Chiefs” Painting by Herb Kawainui Kāne

カメハメハは、150人の兵士を動員した模擬戦でバンクーバーを歓迎した。
槍で武装した兵士は二手に分かれた。
敵はカメハメハに向かって渾身の力を込めて6本の槍を同時に投げた。
カメハメハは最初の槍を手で捕まえ、その槍で他の槍を次々と払いのけ、最後の1本は身体をひねってなんなく避けた。

“Kamehameha Catching Spears” Painting by Herb Kawainui Kāne

バンクーバーは火器を披露した。
大砲が火を噴くたびに、カメハメハは西欧文明の威力を胸に刻み込んだ。
そして他の島との和平について話し合った。
カメハメハは、マウイ島とモロカイ島の割譲を要求した。
バンクーバーは、カヘキリ王やカエオ王がそれぞれの島を治める形で和平すべきと進言した。

George Vancouver

1794年2月25日、ディスカバリー号の上で、ハワイ島の首長たちの大会合が催された。
彼らは「ハワイをイギリスの保護領とするべし、しかし内政はハワイ人が維持すべし」と宣言した。
そして英国国旗が海岸に立てられ、祝砲とともに住民は「カナカ・ノ・ベルタニ」(我々は英国の人間だ)と叫んだ。

“Alii Royalty” Painting by Herb Kawainui Kāne

マウイ・オアフ両島を治めるカヘキリ王が1794年に亡くなると、弟でカウアイ島のカエオ王と息子カラニクプレが対立し、息子が勝利した。
カメハメハは軍備を整え、マウイ島とモロカイ島を制圧。
さらにオアフ島のワイアラエ湾に上陸し、カラニクプレ軍をヌウアヌ渓谷のパリ(断崖)から突き落とした。

“Battle at Nu’uanu Pali” Painting by Herb Kawainui Kāne

カメハメハはカウアイ島攻略をめざしたが、1796年は嵐に阻まれ、1804年はコレラに感染し、断念。
1810年、カウアイ島のカウムアリイ王は、カメハメハをハワイの支配者として認め、1797年に生まれたカメハメハ二世リホリホを後継者と認めることで、生涯カウアイ王の地位を約束された。

カメハメハのハワイ統一のあゆみ

1810年、カメハメハは、帰国するキャンベルにジョージ王への挨拶状を託す。
「私は英国生まれだが、王に会ったことはない」と答えると、大王は驚き「人々の中に入っていかなければ、人々が何を望んでいるかを、どうやって知ることができるのか。他人まかせでは上手に知ることはできない」と言った。

“Kamehameha I” Painting by an unknown artist, c1815

ボストンの商人は1787年、ホーン岬を経て北米太平洋岸ヌートカで入手したラッコの毛皮を広東で売り、中国の茶、絹、陶磁器を得る貿易を開始。
1791年、中国人の好む白檀がハワイに自生するのを発見。
カメハメハは1811年、乱獲を押さえつつ利益の25%を得る形で白檀の輸出を独占した。

「Santalum album/Indian sandalwood/白檀」Painting by Hermann Adolph Köhler

カメハメハは1812年8月、ホノルルを離れ、マウイ島を経由して、ハワイ島のカイルアコナに到着し、王宮を建設した。
アフエナ神殿には、自らが築いた王国の安定と自身の健康を願って、平和と豊穣の神ロノと病気治療の神コレアモクを祀ったとも言われる。
1813年8月、2人目の息子が生まれた。

「1816年、ハワイ島のカメハメハ大王に謁見するロシアのコツェブー船長」 Painting by Louis Choris

19世紀初頭のハワイには、ロシア船が頻繁に来訪した。
英米に遅れを取ったロシアは、毛皮貿易とハワイの植民地化で劣勢を回復しようとした。
1814年、カウアイ島のハナレイ渓谷にロシアの要塞を建造した。
カメハメハはホノルルに要塞を建造し、カウムアリイにロシア人を追放する命令を下した。

「1816年のホノルル港」 Painting by Louis Choris

カメハメハは晩年、英国の保護下に入ることやサンドイッチ諸島という名を嫌い、「ハワイ島の王の島々」という名を好んだ。それまで掲揚した英国旗を止め、1816年、英国人ベックリーにハワイ王国旗をデザインさせた。今日のハワイ州旗で、左上に英国旗、8本の横縞はハワイ人の住む8つの島を示す。

ハワイ王国旗(1816年~1845年に使用されたもの)

1819年5月8日、カメハメハが亡くなると、司祭は魂が神界へ着くように豚を供犠した。
女たちは、禁止されている豚とココヤシを食べ、売春行為をした。
男たちは、女装し、前歯を折り、入れ墨をした。
秩序を一度否定して、改めて秩序を回復するためだ。
遺骨は、聖なる洞窟に秘密裡に埋葬された。

“Kamehameha's Final Days” Painting by Brook Parker

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