オリンピックが始まって私は「責任」について考えた(小林賢太郎とスモーカー大佐)
これから先も、おそらくしばらくは生きていくだろうこの世界に、とてつもなく息苦しさを感じる。それは何も四六時中マスクをつけて生活しているから、だけが理由ではないだろう。
十年前、大震災の時、私はまだ高校生だった。マグニチュード9.0のエネルギーが日本列島の表面を大いに揺さぶったあの時、家の食器という食器が破れ、窓の外の電線は跳ね回り、テレビの中では地獄のような光景が延々と映し出されていた。
学校の帰り道、線路を挟んで右側の電気は灯り、左側は街灯も含め全ての電気が消えた、あの光景。
私はきっと、死ぬまで忘れないだろう。
そして、十年後、今の、この現状である。
一体、この十年で我々は何をしていたのだろうか。あの震災の教訓を何も生かしていない。あの頃と何も変わらない。いや、むしろより悪い方向に傾いていっていると感じるのは私だけだろうか。
人々の心は荒み、経済は停滞し、政治は腐敗する。
息苦しい、ああ、とてつもなく息苦しい。
こんな”クソ”みたいな生活の「責任」は誰がとってくれるのだろうか。
「責任」をとれ!!
叫びたい。
叫んでどうにかなるのなら、叫んでみたい。
叫ぶ相手が、どうにも見つからないけれど。
小林賢太郎「問題」
オリンピック開会式が「無事」に終了したことは、日本国民としてはひとまず喜ばしいことだ。橋本聖子とトーマス・バッハの話がクソほど長かったことを除けば「無事」と呼ぶことに何も憚られる点はないだろう。
開会式の中でも特に衆目を集めたのは例の「動くピクトグラム」の場面ではなかろうか。「いいアイデア」だという人も「安っぽい」という人もいるだろう。まあ、それ自体はどうでもいい。開会式の演出に対する評価自体はそれぞれでいい。
しかし、私があの演出群で感じることができたのは、
「ああ、この開会式には、間違いなく小林賢太郎が関わっていたんだ」
と、そういう実感である。
どこからどこまでが小林賢太郎のアイデアで、どれほどの決定権が彼にあったのかは知る由もない。だが、私のように少しでもラーメンズと小林賢太郎個人の作品群に触れたことのある人間には分かったはずだ。
私はラーメンズに対しておそらく人並み以上に思い入れがある。
中高時代の私の世界観に多大な影響を与えたのはラーメンズだった。(それと伊集院光)
私が高校生の頃、2010年前後というのは、もう既にラーメンズは事実上その活動を休止していた。私はDVDを買い集めてそれを繰り返し何度も何度も繰り返しみた。Ipodの中に音源を入れて、何度も繰り返し聞いた。
DVD化されている単独ライブのコントならばほぼ全て記憶していると言ってもいいくらいに、私は、ラーメンズが好きだ。
だから、そんな私が小林賢太郎に関して何を言っても、私的な同情だと切り捨てられることは承知しているし、それを否定することもできない。
現に私はなんの思い入れもない小山田氏の時にはその事件のことを、誤解を恐れずに言えば「面白がって」いたのは事実だ。
過去に「イジメ」を起こしたという絶対的な「悪者」が成敗される様を「いい気味」という目で見ていたことは否定しようもない。
しかし、ある時を境に一転して、自分の大好きな人。自分の世界観の支えになっていた人が攻撃の対象になっていた。
私はそこでハッと目覚めたのだ。
これからここに書き記しいくことは小林賢太郎氏への弁護では決してない。彼自身もそれを望んではいないだろう。
小林氏が解任されたことは仕方ないこととして、結果的に彼は演出やアイデアだけを取り上げられた上で名前を外された形となった。
とても、とても不条理なことだとは思う。
2020年以降、我々の前に突然降ってきた息苦しい世界に関して、少しだけ、ほんの少しだけ愚痴を言わせてほしい、それだけなのだ。
「責任」の神話
この世界にそもそも「責任」なんてものは存在しないのだ。とここに来て我々日本人、ともすれば世界中の人が気がついたのではないだろうか。
これは「無責任」ということとは違う。
もはやこの世の中に「責任」なんてものが存在しないのだ。
我々はそれこそ息をするように「責任」という言葉を軽く使い過ぎている。
かつて小田嶋隆が「ポエム化」という言葉を使って批判したような「絆」や「人権」と同じ。本来のその言葉がもっていたはずの意味とか背景を無視した、感情を煽るだけの「ポエム」に「責任」という言葉も成り果てた。と感じる。
「責任を取れ」と人が叫ぶ時、我々は一体その相手に何を望んでいるのであろうか。
漫画『ワンピース』でスモーカー大佐(当時)が道行く少女にぶつかり、彼女の手に持っていたアイスクリームを台無しにしてしまった時、彼はその「責任」を取りアイス五段分の硬貨を渡すことで解決を図った。
これこそが我々の本来思い描く「責任」の取り方だろう。
責任
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」
3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。
(デジタル大辞泉)
アイスをダメにした「責任」はアイス分の対価で支払う。実に明確でわかりやすい。
しかし、例えばオリンピックの「責任」がAという人物にあったとして、オリンピックが失敗した時、我々がAに望む「責任」とはオリンピック一回分の対価なのだろうか。
オリンピックを一回開催する時にかかった費用の弁済を求めているのだろうか。私はそれがいくらかかるのか具体的にはしれないが「責任者(たち)」が一生のうちに働いて返せる金額ではおそらくないだろう。金額面だけではない。人的な面、時間的な面。
アイスをダメにしたくらいならば取り返せる失敗も、オリンピックのような規模の失敗ではどうあってもその「責任」など、それこそ「命」を以てしても取りようがないのではないのではないか。
思えば、私たちは本来、自分の起こした行動の結果に関しては自分で全てその責を負うことを当然だと、疑うことなく生きることを「強制」されてきた。
それはあの忌々しくも懐かしい、面白くも何もない、義務教育の期間に徹底的に仕込まれた洗脳の賜物である。
私たちは当然の如く、自分のアクションによって引き起こされた世界の事象は全てそのアクションが原因なのだと、決してそんなはずは無いのに、思い込まされてきた。
・テストの点が悪いのも
・周りと同じように運動ができないのも
・どうしても許せない人間がいることも
・いじめられるのも
教師たちは皆、それら全ては「お前」の「責任」だと。「お前」が負うべき「責任」なんだと、子供たちを現在進行形で洗脳し続けている。
これは実に狭量な考え方だと今なら分かる。それは小学校というクレンザーとチョークのむせかえるようなにおい漂う空間だけで成立する神話なのだ。
文芸評論家の加藤典洋は福島第一原発の事故に対する東電や政府の「責任」のあり方に対して、以下のように記述している。
電力会社、政府が無責任(irresponsible)だということは、大きな問題だ。でも、ここに起こっているのが電力会社にも責任を取りきれない規模のことだということのほうが、じつはもっと重大である。ここに新しく生まれている世界を無ー責任(ir-responsibility)の世界と呼ぼう。そこでは過失と責任という一対一対応の関係の関節が、はずれている。
加藤典洋(2014)『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社
福島第一原発の事故をこの十年間、誰かが支払っただろうか。金銭的には(部分的に)支払われたかもしれない。けれど、これから100年規模で大地が汚染されるという「過失」に対しての「責任」を誰かが取ったのだろうか。
いや、そんな「責任」など当然誰も取れるはずがないのだ。皆、分かっているはずだ。たとえ責任者を絞首刑に処したとしても、それでは責任を取ったことにならないだろう。
そして、考えてみればこのように「責任」の取れないことは山ほどあるのだ。けれど、我々は意識的にか無意識的にか見ないふりをし、お飾りの責任者を立てて何かあればその人が「責任」を取ってくれるのだという神話を信じ続けている。
今こそ、そのような妄想は即刻やめるべきではないだろうか。
このオリンピックの騒動を眺めて、私は強くそう考える次第である。
責任の取り方
今更いうまでもなく、我々、個々の人間の手が届く範囲は年々拡大の一途を辿っている。
半径85センチがこの手の届く距離だった時代はとうの昔で、半径6300キロはこの手の届く距離なのだ。ユビキタス社会なんてのは私の物心ついた頃の流行語だ。
当然、それに従って諸々の事象はその規模を拡大していく。
私がTwitterで発した「土屋太鳳ちゃんのおっぱい揉みたい」というツイートは、それまでの感覚で言えば便所の落書きのようなものだったかもしれないが、もしかしたら土屋太鳳ちゃんの目に入ってしまうかもしれないし、地球の裏側の熱狂的な土屋太鳳ちゃんファンの目に入って私が暗殺のリストに載っかってしまうかもしれない。
小山田氏の発言だってきっとそうだろう。(実際に彼がやったことの悪質さは別として)ネットのない社会だったならば、悪趣味な雑誌に載った悪趣味なインタビューとして読者以外の目に触れる機会などないのだ。仮に「責任」を取らなくてはいけないとしても、その規模は今と比べたらだいぶ小さいものだったろう。
これは何も「ネット上の発言」だけではない。
爆弾ひとつで殺せるのが数人だった時代から、我々は広島長崎の原爆を経て、今、一つの爆弾で殺せる人間の数など、詳しくは知らないがその頃の比ではないはずだろう。
ムラ社会だった大昔と違って、世界中が大きな経済圏によって結ばれる時代、経済の規模が拡大すればするほど一つの経済政策のミスで死ぬ人間の数は増える。
とてもではないが一人、あるいは数人の責任者(集団)が「責任」を取り切れる規模の世界ではとてもないのだ。
この五輪が「失敗」だったとして、では森喜朗や橋本聖子、安倍政権・菅政権、バッハ会長、その他、の面々にではどんな「責任」の取り方をさせればその過失に見合う対価になるのだろうか。
もはや、中近世のように彼ら一人一人をギロチンにかけたとて、取らせられる「責任」の大きさではないのだ。
で、あるならば、我々は考えなければいけないだろう。
もう、「責任」をとる、取らせることなど考えてはいけないのだ。
勘違いしないでほしい。これは上記の面々に「責任」がない、と言っているのでは決してない。「責任」はある。あるだろうが彼らには到底「責任」など取れやしないのだ。彼らに「責任」をとれ、というのはデリヘルで「先っちょだけ挿れさせて」というようなものだ。
では、どうすればいいか。
もし本番がしたいならば本番禁止の風俗など利用しなければいい。
そう、もう「責任」の取れないことなどやめるべきなのだ。
具体的には、我々はその責任者に対して彼・彼女が失敗時に一体どのように「責任」を取るつもりなのかを事前に宣言させるべきなのだ。そして、その「責任」の取り方と、「実行した際の全体の利益」が釣り合ったと思った時のみ、その行為を進める許可を与えるべきなのだ。
このオリンピックに関わる諸問題は、誰も失敗した際のことを考えていなかったことに起因すると思う。それは「責任」をとる立場の人間だけではなく、我々も反省しなくてはいけない部分だ。
現実として政治家は何か問題があれば辞任すればいいと思っている。果たしてそれが本当に「責任」の取り方になっているのか。いや、なっていないだろう。
ではそれまでにその地位を使って得た金銭的な利益はどうする? 人的利益はどうする? 知名度も得た。
このような「責任」の取らせ方を続けている限り、政治家やその他利権を握っている層は「やり得」なのだ。到底、釣り合うだけの「責任」を果たしていない。
五輪を開催することによって政治家とその周辺が潤うことは仕方ない。だが、失敗した時も同様に潤うのは理解ができない。
成功したら儲かる。失敗したら代償を払う。それが自然のはずのに、どうも、オリンピックに関する一連の流れを見るとそうはなっていない。
五輪に関する「責任」を取れないならばそもそも五輪をするべきでない。もし五輪を開催するならば、文字通り「命をかけて」五輪を成功に導くべきだ。そして、それができなかった時は失敗に対する「責任」を果たすべきだ。
ということは本来、五輪なんてできるはずはないのだ。五輪のような規模の問題に対して一個人が責任を取ることなどできるはずはないからだ。
しかし、それでも現代に生きる我々は現実的にそのような規模の何かしらを決断しなくてはならない時もある。それが「原発問題」だったり「経済問題」だったりするかもしれない。
そういう時、我々日本人はどうも「責任」の所在を曖昧にしがちだ。それをやめよう。
誰が、どのように、いつ、誰に対して「責任」を取るのか徹底しないといけない。そしてそれに納得して(させて)からそれを実行しよう。
これは個人でもそうだ。
大切なのはこの世界が「責任の取りきれない規模」になっているということを知ることだ。いわゆるバイトテロなどがそれを理解していない典型だ。
我々個人の行動・発言ひとつひとつが自分の「責任」の取れる範囲内で収まっているか、もしそれを超えている場合はそれをした際の「メリット」と「責任の重さ」の釣り合いが取れているかを常に思考すべきだ。
私は、今回の一連の五輪騒動で、そう考えた。
とりあえず過去何度もツイートしてきた「おっぱい揉ませて」の投稿は、私が将来総理大臣になった時のために削除しておこうと決意した。
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