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藤井総長と「対話」の奇妙な縁 【連載 東大学費値上げ】

最近、東大は年間最大10万円の授業料値上げを検討していることを発表した。学生たちは値上げに反対し、ハンガーストライキや学内集会など抗議活動とともに、記者会見を行った。波乱の中、藤井輝夫総長は学生の意見を聞く「総長対話」を行うと発表した。だが、「総長対話」は対面ではなく、Zoomウェビナーで行うという。学生自治会は対面での対話を要請し、「学生自治団体からの代表質問を認め、学生からの質問・発言の機会も設ける」と提案した。しかし、総長は「『総長対話』は総長と学生の対話の場であり、交渉の場ではない」と、提案を拒否した。

いまの東大生は知らないかもしれないが、実は藤井総長と「対話」とは4年前から奇妙な縁が続いてきた。

2021年、夏

藤井総長が総長に就任して最初の夏のことだった。東京の若者がそろそろ行動制限に我慢できなくなり、コロナ感染者数が毎日「過去最多」を更新し、政府が反対を押し切ってオリンピックを開催した、あの何という欲求不満の夏のことだった。

藤井総長は、前の年に入学式を経験できず、2年生になっていた学生向けに、「入学者歓迎式典」を行った。藤井総長は総長になってから最初の式辞で、自身の研究経験から「対話」の重要性を唱えた。「いろいろな人が集う東京大学という場で、何よりもまず大切なことは「対話」であろう」と学生たちに語っていた。

ネットなどでは、互いの価値観の直接的な対立がしばしば見られますが、言葉尻を捉えたやりとりで、対立が解消することはありません。まずは相手の声を全体として受け止め、信頼し、その問いかけを共感的に理解すること。それが大事です。

令和2年度東京大学入学者歓迎式典(学部) 総長式辞

だが、一つの予想外のことがあった。藤井総長が滔々と「対話」を語っている最中に、ある学生が2階から垂れ幕を掲げ、対話するなら実際駒場に来て前期教養の学生と対話しろ、という趣旨の抗議を行った学生はすぐ職員に連れ出され、壇上の総長や役員たちは終始無反応だったという

2021年の夏といえば、コロナ対策で人と人の「対話」が阻害され、菅総理、小池知事やIOCのトップらが国立競技場の中に盛大にオリンピックの開幕を祝うのに対し、一部の抗議者が外で「オリンピックやめろ」と叫んでいた、という分断が最も深刻だった時だ。

東大においてもまた、オンライン授業、五月祭とオリエンテーションの中止、キャンパスの入構制限などにより、学生同士の交流が最も制限された時だ。いまからすると仕方ない部分もあると思うだろうが、「人生最後の夏休み」が自分の掌から零れ落ちていくことを見届けるしかない学生たちは、怒りを感じただろう。(3年からはもう就活が始まる。)

加えて、学内の活動はすべて前々から「タスクフォース」という謎めいた組織が開催形態を決めていたが、感染者数が随時増減する中に、感染者数が低いのに対面開催できない状況もあった。

学生たちの日々の孤独と焦燥を前に、藤井総長は行動を伴わない立派な対話論を語るだけだった。垂れ幕を掲げた2年の学生は次のように話す。

ただ、その外部への意識を気に掛け過ぎて、目標として掲げている学生との「対話」をできていないのが今の東大だと思います。 大学生活は一生に一度しかないものです。 それなのに、対面授業の合間や学園祭などの行事で生まれたはずの交流がオンライン化によって阻害されてしまうのはとても虚しい。こうした学生の思いを「対話」を通じて知ることすらできていないと思います。「対話」という聞こえのいい言葉をスローガンに掲げるだけで、藤井総長は駒場に来ることすらしないじゃないですか。学生をまるで幼児のように扱っている感じで怒りを通り越して「あきれ」に近い感情を覚えます。

垂れ幕を作成した学生(東大新聞より)

垂れ幕事件の後、駒場キャンパス内は「対話ニキやるやん」など、藤井総長の「対話」を風刺する立て看板がいくつか現れた。

「対話ニキやるやん」2021年7月19日撮影
「対話」2021年7月20日撮影
「てるお@対話」2021年7月20日撮影
関大が対面授業を再開 2021年7月20日撮影

だが、藤井総長はようやく学生たちの声を聴いたからか、垂れ幕事件の約2ヶ月後にZoomのウェビナーで学生たちと会話するイベントを開いた。いわゆる「学生の声」は果たして大学のコロナ対策に反映したかは不明だが(垂れ幕事件の5ヶ月後の駒場祭はオンライン開催だった)、藤井総長にとって「対話」が一つの課題であることは明らかだろう。

実際、藤井総長はやけに「対話」を語る。インタビューがあるたびに、「対話」という言葉が出てくる。今年の卒業式においても、「相手と自分の主張が対立しても、諦めずに対話の場を作り続ける意志と態度を捨てないでください」と卒業生に説いていた

総長会話

歴史は繰り返さないが韻を踏む。垂れ幕事件から4年間が経って、コロナ禍の孤独と苦痛がすでに忘却されたいまでも、藤井総長の「対話」は中途半端だと思われ、再び学生の反感を買った。

藤井総長は、コロナが収束したのに対面での対話を拒否した。4年前の垂れ幕事件のトラウマなのだろうか。さらに、今回の対話イベントが「議論ではなく、できるだけ多くの学生と、対話を通じて多様な意見を理解し合うことを目的としている」と、「交渉の場ではない」と示した。議論ではない対話、交渉ではない対話はありうるのだろうか。ある学生は、授業料に関する事項は総長対話の直前に行われる「経営協議会」で決定されてしまうのではないかと懸念する。本郷キャンパス内では、「こんなDX嫌だ」という看板も立っている。

4年前に藤井総長自身も言った、対話は「言うは易し、行うは難し」と。4年前、藤井総長はすでに「対話」と向き合わないといけないという運命が決まっていたかもしれない。藤井総長が「構造的差別」が新入生の最初の宿題と言うのなら、私は「『対話』が総長の未完の宿題だ」と言いたい。

対話

対話とは何か。エマニュエル・レヴィナスに言わせると、対話は自己の主体性を確保しながらも、完全に異質的な他者と関係を構築する方法だ。「私」=自己には、周りのすべてのものを概念として自己の領域に取り込む傾向がある。例えば、私が自分の友人を頭の中に想起するとき、友人は私の頭において意のままに操れる存在となる。私は身の周りの全てのものを感知し、測量し、把握し、理解し、概念化していく。すると、世界は私の中に一つになる。レヴィナスはそれを「全体性」と呼ぶ。

私は絶えず自分とは異なるものや人=他者を自己の領域に取り込む。だが、レヴィナスによると、他者は実は常に私の概念化から逃げ出し、私の理解や把握から溢れ出ていく。レヴィナスはそれを「無限」と呼ぶ。他者はまさに「無限」だ——私は無限の「そちら側」に何があるのか知る術がないからだ。

無限の他者との関係を可能にするのは、まさに対話だ。言語は、私にも他者にも属さない。だが、言語を介した対話関係の中に、他者は私に応答を懇願する。さらに他者の懇願は、倫理を成す——つまり、倫理や道徳というのはいわゆる個人の心から誕生したものではなく、他者から贈与されるものだ。

対話関係は決して心地よいものではない。そもそも他者は私とは異質的な存在であり、私の予想を裏切り、私を変え、ひいては私を傷つけるものだ——あるいは、2階から垂れ幕を掲げてくるものかもしれない。だが、それでも私は他者が無限な存在だと認め、対話せざるを得ない。そうしないと倫理はやってこない。

ユダヤ人のレヴィナスは、親族がナチスに殺害され、一時ドイツ軍の捕虜にもされた。彼の『全体性と無限』は、自己の存在に主眼を置いたマルティン・ハイデッガーの現象学への反論でもある——そしてハイデッガーはナチスの支持者として知られている。ヒトラーの頭の中には、ユダヤ人の虐殺を支持する完璧な論理と倫理があるだろう。ハイデッガーの頭の中にも、ヒトラーを支持する完璧な論理と倫理があるだろう。他者の無限性を回避し、自己の全体性に飲み込まれた彼らにとって、自分の論理と倫理に間違いがあるはずない。レヴィナスは彼らを見て『全体性と無限』を書いたのではないだろうか。

藤井総長の宿題

私は藤井総長をナチスに喩えるつもりは全くない。なぜなら、対話は誰にとっても、いつだって怖いからだ。知らない先生に話しかけるのを恐れる。友人にエントリーシートを見てもらうのを怖がる。恋人に「別れよう」と言うのに躊躇う。家族に望まれない道に進みたい心意を伝えるのに尻込みする。私だって異質的な他者を恐れ、彼・彼女との会話を怖いと思っている。他者を怖がるのが「人間」と言うのだ。レヴィナスの言う通り、私たちは全員、全体性に惹かれる傾向があるのだ——藤井総長も学生も。

学生たちは、対話そのものではなく、対話による変化を求めている。その変化は双方に起きるのだ。何かしらの妥協案に落ち着くかもしれない。だが、決して学生の意見を聞き、「でも、私の考えではやはり値上げしかないね」ということではない。他者は、自己を変えるものだ。

藤井総長、今回の宿題はどう答えるのだろうか。



※この文章は、東大学費値上げ反対運動の周辺に起きている出来事を、少し学術的な視点から分析する連載の第1回です。連載の第2回目のこちらです。


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