現代における高性能カーボンシューズの寿命 / マラソン世界記録を更新したスーパーシューズのハイパーレスポンダー
著書「持久系アスリートのための耐久力(エンデュアランス)の科学」でお馴染み、科学ジャーナリストのアレックス・ハッチンソンさんが執筆した最新のカーボンシューズに関する記事が面白かったのでシェアします。
この記事の内容を要約すると以下。
現代におけるカーボンシューズの寿命
ランニングにおける各カーボンシューズでは、カーボン自体の性能差はあまり差がなく、ミッドソールの性能差がパフォーマンスに影響をもたらす
現代のカーボンシューズの主流フォームであるPEBA(ポリエーテルブロックアミド)などの熱可塑性エラストマー系フォームは、ブースト(TPU)やヴェイパーフライ4%(PEBAX)が登場するまで主流であったEVA(エチレンビニルアセテート)フォームよりも反発弾性やクッション性、軽量性に優れる。しかし、EVAよりも性能が高いといえるPEBAのほうがシューズを履き潰すにつれて劣化が進む(性能が落ちていく)うえに製造コストが高いので、耐久性が全体的に高くなく、価格も高騰していることでコスパが以前よりも悪くなっている。お金をかけてパフォーマンス力を買うという表現はある意味、今の時代を反映しているが、パフォーマンスを競うものではない練習、例えばジョグは高性能シューズを履かずしても、廉価のシューズやコスパの良いシューズを履くほうがお財布に優しい。
adios pro evo 1は特にミッドソール(非圧縮成形フォーム)の性能の劣化が激しい
シューズの寿命というのはランニングフォームや体格などで個人差があるのでハッキリ断言できるものではないが、全体的な傾向として高性能フォームのミッドソールは履き潰すにつれて劣化が進む。adios pro evo 1は特にミッドソール(非圧縮成形フォーム)の劣化が激しく(いわば諸刃の剣)、これがこのシューズの「寿命が短い」と言われる理由である。例えば、発泡スチロールは非常に軽い。しかし、発泡スチロールをミッドソールに採用するとかなり軽くなるが、走り始めてすぐにミッドソールの部分が破壊されていくことがすぐにイメージできると思う(この例えはかなり極端ではあるが)。
EVAは低温下での硬化の影響を受けやすい = 剛性が高まる
私は過去に冬季によく故障していたのでこの影響があったと思っている。冬季は筋温を温め、血行を促すのに時間や手間がかかるし、ケアもその分多く必要になる。それを怠ることで故障も増えるわけだが、ミッドソールの硬化によって着地衝撃が増すのもこの時期の特徴である。ブースト(TPU)はこの気温による硬化の影響を受けないということが当時の売りの1つであったが、一方のEVAフォームは特に冬季の気温低下で硬化して剛性が高まっている(硬くでカチカチになっている)ので、特にリカバリーラン、イージーランではできるだけ硬くない路面を走ったほうが良い。つまり、気温の影響を受けやすいEVAフォームのシューズ(触ってカチカチに硬いシューズ)で走る時は冬季のアスファルトは避けたほうが好ましい、と個人的には感じる。この例えはもかなり極端ではあるが、路面が硬く剛性も高くてしかも薄底のEVAシューズ(従来の薄底シューズ)で冬季にジョグするのは、今となってはもはやピンのついてないスパイクを履いてアスファルトの上をジョグをするような行為です。
劣化が激しいPEBAフォームの高性能シューズの寿命を伸ばすためには履き分け(シューズを休ませ)て1つのシューズを24時間以内に連続使用しないことが重要
EVAフォームのシューズは今でも存在していて、アディダスならライトストライク(アディゼロSLなど)、ホカならカーボンXシリーズやその多多数、ナイキでもストリーク6とかの薄底を今でも持っている人はそれに該当する。これらのEVAフォームのシューズは、履き潰していくことでの性能劣化が、PEBAフォームのそれに比べて比較的少ない。一方、現代の多くの高性能シューズ(ここではPEBAなどの高性能フォームのシューズ)は、着地衝撃で潰れたフォームを復元するためにシューズを休ませることが重要である。つまり、何足か練習用のシューズを持っておくことで、体を休めるのと同じようにシューズを休めてあげることで、耐久性をキープするような効果が見込める。言い換えれば劣化を少しだけ抑制することに繋がる。例えば連続して行うような練習、ジョグで使うシューズがPEBA系のシューズ、例えばペガサスターボであれば、特に2部練習をしている人なんかはそのシューズを午前と午後で連続使用しないことが推奨される。シューズのコスパを高められるか否はその人の使い方や保存方法にも影響を受ける可能性があるのです。
その他、冒頭の記事では、800kmほど走行すれば高性能シューズも劣化がかなり進んで、劣化がプラトーになる(それ以上の劣化が進みにくくなる)と記載されている。
マラソン世界記録を更新したスーパーシューズのハイパーレスポンダー
もう1つ最新のカーボンシューズに関する興味深い考察をシェアします。
2023年には男女でマラソンの世界記録が更新された。
ベルリンマラソンではティギスト・アセファがadidas / adios pro evo 1を着用して2:11:53の女子マラソンの世界記録を更新。
シカゴマラソンではケルヴィン・キプタムがNike / Alphafly Next% 3を着用して2:00:35の男子マラソンの世界記録を更新。
これらの新記録を受けて、トム・ヒューズさんという方が「キプタムはスーパーシューズのハイパーレスポンダーであると定義する必要がある」と、以下のようなツイートをしている。
ハイパーレスポンダーとか、同じような意味のスーパーレスポンダーということの意味としては、高性能カーボンシューズ、例えばadidas / adios pro evo 1やNike / Alphafly Next% 3といった最新のシューズを履いて、そのシューズを履きこなしてパフォーマンスを最大化できるかどうかは個人差がある。シューズの実験でもある何種類かのシューズを何人かに履かせて走行するとランニングエコノミーの向上率に個人差が出る。この時、向上幅がとても大きい被験者(この場合ランナーとして)のことをスーパーレスポンダーとかハイパーレスポンダーと呼んだりしている。
ヴェイパーフライ4%が世に公表された時に明らかになった、従来の薄底シューズとヴェイパーフライのプロトを履き比べた論文では、ヴェイパーフライ4%のプロトを履いた時は、従来の薄底シューズ(ストリーク6やアディオスブースト2)よりREがかなり向上した人(スーパーレスポンダー)がいたが、そうでなかった人もいた。
そして、ヴェイパーフライ4%のプロトは、そのRE向上の平均値が4%だったことからのちにヴェイパーフライ4%の名が付けられた。
こちらのnoteで触れているのだが、現在では各社のカーボンシューズの性能際がそこまで大きくないため、それぞれのランナーに合った「シューズの剛性」を見つけることが必要だと示唆されている。つまり、選手ごとに合う合わないシューズを見つける努力というか試行錯誤もすごく大事だということで(お金も時間もかかるのだけれども)、自分自身をハイパーレスポンダーにしていく姿勢が大事だということ。
それにはいろいろ方法があって、1つは単純に数多くのカーボンシューズを試すこと。何度の言うようにお金も時間もかかるのだけれども。もう1つは、あるカーボンシューズでのパフォーマンスを最大化するために、筋力強化または補強、股関節可動域の拡張とかドリル、プライオメトリック(接地時間の短縮)などといった、どちらかというと生理学的要因ではなくバイオメカニクス的な要因の改善を行うこと。多くのシューズを試して、フィジカル要素も同時に高める取り組みを行う、この2つを同時並行でできれば理想であるが、これは別に長距離選手だけでなくスプリンターでも同様のことをやっているだろうし、スプリンターにもそれぞれのスプリンターに合った「シューズの剛性」を見つけることが必要だと思う(パフォーマンスを高める以外にも故障を防ぐという意味でも)。
さて、本題に戻るとトムさんは(おそらくシューズ選びにおける)RE向上率に関して、以上のように定義している。
・RE向上せず or 悪化者:ノンレスポンダー
・0-2%のRE向上者:ローレスポンダー
・2-5%のRE向上者:スタンダードレスポンダー
・5-7%のRE向上者:スーパーレスポンダー
・7%以上のRE向上者:ハイパーレスポンダー
と定義。
そして、キプタムは(アルファフライ3を最大限使いこなしている)ハイパーレスポンダーであると主張しており、キプタムとキプチョゲ(前男子マラソン世界記録保持者)の身体的特徴について以下のような比較をしている。
キプチョゲ:167cm、52kgと比較的小柄のマラソンランナー
キプタム:180cm、65kgと比較的細身だが大きいマラソンランナー
トムさんのツイートによると、キプタムのような大柄なタイプの長距離ランナーでアルファフライ3のような超スーパーシューズのポテンシャルを十分に享受できるフィジカルを持つ選手、ハイパーレスポンダーであれば、2:00:35の世界記録には驚かないと。
REなど実際の確かなデータがあるわけではないが、キプタムのレースぶりがネガティブスプリットでとんでもないラップを刻んでいるので、間違いなくアルファフライ3は彼に合っている(使いこなせている)と思われる。
ハイパー / スーパーレスポンダーを目指すか or 無難なシューズを選ぶか
12/3のバレンシアマラソンで男子5000、10,000m世界記録保持者のジョシュア・チェプテゲイがマラソンデビューを迎える。このレースにはナイキから中国ブランドのアンタ(安踏、ANTA)との契約を結んだケネニサ・ベケレも出場するのでより一層注目が集まっている。
ベケレがアンタのどのシューズ(こってりタイプのc10proかあっさりタイプのc202 5gt proか)を履くかに個人的に注目しているが、チェプテゲイは上記の記事内で「アルファフライをマラソンで履くには自分はまだ適していない」と述べており、ヴェイパーフライネクスト%2か3を履くのではないかと思われる。
このようなことから、チェプテゲイがマラソンにおいてアルファフライという超高性能シューズのハイパーレスポンダーに向かっていく可能性は現時点ではなさそうだ。ただし、もし今後キプタムやその他の選手が公認レースでサブ2を達成するのなら、どちらかというとINEOS 1:59でキプチョゲも履いていたアルファフライのようなタイプのシューズ着用者ではないかと思う。
そういった意味では、ベルリンマラソンでティギスト・アセファがadidas / adios pro evo 1を着用して2:11:53の女子マラソンの世界記録を更新したことはキプタムと同様に注目に値する。彼女もこの最新の超高性能シューズのハイパーレスポンダーである可能性が高いからだ。
それを裏付ける証言がある。
アセファのコーチであるゲメドゥ・デデフォは自らが指導する選手でアセファよりもアマネ・ベリソ・シャンクル(2023年ブダペスト世界選手権女子マラソン優勝、PB 2:14:58)の方が強いとNYCマラソン前のLRCの記事で述べている。
現代の陸上競技ではシューズの性能向上が目覚ましいが、短距離スパイクでもカーボンシューズでもこういったスーパーレスポンダーであるかどうかがパフォーマンスに影響してくるかもしれない。つまり、自分に適しているであろうギアを最大限使いこなせる技術力、フィジカルがあるかどうかも重要であり、ある意味では長距離種目も超トップレベルになればなるほどフィジカルスポーツとして新たな記録の水準を再定義する必要があるのではないだろうか。
つまり、今の2:00:35や2:11:53という男女のマラソン世界記録は、それが今後スタンダードになりつつあるかもしれないということである。また、ギアの進化によってアスリートの能力だけでなく、最新のギアをどれほど使いこなせるかどうかも、選手の評価基準の1つとなってもおかしくない。
そして、箱根駅伝の5区といったある意味では特異的なコースでもよりギア選びが重要になってくるのではないかとも予想する。もし、5区でキプタムやアセファのようなとんでもない快記録が生まれるとしたら、一体誰が、現代のハイパーレスポンダーとなり、新しい山の神となるのだろうか。
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