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諏訪大社 〜知られざる縄文vs弥生の戦い〜

先日、長野県諏訪へ行ってきました。
目的は諏訪大社。大社のパワーを浴びたくなって数年ぶりに訪ねてみたのです。

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一言で諏訪大社と言っても、上社(本宮・前宮)下社(春宮・秋宮)の4社に分かれています。
その中でも最も古い社は前宮。
小ぶりながら、実はこここそが最強のパワースポットでもあり、諏訪の奇遇な歴史、いえ日本の裏歴史を知る貴重な場所と言えます。

御神体は、背後にそびえる守屋山。
御神体が山というのは奈良県の大神神社と同じ、最古の神社形態をとっています。

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そして諏訪の祭りが、なんとも不思議なんです。

最も有名なのは「御柱(おんばしら)祭」
山中からモミの大木を切り出し、坂を落とし、人力で数十キロ離れた拝殿に運び、4隅に立てる勇猛果敢な祭りです。(4社全て)
また「御頭(おんとう)祭」は、最も重要な祭りで、かつて75頭の鹿の生首を神に捧げて安寧を祈りました。(前宮)
「蛙狩(かわずがり)神事」は、元旦の朝にカエルを生きたまま串刺しにして神に捧げる祭り。(本宮)
さらに本宮では、長らく朝廷や幕府が肉を喰らうのを禁じてきたのにもかかわらず、鹿肉を安らかに食うことを願うお守り「鹿食免(かじきめん)」を発布しています。

これら神事は、皆あることに共通していますが、お気づきでしょうか?

そう。狩猟民族をベースにした神事なんです。
神社では、たいがい農耕の神に五穀豊穣を祈りますよね。
が、諏訪上社では獣を神に捧げ、森を敬うという「縄文の祭り」が、今も行われているわけなんです。

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諏訪盆地から八ヶ岳西山麓は、日本一の縄文集落の密集地でした。
大陸からイネが伝来して、日本各地で水稲栽培が始まっても、ここ諏訪地方だけは、豊かな照葉樹林に囲まれ、狩猟採集の生活を捨てることはなかったようです。

そんな諏訪に5世紀ころ、ある大きな事件が起きました。

なんと、出雲国の王が突然、ここを明け渡せと言ってきたのです。
出雲王の名はタケミナカタ
そこに立ちはだかったのは諏訪の首長・モリア

もっとも、タケミナカタにしてみれば、止むに止まれぬ状況にありました。
それまで統治していた大国・出雲王国に、ヤマト政権が「国譲り」を迫ってきたのです。
譲るとは建前で、実際は「強制的な併合」でした。
そこで父である大王・オオクニヌシ神は、敵わぬと判断し、黄泉の国へ行き、
出雲王国はヤマト政権の軍門に下ったのです。

ちなみに、その時つくられたのが、あの「出雲大社」です。

しかし息子・タカミナカタだけは納得せず、最後までヤマト軍と徹底交戦。
やがて敗走し、隣国・諏訪へと逃げ込みました。
ですからタケミナカタにとって、一歩も引けぬ状況にあり、対する諏訪の長・モリヤも当然、侵入を許すわけにはいかなかった。


こうして5世紀。
諏訪の地で、タケミナカタ軍とモリア軍、つまり「弥生vs縄文」という日本史上稀にみる戦いが起こったのです。

結果は明白でした。
鉄の武器を有するタケミナカタが勝利。
数千年という長きにわたり縄文の聖地だった諏訪に、弥生の民が流入。
やがて築かれた諏訪大社にも、ご祭神としてタケミナカタ神が鎮座したのです。

しかし、タケミナカタ側もモリアの立場を認め、
諏訪大社の重職「神長官」という神職を与えました。

実はモリアの子孫は、驚くことに今も諏訪にいらっしゃいます。
「守矢」の姓で存続し、神長官の冠を有しているのです。
さらに驚くのは、縄文の民らが祀った神は「ミシャグジ神」と言いますが、
そのミシャグジの本宮も守谷家のそばに佇んでいます。
       (ミシャグジ神の社は、今も長野県を中心におよそ700箇所。
        東京練馬の石神井もこの神を祀った地と言われています)

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そう、縄文の神は滅んでいなかった。
今もめんめんと生きていました。
そう考えると、
諏訪上社の変わった神事は、御祭神タケミナカタ神に向けてのものではなく、
実は、ミシャグジ神のための祀りだった、と考えれば納得できます。

ちなみに、諏訪地方には小さな前方後円墳がたった1基しかありません。
(長野県全体では2831基もあります)
前方後円墳とは、ヤマト政権の傘下に入ることを意味しますが、
彼ら諏訪の民(タケミナカタとモリア)は、最後までヤマト政権に対抗し続け、
諏訪への侵入をほとんど許さなかった、その証であるわけです。

その反骨な血筋が、今なお勇猛で強靭な巨木の祭りに受け継がれている、私はそう思うのです。


諏訪大社にはさらなる迷宮があります。ご興味ある方はこちらをご拝読ください。


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