既に受け取っていた
子育てをしていく中で気付いていく。
僕らは大きくなるにしたがって、忘れていくけど、生まれてから、自分で生きていけるようになるまで、あまりに多くを既に受け取っていたということを。
人間は誰でも、あまりに未熟な状態で生まれる。
誰かに育ててもらわないと生存できない。
初期段階では圧倒的に母親の存在が必要だが、その母親を支えるのは家族だったり社会だったりする。
人間は生まれ出た段階で、誰もが既に受動的だ。
その受動的な存在は常に与えられることで生きていける。
それが無償の愛というやつかも知れない。
生物学的には母性本能かも知れない。
よくよく考えれば、一生かかっても返しきれないものを既に受け取ることになっている。
そこから人間らしさというものが生まれる。
そして、人間一人では生きていけないという紛れもない事実がそこにある。
私たちの悩みはほぼ人間関係からくるものと言われる。
そこには、生まれてから大きくなるまでに「受け取ったもの」をどうすればいいのか?という大きなテーマが潜んでいるからかもしれない。
そして、その多くを忘れてしまうという性も。
しかし、ある時、ふとしたことで思い出すことがある。
あぁ、あんなに受け取っていたんだと。
僕は今月、二人の子(小学校、保育園)の運動会に参加した。
子供が競技に出る姿をきっと本人以上に緊張して、見守った。
結果はどうあれ、みんなと一緒に懸命に競技する姿に胸が熱くなった。
そして、自分の子供の頃の運動会を思い出していた。
比較的運動神経の良かった僕は、小学校の時はリレーの選手に選ばれ、それなりに期待をされていた。
僕の母も子供の頃、足が速かったらしく、それが息子に受け継がれたということで誇らし気だった。
そして、母の父、僕からすると祖父も運動会には応援に来てくれていた。
母方の祖父なので、同居はしていなかったが、運動会の時にはいつも気にかけてくれていたらしい。運動会の朝早くに祖母から電話があり「梅干を食べておくと、こけないから食べときなさい」と謎のエールをいただいて、苦手な梅干を頬張った記憶もある。
たかが、子供の運動会。
それなのに、親や祖父母が自分のことのように心配し、心を傾け、祈り、応援をしてくれている。
そんな中、育ったんだなと気づかされた。
応援してくれるのも当たり前、支えてくれるのも、当たり前。
その応援が途切れたことが無かったから、当たり前に思っていた。
何十年経ち、我が子の姿を見た時、不思議と思い出された光景。
子供の頃、運動会を遠くから心配げに見守っていた母の姿、そして祖父の姿。
時を超えて繋がった気がした。
既に受け取っていたんだ。たくさんのものを。抱えきれぬものを。
思春期の頃は、自分の親をよその親と比べてしまい、親の足りないところに目が行ってしまったりした。それを自分のコンプレックスの原因に落とし込んだりして、親を遠ざけたりした。
でも、もう十分過ぎる位、与えてもらっていたんだ。
子供の運動会で胸が熱くなるのは、懸命な子供の姿。そして与えられたものを与えられた喜び。それが言葉にならず溢れ出るのだろう。
僕にとって、大切なことを気づかせてくれる機会となった。
徐々に大きくなる子供の後姿。いつかは離れていくと分かっている。
きっと、後ろからしか応援できない日も来る。
今はまだ、正面から向き合える時間。
そして、僕もきっと、未だに後ろから応援されている。
既に受け取っていたことに気が付けば、大抵のことは乗り越えられる。
それが本当に生きる力。生命の力。
既に手にしている、たくさんのもの。
それに気づいていくことで、過去からの贈り物を受け取ることが出来る。