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現在の女子マラソンの世界大会でメダルを獲得するための「加速ラップ」

日本人選手が世界大会のマラソンを前にインタビューで「メダル獲得を目指します」という話をすることがあるが、具体的に後半の勝負所でどういうラップが必要なのか。それについて以下で考えてみる。

今回は女子マラソンにスポットをあてて、以下に2022年の東京と名古屋の優勝者(名古屋は2位も)と東京五輪女子マラソンのメダル獲得者のラップをみていく。基本的にはWMMも世界大会も優勝しようとすると、ハイペースで進まない限りは後半にペースを上げる「加速ラップ」の走りが必要。

はじめに:「日本歴代○○位」よりも勝率が大事

ここ4年間で中長距離種目の全種目の記録水準が向上したが、それはおもにシューズの変化による好影響だと考えられている(異論はあまりないと思う)。そのようなことを考えると、日本人男子のトップレベルのマラソン選手は将来的には2時間3分台を意識しているだろうし、女子は2時間18分台あたりで走る日本人選手もこの数年生まれるかもしれない。

しかし、いつの時代であっても勝負事なので、記録ではなく勝率という物差しで考えてみる。

こちらの記事で取り上げたが、男子マラソンのサブテン選手の中でマラソン戦績7戦以上かつ勝率5割を超えるのが以下の選手。

・E.キプチョゲ 🇰🇪 16戦14勝 / 0.875(勝率)
・A.ビキラ 🇪🇹 16戦12勝 / 0.750
・S.ワンジル 🇰🇪 7戦5勝 / 0.714
・瀬古利彦 🇯🇵 15戦10勝 / 0.666
・D.クレイトン 🇦🇺 22戦14勝 / 0.636
・H.ゲブレセラシェ🇪🇹 16戦9勝 / 0.563
・F.ショーター 🇺🇸  16戦8勝 / 0.500
・A.サラザール 🇺🇸 8戦4勝 / 0.500

現役選手ではキプチョゲただ1人である(だからこそ凄い)。また、瀬古利彦さんが当時いかに凄かったがよくわかる。これは、どれだけ今後マラソンのサブテンランナーが増えようとも「変わらない凄み」だといえよう。

そして、女子に目を向けると日本の五輪金メダリストといえば以下の2人。そして、前世界記録保持者のラドクリフの勝率は以下である。

・高橋尚子 🇯🇵  11戦7勝 / 0.636(五輪優勝含む)
・ポーラ・ラドクリフ 🇬🇧  13戦8勝 / 0.615(世界記録含む)
・野口みずき 🇯🇵  10戦5勝 / 0.500(五輪優勝含む)

やはり、勝率5割以上ともなれば「速さも強さも兼ね備えた選手」である。

現役選手では松田瑞生(ダイハツ)が6戦4勝 / 0.666であるが、7戦未満であり4勝のうち2勝が海外招待選手のいないレースだった(2021年名古屋、2022年大阪国際)こともあって、現時点ではどう評価するかが難しい。

【東京五輪女子マラソン日本代表】
・前田穂南 🇯🇵  8戦2勝 / 0.250
・鈴木亜由子 🇯🇵  3戦1勝 / 0.333
・一山麻緒 🇯🇵  7戦2勝 / 0.286

控え
・松田瑞生 🇯🇵  6戦4勝 / 0.666

松田のような堅実な安定感のある走りは一定の評価をなされるべきであるが、その松田がMGCで4位だったということもまた、日本のマラソンのレベルが高いことを示している。


WMM優勝経験のある現役選手の勝率一覧

次に、現在の世界トップクラスのマラソン成績と勝率を以下に見てみるが、WMM優勝経験があり、かつ東京五輪に出場した以下の4選手に限定した。

・ペレス・ジェプチルチル 🇰🇪  5戦4勝 / 0.800(東京五輪金)
・ブリジッド・コスゲイ 🇰🇪  15戦9勝 / 0.600(東京五輪銀)
・ルース・チェプゲティチ 🇰🇪  9戦6勝 / 0.666
・ロナー・サルピーター 🇮🇱  13戦5勝 / 0.385

東京五輪金メダリストのジェプチルチルは2016年と2020年世界ハーフも優勝しており、とにかくロードに強い(これまでロード通算16勝)

世界記録保持者のコスゲイはWMM5勝(シカゴ×2、ロンドン×2、東京)で、かつマラソン15戦のうち13回が2位以内(2位以内率0.867)と安定感が凄まじい。

チェプゲティチは今日の名古屋をもって勝率を0.666に上げた。WMMでの優勝経験があり、かつマラソン7戦以上のキャリアがある選手としては高橋尚子やラドクリフ、コスゲイをも上回っている(松田はマラソン6戦)。

サルピーターは夫がイスラエル人のイスラエル国籍。2:17:45の自己記録を持つが、ケニア生まれの選手であり東京五輪では35kmまで先頭争いをしていた。


ブリジッド・コスゲイの加速ラップ:東京マラソンの例

東京マラソン2021女子優勝のコスゲイのレースのラップは以下。

16:05 / 16:09 / 16:07 / 16:14 / 中間点 1:08:06
16:13 / 16:11 / 16:09 / 15:48 / 7:06 = 2:16.02(日本国内最高記録)

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【条件】
・男子ペーサーが30kmまで一定ペース(5km16:10前後)で先導
・気温8-12℃(後半につれて上昇)
・北から吹く強めの風(15-18km / 25-28km / 37.5-42.1kmが向かい風)

特に秀逸だったのは2:16.02という日本国内最高記録もそうだが、35-40kmの15:48のラップだろう。女子マラソンでは下り勾配や強い追い風が吹いていない状況において、35-40kmの地点で15:50切りのラップはそうそう出るものではないからだ。実際にこの35-40kmで一山は17:21、新谷は17:23かかっている。少なくとも世界大会でのメダル獲得を意識するようであれば、この35-40km地点を15分台でカバーする力が欲しいところ。

コスゲイ(五輪銀)中間1:08:06+16:13 / 16:11 / 16:09 /15:48 / 7:06=2:16.02
一山(五輪8位) 中間1:09:29+16:31 / 16:38 / 17:04 / 17:23 / 7:48=2:21.02

コスゲイが凄いのは、これを前半1:08:06(0-5kmは下り) / 後半1:07:58という「後半勝負」の部分。35-40km地点ではそれまでに彼女についていた日本の男子選手も全員まとめて破ったそうだ(35kmまでにコスゲイの前にいた男子選手もこの地点で何人か抜かれている)。これが五輪メダリストの東京マラソンにおける「加速ラップ」である。

とはいえ、こんなにも素晴らしいコスゲイの後半の走りがテレビで放映されなかったのは残念である。それを放映してもらわないと、こういったラップの差を映像で確認できないからだ(選手の余裕度やフォームの確認など)


ルース・チェプゲティチの加速ラップ:名古屋ウィメンズの例

今日の名古屋の残念だったところは、先頭集団のペーサーとしてもっと速い選手を招待できなかった点である。近年の名古屋は2時間20-21分台あたりを優勝者のターゲットにしていたので(ターゲットタイムは近年の大阪国際とほぼ同じ)、今回の名古屋も2時間19-20分台あたりをターゲットにしてペーサーのペースを設定していたはずだ。

しかし、その2:19-2:20のラインは東京マラソンの女子第2集団のようにはあくまで日本人選手が狙いたいペースであって、今回の名古屋の賞金25万ドル(2930万円)を狙っている海外招待選手にとっては“遅い”と感じてしまったようだ。

(彼女は今日までにマラソン8戦5勝。訂正します)

2022年名古屋ウィメンズ優勝のチェプゲティチのラップは以下。

16:34 / 16:09 / 16:32 / 16:12 / 中間点 1:09:03
16:21 / 16:26 / 16:03 / 16:05 / 6:562:17.18(女子単独レース世界歴代2位)

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【条件】
・5km以降にペーサーを振り切り30kmまで単独走
・気温15-19℃(後半につれて上昇)=東京よりも高い
・風はほとんど無し
全体的に東京のコスゲイよりもタフな条件。

チェプゲティチの凄いところは5km以降で自分でレースを作っておきながら、サルピーターに追いつかれた30km以降でもう1度スパートをかけた点である。名古屋の30-35kmは上りを含んでおり、そこは実質15分台のラップ。

コスゲイ:中間点 1:08:06 + 16:13 / 16:11 / 16:09 / 15:48 / 7:06=2:16.02
チェプG:中間 1:09:02+16:21 / 16:26 / 16:03(上り)/ 16:05 / 6:56=2:17:18

コスゲイ:前半1:08:06 / 後半1:07:58(ラスト12.195km:39:03)
チェプG:前半1:09:02 / 後半1:08:16(ラスト12.195km:39:04上り含む)
サルピーター(東京マラソン2020)前半1:09:16 / 後半1:08:29

ラスト12.195kmだけの内容でいえば、チェプゲティチの今日の内容(2022年名古屋)はコスゲイの東京マラソン2021とほぼ同等かそれ以上(名古屋のほうが気温が高く上りを含む)。東京と違って今回の名古屋はレースの詳細がテレビ放送でよくわかったので、見ていてエキサイティングだった。

ちなみにラスト12.195kmを39:03というのはちょうど3:12.0/kmのペース。つまり、30km以降を15分50秒台後半から16分フラットのペースでペースアップするのが彼女たちの「素晴らしい走り」である。


ロナー・サルピーターの山型ラップ:名古屋ウィメンズの例

上記のように東京マラソン2020を前半1:09:16 / 後半1:08:29の「加速ラップ」で制しているサルピーターは、今回の名古屋で15km以降にペースを上げた。サルピーターのラップは以下。

16:35 / 16:33 / 16:52 / 16:16 / 中間点 1:09:47
15:59 / 16:03 / 16:08 / 16:51 / 7:28=2:18.45

20-30kmが32:02(下り含む)で、チェプゲティチの30-40kmの32:08(上り含む)に匹敵するラップ。30kmで先頭に追いついたが、ここから35kmまでに一度休ませてもらえれば、サルピーターが優勝していたかもしれない。

競馬では「息を入れる」とか「息を入れさせない」という言い方があるが、後者は「休む暇を与えない」ということであり、スキを作らないということ。今回のレースは34km手前の上りで仕掛けたチェプゲティチが1枚上手であったし、東京マラソンでは20km以降で鈴木健吾が、25km以降でキプチョゲがが同じように後続を引き離したのがポイントだった。

今回のチェプゲティチは加速ラップであるが、サルピーターやキプチョゲ、鈴木は中盤にペースアップする「山型のラップ」であった。


夏のマラソンは性質が違う:東京五輪のメダリストの例

以上のように、現在の女子マラソン世界クラスの中盤以降の具体的なラップを紹介した。

・サブ2:20でかつ前半よりも後半の方が速い
・15分台のラップがどこかにある

しかし、夏に行われる五輪や世界選手権のマラソンは性質が違う。

・ペーサーがいない(後半までにレースが動く可能性)
・暑い(皮膚温度や深部体温冷却、給水の必要性)

選手の能力としては、サブ2:20でかつ前半よりも後半の方が速く、15分台のラップがどこかにあるというレースをしているに越したことはないが、夏の選手権のマラソンで1番大切なのは「調整力と暑熱順化、無駄な動きをしない」の3点である。

東京五輪女子マラソンのラップは以下。

J(金メダル)中間点 1:15:14 + 17:24 / 17:13 / 16:54 / 17:01 / 7:21 = 2:27.20
K(銀メダル)中間点 1:15:14 + 17:24 / 17:13 / 16:54 / 17:01 / 7:37 = 2:27.36
S(銅メダル)中間点 1:15:14 + 17:24 / 17:13 / 16:55 / 17:06 / 7:41 = 2:27.41
一山(8位) 中間点 1:15:14 + 17:25 / 17:12 / 17:21 / 18:36 / 8:12 = 2:30.13

J=ジェプコスゲイ  / K=コスゲイ / S=サイデル(アメリカ)

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メダリスト3人が30km以降の加速ラップであるが、30-35kmの16分台のペースアップがポイントだった。これは、涼しい冬のマラソンの30km以降の15分台のラップに置き換えられるかもしれないが、5km区間だけでなく10kmを通してペースを保つこと=30-40kmを同じようなペースで保つことが最も大事な点である(30kmでペースアップできるが、35km以降にペースを大幅に落とさない)


「サブ2:20の走力」かつ「30km以降の加速が重要」

この3年間の女子マラソンの日本人上位記録のラップは以下。

【松田瑞生】
大阪2020:69:57+16:35 / 16:59 / 16:54 / 17:25 / 7:37=2:21:47 女PM
名古2021:70:23+16:43 / 16:58 / 17:02 / 16:58 / 7:23=2:21:51 女PM
大阪2022:69:57+16:27 / 16:28 / 16:49 / 17:19 / 7:29=2:20:52 男PM

【一山麻緒】
名古2020:70:26+16:40 / 17:01 / 16:14 / 16:31 / 7:13=2:20:29 女PM
大阪2021:69:35+16:40 / 17:02 / 17:08 / 16:59 / 7:24=2:21:11 男PM
東京2022:69:29+16:31 / 16:38 / 17:04 / 17:23 / 7:48=2:21.02 男PM

  MGC:前田 / 71:15+16:41 / 17:12 / 17:33 / 18:26 / 7:56=2:25:15
名古2022:安藤 / 69:47+16:14 / 16:52 / 17:27 / 17:42 / 7:51=2:22:22

この中で30-40kmでペースアップできているのが2020年の名古屋の一山。この時は前半が70:26とそこまで速くなかったが、30kmからの5kmが16:14と15分台に近い。しかし、その後16:31までペースを落としている。

しかし、それ以外は一山も松田も後半にペースを落としているか現状維持が精一杯。そこが現状の世界大会のメダル獲得に向けての課題。このような傾向がここ数年まだ続くようであれば、根本的な練習システムの見直しが必要かもしれない。

・加速ラップのレースでサブ2:20を達成できるかが現状の課題
・目標がサブ2:20なら前半は1:10:00 / サブ2:19なら前半は69:30で良い
(前半型のレース設計は世界大会の後半に繋がらない可能性)

東京五輪で銅メダルを獲得したモリー・サイデルについて触れると、アメリカのレースはボストンやニューヨークのように坂のあるコースがあって、レベルの高い高速コースはヒューストンやシカゴ、CIMぐらいである(アメリカの選手はタイムをあまり持っていない)。東京五輪ではサイデルは中盤で先頭を引っ張るぐらいだったので、明らかに調子が良かった。

サイデルがフラットコースで走ったのは雨で気温が低く、コンディションが悪かった2020年のロンドンだけ。高速コースかつ、気象条件が良ければ彼女にサブ2:20のポテンシャルはあると思う。


「高レベルの一般性の積み上げ」があってこその「高レベルの特異性」

東京五輪でメダルを獲得した3人の月間走行距離は1000kmを超えていないと思う。大事なのは、マイレージの極端な多さよりも「レースペースを持続する特異性」であり、そのためには高い一般性(マラソン以外の種目も速いということ)が必要。

他の種目の選手よりも高い脂質酸化能力を必要とされるマラソン選手であるが、一方では5000〜ハーフの高い走力も重要だということである。サブ2:20の走力が必要な現代では、少なくとも10000m30分台やハーフ66分台の走力は必須になってくるのではないだろうか。

これはサルピーターの名古屋に向けての1ヶ月前の練習動画であるが、午前に25km走3:25/kmを済ませた午後に、標高2000mの高地でこのタイムでインターバルを合計15000mの疾走距離で行っている。この2部練習自体は特異的であるが、夕方のインターバルは高い一般性の積み上げがないとこのメニューをこなすことは難しいだろう。

すなわち、高強度練習をどれぐらいのペースでこなしているかが重要であり、こういった特異的なワークアウト(朝:高ボリュームテンポ走 / 夕方:高ボリュームインターバル)の設定ペースや消化具合がマラソンの後半のペースアップができるかどうかの1つの目安になる。

少なくとも15分台で30km以降にカバーしようとしたら、高地で3:10を切るペースでは高ボリューム(疾走合計10-15km程度)のインターバルをこなしたいところ。練習場所が平地であるならもっとペースは速いはずである。


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