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主観の世界は前、客観の世界は後ろ

わたしたちは普段から前と後ろという方向をもって生きています。

前という方向は目の前に広がる奥行きです。

この奥行きという方向はもし、その空間に線を描こうとしても、描けないはずです。
道路の交通標識でも奥行き方向は↑としか描けません。
本来、上と奥は全く別物。
しかし、奥行きは線で描けないから仕方なく、上にしているのです。

では後ろは?
後ろについては空間に描くとしたら↓になるのでしょうか。
でも下ではありません。

この辺の空間表現がめちゃくちゃになっているのが、今の人間の認識です。

実は見たまま正しく空間を表現するなら、奥行き、前は、いつも前。
その人が見た方向が常に前で、奥行きが広がる世界です。
そしてこの世界、前の世界には「眼」がありません。
言うなれば、眼の中の世界、水晶玉に映る世界そのものです。
この世界が主観の世界。見る世界です。

対して後ろの世界。
この世界は自分の眼では決して見れない世界です。
常に見える方向の反対にあるから、常に見えない世界。
では後ろの世界を見ているのは誰でしょう?
そう、常に他者です。

わたしの前の世界には、たくさんの他者がいて、たくさんの他者の「眼」を見ることが出来ます。
その眼が写しているのは、わたしの後ろです。

後ろは客観の世界。見られる世界です。

主観の世界は常にひとつ。
客観の世界は常に多数。

客観は人の数程存在してしまいます。

この主観と客観・・・どちらが確かなのでしょう?

わたしにとって・・・

常に多を含む、客観の世界において、絶対的なものなんてないんだと思います。
しかし、これまでの時代はこの世界、客観の世界に統一的なものを置いてきました。
絶対的な統一の物差しがあるという前提で作られた世界。

本当は無いにの、あると思ってきた。
それに振り回されてきた。

そういった世界に主軸を置くのをやめて、主観の世界、前の世界に主軸を置く時代に変わりつつあります。

見る世界に主軸を置くこと。
それが本当の自分軸。

見る世界を忘れ、見られてきた世界の歴史が長いので、後ろの世界には馴染みがあります。
でも、本当は無かった、後ろの世界。

そこに気が付けば、本当にある、前の世界に戻ることが出来るのです。

後ろと前の両方の世界があるのが自然です。

順番としては前があって、それから後ろがある。自己の次に他者なのです。

前の世界、奥行きの世界。

それは世界そのもの、創造主としての世界。

それを取り戻すことが今、最も大切なのです。

スサノオとアマテラスが向き合う、須佐神社はそのことを教えてくれています。

新しい認識、ゲシュタルトの確立が求められています。


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