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競作怪談/奇譚集『null-geist』『para-ghost』刊行告知+試し読み各三話

電子書籍版:


ペーパーバック(紙書籍)版:

https://www.amazon.co.jp/para-ghost-%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%8D%A7/dp/B0DD7XXQ59/ref=tmm_pap_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=&sr=


8月25日、三名の書き手による競作怪談/奇譚集、『null-geist』、『para-ghost』を二冊同時刊行する。
価格はそれぞれ電子版1,200円、ペーパーバック(紙書籍)版1,650円。『null-geist』三十話収録。『para-ghost』二十三話収録。ペーパーバック版は文庫サイズで、各250頁。
二冊で寄稿頂いた書き手が異なり、『null-geist』においては私と蛙坂須美氏、ふうらい牡丹氏の三名で、『para-ghost』においては私とひびきはじめ氏、高田公太氏の三名で原稿を寄せている。
自主制作においては、自分が本心から良いと思えるものでなければ作りたくないと思っている。そのために幾つかのことを決めている。たとえば、自分がダサいと思うことは絶対にやらないということ。「怪談シーン」的なものへの妙な忖度や目配せはしないということ。自分が本心から組みたいと思える人とでなければ共同制作はしないということ。
今回寄稿頂いた四名の書き手は、いずれも(はっきり言えば、数少ない)私が作品を拝読して感銘を受けた怪談作家である。本として世に出すということ以前に、何よりも私自身が「この人の新作を読みたい」と強く熱望する書き手たちである。
昨年の自主制作本『現代奇譚集 エニグマをひらいて』に続き、自信を持って送り出すものを作ることができたと思っている。

『エニグマ』に引き続いてになりますが、自主制作ゆえ、感想やレビューなど大歓迎です。SNSなどでシェアして頂けると助かります。
どうか本書をよろしくお願いいたします。


以下、試し読み六話。

null-geist


「アンテナおじさんのDVD」 鈴木捧

 タツミさんの大学時代の友人に、キタミヤという男がいた。
 キタミヤは一人暮らしをしていたのだが、その家に遊びに行った際に、タツミさんは奇妙な体験をした。

 キタミヤの住む家までは、駅からだと徒歩では一時間近くかかる。
 ただ、その代わりにというか、家賃は学生でも充分払える額でありながら、しっかりとした造りの鉄筋コンクリートのマンションであった。
 築年数こそいっているものの設備はしっかりと点検されている。幹線道路から路地を深く入ったところにひっそり建っている、穴場と言ってよさそうな物件である。
 キタミヤがひとり悠々と暮らすその部屋だが、ひとつ、もしかしたら破格に安い家賃と関係あるかもしれない、と思わせる奇妙なことがあった。
 それは、建物正面に並ぶベランダを外から眺めてみるとはっきりと分かる。キタミヤの部屋の真上の物件だ。
 その部屋のベランダは、奇妙な機械で埋め尽くされている。
 サラダボウルのようなもの、複雑に絡み合ったコード、物差しの目盛りに似た形に組まれた金属棒、電動モーターの中身のようなコイル状の金属線、などなど。それらの機械群がベランダの手すりから天空に向かって差し出され、その下方、ベランダ内部には様々な大きさの金属製の箱が並んでいるのが見える。それらは様々な太さのコードで複雑に結線され、何らかの大きなシステムを構成しているようだった。
 つまりは、その部屋のベランダには大量のアンテナが設置されていた。衛星放送の受信に使うようなパラボラ状のものから、ラジコン無線で用いるようなシンプルなものまで、形状は様々である。ベランダはそれらに埋め尽くされて見たところ足の踏み場もなく、それどころか柵の間からはいくつかのコードがこぼれ、下階のキタミヤの部屋のベランダにまでかかってしまっている。
 マンションの入り口のある建物裏手に回ると、駐車場の中に一台、八本ものアンテナが伸びている奇妙なワゴン車があって、それもアンテナ部屋の住人の所有物なのだろうと察せられた。

 そんな異様な部屋の下で暮らせば何かのトラブルに巻き込まれるのは必定なのではないかと思える。しかし、意外にもキタミヤの生活は快適そのものであったらしい。その理由は単純で、キタミヤと上階の住人の関係が良好だったからである。

 部屋を初めて訪れたとき、タツミさんは当然、「上の階の人、やばくないか?」とキタミヤに訊いたそうだ。
 それに答えてキタミヤは言う。
「上のおじさん、普通に良い人だよ。部屋はあんなだけど」
 キタミヤの言うところだと、アンテナ部屋の住人はいつもキャップを被っているメガネの中年男性で、話してみると意外と普通らしい。駐車場のアンテナ車から降りてきたところに偶然鉢合わせたことがあって、つい「ベランダのアンテナ、何ですか?」と訊いてしまったところから関係が続いているという。
「意外と普通って、そんなワケねえだろ。ベランダにアンテナ満載してる奴を普通とは言わねえんだよ」
「いやいや、普通に話せるおじさんだって。ホントホント。たまーに上からデカい電子レンジが回ってるような妙な音がするし、結局アンテナが何なのかもはぐらかされちまったけどさ。でもあの人、面白いもの持ってんのよ」
 キタミヤは机の上に散らばった書類の隙間から一枚の薄いケースを抜き出した。中に一枚の円盤ディスクが入っていて、そのレーベル面には「DVD-R」と書かれている。上階に住む「おじさん」から借りたものらしい。キタミヤは「見るだろ?」と言うと、タツミさんの答えを聞かずにノートパソコンにディスクを入れて読み込ませる。すぐに映像が始まった。
 手持ちカメラで撮られたような生々しい映像で、古いものなのか、色調はほとんど白黒というくらい淡い。頻繁にノイズが挟まり、オリジナルのフィルムが相当劣化しているのだと分かる。映っているのは黒縁眼鏡に白衣の男性だ。顔はアジア系でなく欧米人のそれに思えた。カメラを覗き込むような姿勢で、寄り目になっている。それがこちらに向かって何か語りかける。何を言っているのかは分からない。映像に音声がないからだ。
「音、出せないの?」
「もともと音はないんだよ、これ」
 画面を眺めるうちにカメラが動く。それでそこが、真っ白い壁の手術室のような部屋だと分かる。カメラが二人の防護服姿の人間の前を通りすぎる。映し出されたのは、足だ。それにしても奇妙な足だった。形自体は人間のそれだが、つるりとして無毛で、爪がない。事故にでも遭ったのだろうか、片足は大きく損傷している。カメラは爪先側から胴体の側へと向かっていく。その体はどこまでいっても無毛で、ほんらい性器があるところにも何もなかった。大きく膨らんだ腹部と骨格の浮く胸を通過して、やがて丸い顎が映る。小さな口と、穴だけのように見える扁平な鼻。閉じた大きな目蓋。体毛と同じく、毛髪もなかった。診察台のような無機質なベッドに横たわる全裸の人間、のようなものが、映し出されていた。

 * * * 

「それって……もしかして、アレですか?」
 私は思わず、話を遮るようにしてタツミさんに訊く。
「あ、やっぱ分かりますよね? 鈴木さんも世代だもんな」
「宇宙人の解剖フィルム、ですよね?」
 宇宙人の解剖フィルム。
 九〇年代に大きなブームとなり、オカルトバラエティ番組で頻繁に流されていた映像である。私も繰り返し繰り返し見て、よく憶えている。コンプライアンス的な事情なのか、近年はそうしたオカルト番組自体相当に数を減らしているから、件の映像のことを思い出すと、付随して妙なノスタルジーまで喚起されてくる。
「……あれ? でも、さっきの話だと……」
 タツミさんの話にはおかしな部分がある。疑問をそのままぶつけてみる。
「あの映像で、宇宙人の目は開いてましたよね? あれ当時めちゃくちゃ怖くてトラウマみたいになってたから、よく憶えてます」
 タツミさんの目が、待ってましたとばかりに見開く。
「そう。そこなんですよ。僕が見せられた映像、テレビで流れてたやつとちょっと違うんです。テレビで流れてた映像には、はじめの眼鏡の男もいなかった。ネットで調べたらあの映像──サンティリ・フィルムなんて名前まであるそうですが──の内容も細かいところまで出てきます。それと僕の記憶の映像で、かなり齟齬がある。それに僕が見たやつ、カット割りもテロップもなくて、解剖に入るとフィックスでずっと撮ってたんです」
「つまり?」
「あの映像……サンティリ・フィルムって、作りものだって暴露話があとから出ましたけど。もしかしたらオリジナルがあるんじゃないですか? 無編集って意味じゃなくて、もとになった映像、要するに、本物の、宇宙人解剖の映像」

 * * * 

 リアルで不気味な映像を一緒に眺めながら、タツミさんはキタミヤに訊いたそうだ。
「これ、あれだろ? 俺らが子どもの頃に流行った……」
「ま、見てろって」
 画面には、テレビで見ることのなかった解剖の様子が細かに映し出されている。切開される体。取り出される内臓。瞼を切ると奥に黒い薄膜があり、そこに切り込みを入れると果実の皮が剥けるように瞳が現れる。
「テレビで見たとき、こんなシーンなかったぞ」
「だろ? これ、アンテナおじさんの言うところだとさ……ホンモノ、らしいんだわ」
「いやいや、なんでそんなもんを日本の格安マンションに住む変なおっさんが持ってんだよ」
 キタミヤはその問いに答えず、押し入れから黒いビニール袋を取り出す。有名な中古レコード店のものだ。
 中に突っ込んだ手を引き抜くと、そこにはケースに入ったDVD-Rが三枚、握られている。
「こっちは、幽霊。おっさん曰く、ホンモノだって話だ」

 * * * 

「その映像ですか? その三枚のうちの一枚は見ましたよ。すごく不気味な映像だった」
 タツミさんは続けて言う。 
「サンティリ・フィルムが出回ったのは、九〇年代半ば。僕らがあれを見たのはゼロ年代半ば。もちろん、もとのサンティリ・フィルムに影響を受けた素人が作ったフェイクだって線はあると思います。時期は前後しますけど、フィルムをもとにした映画だって作られたらしいし。もしくは例のおじさんがそういう映像制作をする人だったって可能性もある。でも……僕もこういう変な映像とか好きだから言うんですけど、あの映像、変な手触りがあったんです。言葉では説明しにくいけど、作為性のなさ……みたいなものが」
 そこで一度言葉を切ってから、続けた。
「それに、リアルかフェイクかだったら、リアルだってほうに賭ける。オカルト好きって、そういうものじゃないですか?」
 大学在学中、キタミヤとの付き合いは続いたが、あの映像を見た日以来、おじさんのことが話題にのぼることはなかったらしい。タツミさんが実際におじさんを目撃することもなかった。ただ、大量のアンテナはずっと部屋のベランダに置かれていたそうだ。卒業してから十年ほど経って、サークルのOB会で大学に顔を出すことがあり、その際についでにキタミヤの住んでいたマンションに寄ってみた。そこは広い駐車場になっていて、もうマンションはなくなっていた。ただ、駐車場の中に入ると地面の下からジリジリという妙な音が聴こえてきて、同時に足裏に振動を感じ、気持ち悪くなりすぐにその場を離れたという。その音は、電子レンジの稼働音を大きくしたような音だったそうである。


「テレビ」 蛙坂須美

 その日、臼井さんはクラスメイトの高野君の家に遊びにいった。
「彼の家、ご両親が共働きで、一人っ子なんです。だから日中は大人の目を気にせず、好きなことができると」
 そんなわけで、高野君の家は友人達の溜まり場のようになっていたらしい。
 午前授業の日だったと記憶している。臼井さんは帰宅せず、高野君と一緒に彼の家に向かった。発売したばかりのゲームソフトを、しこたまプレイするつもりだったのである。
「普段なら僕以外にも、もう何人かは友だちがいるんですけど」
 偶然が重なったのか、その日にかぎっては臼井さんと高野君の二人だけだった。
 二人はいつものようにゲームに熱中した。時折漏らす「ああっ!」「くっそ!」といった声のほかは、会話らしい会話もない。そうして気づいたときには、いつの間にか窓の外が暗くなっていた。
 臼井さんはハッとして、部屋の壁掛け時計を見た。午後五時五十分。臼井家の門限は午後六時。自宅までは、急いでも十分はかかる。あわてて立ち上がった瞬間、猛烈な尿意をおぼえた。ゲームを中断するのが嫌で、だいぶ前から我慢していたのである。
「ごめん! トイレ借りてそのまま帰る!」
「あ、わかった。場所、わかるよね?」 
「大丈夫! それじゃ、また明日!」
 ランドセル片手に、階段を駆け下りる。薄暗い廊下を玄関とは反対側に曲がり、居間の前を通りすぎようとしたところで、臼井さんは足を止めた。居間へと通じる襖がほんの少し開いて、うっすらと光が漏れているのだ。
「ご両親が帰宅した気配はなかったので、テレビでも消し忘れているのかなと」
 なんの気なしに隙間からのぞくと、案の定、居間の隅に置かれたブラウン管テレビが仄白く発光している。
 やはりそうか、と納得したのも束の間、テレビに映るものを見て、臼井さんは絶句した。 
 それは一人の女性の姿を正面から撮影した映像だった。
 映っているのは女性の腰から上で、彼女はカメラの存在に気づいていない(またはそういう演技をしている)のか、きょろきょろと不安げに視線を泳がせている。
 女性の周囲にあるのは、無骨なコンクリートの壁。扉や窓、調度品の類は見当たらない。
 映画かドラマの一場面のようだった。そうなのだが。
「その女性、高野君のお母さんにそっくりだったんです」
 肩までの黒髪、メタルフレームの眼鏡、ふっくらした頬、口元のほくろ。見れば見るほど、高野君のお母さんその人としか思えない。
 もしかして、と臼井さんは考えた。高野君のお母さんって、女優さんなのかな?
「だとしても、自分の出演作を自宅のテレビで流しっ放しにしてるって、意味わかんないですよね。でも、そのときはちょっと混乱してしまって」
 そのように思いなすことで、どうにか理性の範疇にとどまろうとしたのかもしれない、と臼井さんは述懐する。
 尿意も忘れて、臼井さんはテレビに映る高野君のお母さんに見入ってしまった。
 するとそのうちに、最初はただ不安げに視線を動かしていたお母さんが、より落ち着かない様子になってきた。肩を抱き、二の腕をさすり、髪を掻きむしる、ぶつぶつと、何事かを呟いているようでもあった。
「どのくらいの時間、画面を見ていたかはわかりません」
 数十秒か、あるいは数分後か、お母さんの視線が、カメラのほうをひたととらえた。直後、カメラがズームインして、お母さんの顔を大映しにする。
 アップにされたお母さんの顔は、驚愕と、恐怖に歪んでいた。カメラはそのままズームインを続け、最後にはかっと見開かれた瞳の奥に吸い込まれるようにして、画面全体が黒一色に塗られた。そして。
 
『ここから だしてください』
 
 真っ黒になった画面に白抜きで、そんな文字が浮かび上がったのだそうだ。
「一目見た途端、首筋にぶわっと鳥肌が立って」
 震える足で玄関までたどり着くと、臼井さんは何者かに追われるようにして家に帰った。味のしない夕飯を食べている最中、顔色が悪い、と指摘された。四十度近い高熱が出て、丸々一週間、学校を休んだ。
 ひさしぶりの登校は、気が重かった。
「要するに、高野君と顔を合わすのが嫌だったんです」
 朝のホームルームがはじまっても、彼の席は空いたままだった。訊けば、ここ数日欠席が続いているという。
 クラスメイトの一人が声をひそめてこんなことを言った。
「高野の母ちゃん、いなくなっちゃったんだって」
 捜索願が出され、高野君は祖父母の家に預けられているとのこと。口さがない連中の間では、不倫の挙句、駆け落ちに及んだのではないか、と専らの評判になっていた。
 高野君は結局、卒業まで一度も登校してこなかった。
 あの日、二人でゲームをしたのが、臼井さんが高野君を見た最後である。
「だからその後、彼のお母さんがどうなったのかは、知るよしもないんですけど」
 三十年経った今でも、臼井さんはたまに夢を見る。
 夢の中で臼井さんは、高野君の家の薄暗い廊下に立って、襖の間から部屋の中をのぞいている。室内のブラウン管テレビには、あの日と同じ、高野君のお母さんの姿。
 嫌だ、もう見たくない。そう思ってはいても、目が離せない。ズームインしたカメラが、お母さんの怯えた顔をアップにし、画面が黒に染まる。
 
『ここから だしてください』
 
 目覚めると、布団も寝衣も、汗でぐっしょりと濡れている。
 一体、いつになったら「出して」もらえるというのか。
 臼井さんには、無論、見当もつかないことだ。


「嫌な予感」 ふうらい牡丹

 駿太さんは高校三年生のときの文化祭で作ったクラスTシャツに思い入れがあった。仲の良いクラスだったそうで、クラスの皆で全員の名前が背中にプリントされた水色のTシャツを作ったのだという。
 大学に進学してからもそのTシャツを下宿先のアパートに持って行き、部屋着としてたまに着ていたそうだ。
 大学二年の夏のことである。
 バイトから帰った駿太さんが、家を出る前に回していたベランダの洗濯機を開けると、懐かしい匂いがした。少し生臭い海の匂いで、海に近かった田舎の港町である地元を思い出させた。
 中の洗濯物を取り出すと、海の匂いが一層強く漂って鼻をついた。
(悪戯か)
 一瞬そう考えたのだが、一階ならまだしも駿太さんの部屋は三階にあり、三階のベランダに上ってまでわざわざそんな悪戯をする意味もわからない。
(気持ち悪いな、水道管の故障かな)
 と思いつつ、また洗い直そうと、一応洗濯物を確認したところ、ほとんど異変はなく無事だったのだが、クラスTシャツだけ背中側の一部がそこだけ漂白剤を垂らしたかのように真っ白に色落ちしている。
 安物の加工であるから仕方がないのかもしれないが、思い出のシャツだったために駿太さんは少しショックを受けた。
 不自然に色落ちしたその部分を見てみると、背中側にプリントされている同級生のフルネームのうち、Kという男子の下の名前だけが消えている。
(うわ。同窓会とか地元に帰ったときとかに着れないな・・・)
 見ようによっては悪意を感じるような消し方に見えたからである。
 駿太さんはKと特別仲が良かったわけではないが、申し訳なく感じたという。
 
 数日後、駿太さんが寝ていると夜中にベランダから物音が聞こえて目が覚めた。
 電気を点けてカーテンを開けると、洗濯機が動いている。
 不審に思ってベランダに出て洗濯機の蓋を開けると、ザァーザァーと水だけが回っていて、再び海の匂いが鼻をついた。
 彼はボタンを叩くようにして、電源を切って水を止めた。
 部屋の灯りが排水されて水位が下がっていく水面を照らしていたのだが、一瞬、Kの顔が映ったような気がしたという。
「こういうのを嫌な予感って言うんですかね。地元にいるはずのKのことが急に心配になったんですよ」
 翌日、駿太さんがKに「久しぶり!元気にしてる?」とメールを送ると、すぐに「めっちゃ元気!帰省したらみんなで会おう!」と返ってきて、駿太さんの嫌な予感は予感のまま終わったのだそうだ。
 ただ、それからそのベランダの洗濯機を使うのはどうしても嫌だったので、駿太さんは三年生の時に別のアパートに引越すまでその洗濯機を使わず、近所のコインランドリーで済ませるようにした。そして、引越しの際に洗濯機を買い替えたという。
「でも、あのときの嫌な予感がどうしても忘れられなくて・・・」
 駿太さんは大学を卒業して、数年後に結婚した。
 新婚のとき、妻との寝物語の中で、
「子どもが出来たら名前は何て名前にしよう」
 という話をしていると、
「男の子なら〇〇」
 妻が即答した。
 ”〇〇”はTシャツから色落ちで消えたKの下の名前だった。
 駿太さんはKの名字も名前も明かすことはなかったが、Kの名前は決してありふれたよくある名前ではなく、むしろ珍しい名前なのだという。
 また、妻に前述のTシャツの話もKの話もしたことがなかった。
 偶然とはいえ、妻の言葉に一気に鳥肌が立った駿太さんが、
「え?なんで?知り合いにいるの?」
 動揺しながら尋ねると、
「ん-、いないけど、なんとなく」
 と言って、妻は寝てしまった。
 それから駿太さんが子どもの名前の話を妻に振ることはなかったが、どうやら「”〇〇”という名前にしたい」という発言は忘れてしまったようで、だからこそ駿太さんはその会話をした夜のことが不思議でならないのだという。
 その後、夫婦は二人の男の子に恵まれたが、どちらも”〇〇”とは全く違う名前を名付けた。駿太さんは妻がその名前を口に出したらどうしようと一人で不安になっていたが、二回とも杞憂に終わった。
 Kとは何年も会っていないが何事もなく暮らしているらしく、件のTシャツは結婚する前には捨てたのか手元にないそうだ。
 駿太さんは今でも港町の海の匂いを嗅ぐと、地元とあのクラスTシャツを思い出すという。


para-ghost


「黴女」 鈴木捧

「かびおんなぁあ」
 突然そんな大声が響いた。
 英語の授業中だった。
 声のしたほうを見ると、フルタが目を見開いて口を半開きにし、椅子から腰を持ち上げた姿勢で固まっていた。
 フルタは男子バレーボール部に所属する坊主頭の大男だ。その彼の顔には普段からは想像できないような恐怖の色が貼りついているように見えた。
 しんと沈黙した教室の中で、フルタに皆の視線が集まる。そのフルタが微かに身を震わせながら、廊下の方を指差した。
「かび……」そう言ったかと思うと、机の上の英和辞書を指差した方向に向けて思いきり投げつけた。
 いや、投げたところが見えたわけではない。ただ、前後の状況から自然にそう考えたということだ。このとき、皆の視線はフルタが指差したほうに向いていた。
 教室と廊下を区切る壁には磨りガラスの窓が並んでいる。鼓膜を引っ掻くような不快な音が響き、英和辞書はその窓を突き破り廊下へ消えた。
 教室の廊下側の席の生徒たちは、それぞれに顔を背けたり手で守ったりといった反応を反射的にとっていたが、そのうちの一人が恐る恐るという感じで割れた窓の向こうを覗き込む。
 わああっ、と声をあげたかと思うと、教卓の方へ向き直って、先生、先生! と教師に声をかける。それで、そこまで固まっていた教師も気がついたようになって窓際に駆け寄る。
 教師は窓の向こうを覗くと「おいおいおい……」と呟いて、それから「お前ら、そのままにしてろ! 危ないから」と生徒たちに向けて言う。その姿が廊下に消えたのと同時に、隣の教室の扉が開く音も聞こえた。そちらで授業していた教師も物音を聞いて駆けつけたようだった。
 授業が中断状態になったまま休み時間になってしまい、ちらほらと廊下の様子を見に行く生徒がいる。ミソノさんもそれに混じって、教室の扉から顔だけ出すようにして廊下を見た。
 思いのほか大きな破片となって散乱したガラス窓と、楕円形の血だまり、何かを引き摺ったような赤黒い筋が残っていた。

 あとで聞くところによれば、フルタが辞書を投げつけた窓の向こうには一学年下の一年生の女子生徒が歩いていたらしい。そこに割れた窓ガラスが降りかかって、女子生徒は首と頬を大きく切ってしまった。命に別状はないものの、しばらく入院することになったようだった。授業中なのに女子生徒がなぜ廊下を歩いていたのかは分かっていない。他にも奇妙なことがある。あのとき、フルタが指差したのに釣られて、ミソノさんも窓を見た。その窓の向こうには人の姿などなかったように見えた。磨りガラスでも、人がいればシルエットくらいは分かるはずだ。
 その事件から一週間ほどフルタは学校を休んだが、そのあとは特に何もなく登校してきた。周囲の生徒たちも気を遣ってか、あの日のことをフルタに訊いたりはしなかった。

「中学校のときそういうことがあったんですけど、すごく嫌だなって思ったのが、フルタくんの言った言葉なんですよね。かびおんな、って。……黴女。私ね、知ってたんですよね。っていうのは、私の通ってた小学校の怖い噂……いわゆる、七不思議、みたいなやつですよね、それにあったんですよね。そう、黴女。小学校に旧理科室っていうのがあって、本当に理科室だったのかは分からないんですけど、ちょっと長い……大きい教室ですね。それが一個だけ使ってなくて、普段は施錠もされてて、生徒の間で旧理科室って呼ばれてたんです。実際に使ってる理科室は新しい感じの教室だったのもあって。その旧理科室の脇に小さい、まあ準備室ですよね、そういう部屋があって。問題はそこなんですよね。その部屋を校庭の方から見るとですね、普段は黒いカーテンがかかっているんですけど、たまにそれが開いてて、中が見えるときがあるっていうんです。そこに薬品とか器具をしまってあるガラス棚とか、定番ですけど人体模型とかがあって、その人体模型の脇に、大きなガラスケースが置いてるらしいんです。掃除用具のロッカーみたいなサイズの、天井までつくような、縦長の……。で、その中に、全身緑色のガサガサに覆われた髪の長い女が入ってる、って。それを見ちゃうと、あとでその黴女に襲われる、って話なんですよね。襲われるっていうのは、学校の図書室の棚の間でも、通学路の建物の間でも、家のベッドの下の隙間でも、そういう狭いところに黴女が潜んでて、引きずりこまれる、みたいなことらしいです。……まあ、そういう話があって、といっても私は六年間、その準備室のカーテンが開いてたのなんか見たことなかったですけどね」
 じゃあ、そのフルタくんも黴女のことに関しては、知ってた可能性はあるんですかね。中学校ってことは、同じ学区で……小学校が違ったとしても、別の生徒から聞く線もあるし。
そう尋ねると、ミソノさんは首を振って答えた。
「いや、それはないです。私、小学校から中学に上がるタイミングで、ずっと遠くから引っ越してきたので。なので今日、逆に訊きたかったことがあって。あの、黴女、って、実は他の学校でもありますか? 七不思議とか怖い話として一般的に流布してる話ですか?」


「快晴の朝」 ひびきはじめ

 ひとり娘のM子さんは大学進学の折に、実家を出て京都に住むことになった。
 今から二十年ほど前のことだという。
 彼女が高校二年生のとき、同居していた祖母が亡くなった。
 祖母は共働きの両親に変わってM子さんの世話をし、とても可愛がってくれたそうだ。
 M子さんは自他ともに認めるお祖母ちゃん子だったという。
 大学を決める段になり、両親は自宅から通える大学を勧めた。
 甘えん坊の女の子をひとりで住まわせるのは心配だったのだろう。
 親としては当然の思いである。
 M子さん自身は、大学受験の話が出る以前から、京都の大学に行き、ひとり暮らしをしてみたいと考えていた。
 しかし夢の実現には、受験勉強以外にも両親の説得という高いハードルを越える必要があったのだという。

 ところが、祖母が亡くなってからというもの、何もかもが少しだけ良い方向に向かうようになった。
 奇妙な言い方になるが、その少しずつの良い方向が「塵も積もれば」的に作用し、M子さんを夢の実現に導いたのだという。
(きっとお祖母ちゃんが助けてくれているんだ)
 M子さんはそう思い、折に触れて心の中で祖母に手を合わせた。

 やがてM子さんは念願の大学に合格し、京都に独り暮らしを始めることになった。
 学生の多い街で治安も悪くない。
 すぐに学校から自転車で十五分程のところに住む場所を見つけることができた。
 これも祖母のご加護だと思っていたそうだ。
 大学生が多く住む四階建てのマンションだったという。
 古い鉄筋コンクリート製の建物で、内装や設備は「アパート」と言ってもよいような環境だった。
 四階に六部屋あるうちの中ほどにある部屋だったという。
 
 新しい生活にも慣れた頃。
 天気が良かったのでM子さんはベランダに布団を干すことにした。
 マンションやアパートの中にはベランダの手すりに布団を干すことを禁じているところもあるが、M子さんのマンションはそのような規則はなかったそうだ。
 考えることは皆同じなのだろう、下を見ると所々のベランダに布団が干してある。

 M子さんは先ずは敷布団から干そうと、ベランダまで担いできた。
 手すりは腰辺りの平均的な高さだ。
 二つ折りの状態まで戻したあと、えいっと背負い投げのようにベランダの外側に向けて広げた。
 ところが勢い余って、半分以上が手すりの向こう側に出てしまった。
「あっ、ダメっ」
 布団はそのままずり落ちそうになる。
 思わず右手を思い切り伸ばし布団をぎゅっと握った。
 その瞬間だった。
 同時に敷布団に掬い上げられる形で、M子さんの身体が持ち上がった。
 背負い投げを喰らったのはM子さんの方だった。
 いくらぎゅっと敷布団の端を握りしめても、すでに足が床についておらず、踏ん張りようがない。
 気持ちの悪い浮遊感に包まれるのと同時に、布団と一緒に四階のベランダから落ちる自分の姿が脳裏をかすめた。

 もう落ちる、と思った瞬間。
 ずんっという小さな衝撃とともにずり落ちていた布団が止まった。

 M子さんの身体のすぐ横に、誰かの腕がちらりと見え、その腕がぎゅっと布団を掴んでいるのだった。
「助かった」
 反射的に体勢を立て直し、M子さんは布団と自身の重心を手すりのこちら側に戻すことができた。
 九死に一生とはこのことだと胸を撫でおろしながら、いったい誰が助けてくれたのだろうと考えた。
 玄関ドアはロックしてあるから、万一誰かがこの状況を道路から目撃していたのだったとしても、すぐに隣に来て布団を掴んでくれるのは不可能である。
 ならば両隣の部屋のうちのどちらか、と考えても、瞬時に避難壁を突き破って来てくれたという痕跡もない。

 それ以前に、それがどこの誰だったとしても、当人が煙のように消えてしまっているのだった。
 
 M子さんは一瞬だけ見えた腕のことを改めて思い返して、思わず「あっ」と声を上げた。
 どこか見覚えのあったあの腕は、確かに亡くなった祖母の腕だったという。


「狐」 高田公太

■川村さん(三十代半ば、会社経営)
 
 僕は見たことがないのではっきり居るとも居ないとも言えませんが、昔、狐に取り憑かれたことがある……らしいんですよね。
 若い頃、僕は悪いことばかりしてたんですよ。
 暴行も盗みも。はい。
 鑑別所にもよく入ってました。
 小中高ともそんな感じでしたね。
 でね。
 お祖母ちゃんがそんなぼくを見て不憫に思ったそうで、知り合いのなんか、占い師なんすかね。その神社? お寺? カミサマって言うか、そういう人に相談したんですよ。
 そしたら、狐が憑いてると言われたそうで。
 自分では仲間たちと無軌道に遊んでるだけって意識なんで、狐と言われてもまったくピンとこないんですが。
 それでね。
 何かしたらしいんですよ。おまじない? 祈祷っていうんですか? お祓い?
 それで、ちょっと中学のときは落ち着いたような感じになったんですが、結局はまた友達と悪いことをするようになって。
 そうしたら、お祖母ちゃんがまたどこかにお願いしたんです。
 お願いしたのは前よりも強いところだったらしいです。強いって何なんですかね?
 霊能力とかですか?
 カミサマに強い弱いってあるんですか?
 詳しくないんでわからないです。
 でも、それが効いたのかどうか知りませんが、今ではかなり落ち着いているんで。
 なんというか、ううん。
 昔の自分の写真を見ると、本当に目が釣り上がってるんですよ。
 だって、今の目はどちらかというと垂れてるでしょう。
 それが、こんなに釣り上がって。(川村さんはそう言って、大げさに目尻を指で上方に引っ張る)
 それを見ると、ああ、自分は本当に取り憑かれていたんだろうな、そうとしか思えないな、と今では思うんです。

■清藤さん(二十代前半、営業職)

 記憶がとても薄っすらしているんです。
 高校三年のころです。
 受験勉強がしんどかったんで、精神的に参っていたんです。
 そんな風に心が弱っていたから、入りこまれたんじゃないかって、親が言ってました。
 ぼくは半信半疑です。
 まずは独り言が増えました。
 大概は弱音とか、何かこう、恨み言ですね。なんで勉強しなきゃいけないんだ、面白くない、辛い、自分の頭が悪いのが許せない、とかそんなことをブツブツブツと。
 そのあたりの記憶はあります。自我がそうさせてる意識がありました。
 衝動的にシャーペン、消しゴムなんかを壁に投げ付けたりもしましたね。
 ストレス発散です。瞬間的にはさっぱりします。でも、すぐ自己嫌悪が起こります。
 死にたくもなってました。
 かなり良い大学を狙っていたんです。
 記憶が曖昧になってくるのに、きっかけはありません。
 気がつくと冷蔵庫の前でむしゃむしゃとハムやチーズを食べているんです。
 台所まで歩いた記憶がないんです。
 冷蔵庫の扉を開けっ放しにして、口いっぱいにモノを頬張っている。
 漬物なんかも手づかみで食べてて。
 その状態でハッと我に返るわけなんですが、一瞬は夢なのか現実なのか判然としない。
 でも、現実と判ってからがこう、怖くなっちゃうんです。
 頭がおかしくなってしまったと。これは言い訳のしようがないほど、異常事態に自分が陥っていると。
 最初の二回は母に「夜食を食べた」と言い訳をして、三回目にはちゃんと「医者に頭を診てもらいたい」と両親揃ってるときに相談しました。母は泣いてましたね。父は妙に優しい目をしていたのを覚えています。
 この辺りから記憶がさらに曖昧です。
 確かに精神科に行ったはずなんですが、ほとんど覚えていません。
 何度か通院してます。どこの病院に行ったかも分かってます。
 でも、先生の顔、自分がどのように診察を受けたかの記憶がありません。
 あと、どこかの寺に行った記憶があります。
 これに関してはどこの寺とも覚えていません。
 両親とあのころについて話すこともありませんし、頑張って思い出そうとしたこともないんです。
 だいたい、こんな話を他人にしたことも……。
 多分、寺ではお祓いをしたんです。
 まったく曖昧ですが。
 多分、したのだろうと。映画やドラマなんかでお祓いのシーンがあると、気が滅入るんですよ。楽しめないです。気が重くなるんです。
 受験はしました。
 第二希望の大学に受かりました。
 ほかに憑かれていた時期について、覚えていることはないです。
 え? はい。
 憑かれていた、と思っています。
 そう考えた方が気が楽なんで。
 もちろん、本気でそう思ってるわけではないんですが。
 気の持ちよう、みたいなもんです。

■岡本さん(五十代前半、管理職)

 娘を一回だけ、カミサマのところに連れて行かせたことがある。
 あんまりにも癇癪がひどかったから。
 あれは小学二年のころかな。
 あ、いや。俺が連れて行ったんじゃなくて、家内が連れて行ったんだよ。
 すっと落ち着いた様子で帰ってきたね。
 帰りに美味しいものを食べてきたらしい。
 癇癪もぴたっと止んだ。
 モノを投げたり、金切り声をあげたり大変だったからな。
 掴みかかって、爪を立てたりするんだ。
 目を潰されそうになったこともある。
 怖いってことはなくて、ただ困ってたんだ。
 だから、俺は狐憑きってのはあると思うよ。
 お化けとかは知らないけど。



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