ヒロバ再生 【連載 東大学費値上げ】
最近、東大の学生は学費の値上げに対して抗議運動を行っている。安田講堂前の芝生でテントを立て、「学費上げるな」や「対話歓迎」などスローガンを打ち出している。
その中、ある理学系研究科の教員はツイッターで次のようにつぶやき、批判を呼んだ。
ハンガーストライキまで行って反対の意思を示す学生たちは「若者が声を上げたりアピールする」として描かれ、弁当を食べる人、観光客や保育園の園児の迷惑になっているという。
リツイートとリプライでは、「学生にはデモやハンストを行う表現の自由があります」、「大学は観光客が写真を撮るための場所ではありません」など批判が寄せられている。
翌日、「東京大学だめライフ愛好会」という謎の組織は戸谷先生に応え、「すべての人の憩いの場」である安田講堂前でかき氷を提供しはじめた。
一連の騒ぎは、私たちが「ヒロバ」と呼んでいる空間の中に、実は二つ矛盾する概念が共存していることを明らかにした。さらに、今日の「ヒロバ」をめぐる議論や、安田講堂前の広場で繰り広げられた学生団体同士の意見の食い違いは、驚くことに50年前の新宿駅西口地下広場の紛争を想起させる。
ヒロバ
ジョルダン・サンドによると、「ヒロバ」には緊張をはらむ二つの理想がある。一つは、市民が意見を交わす場としてのヒロバ。もう一つは、市民の団結の象徴であり、個人の意思より集団の意思が先行する場としてのヒロバ。前者は、不協和音を生み出し、食い違いを許容する。後者は、共同体の統一を強調し、多くの時にはモニュメント——共同体を象徴する巨大な建造物や彫刻——を要請する(1)。
戸谷先生にとってのヒロバは後者でしかない。安田講堂前広場は、モニュメントとして東大を象徴する安田講堂を観覧するために存在する。一致団結の「東大」を、観光客や学生(あるいは保育園の園児)に誇示する場所だ。後者のヒロバで考えると、彼らは広場で休憩できるが、政治的・社会的に東大の全体性を脅かすことは許されない。広場に異質的なノイズが入るべきではない。その意味で、戸谷先生が提示したヒロバは国家の祝賀式典や観兵式が行われた戦前の皇居前広場といささか似ている。
一方で、学生たちは前者のヒロバ——不協和音を許容し、意見を交わす場——を強く提示する。東京大学だめライフ愛好会はかき氷の提供を通じて、安田講堂前広場の用途が決して抗議に限定されないことと、多様な営みを歓迎する姿勢を示した。サンドの言葉を借りれば、「そこでは普遍的な利用権は保証されるが、普遍的な合意が保証されることはない」(2)。
現に、安田講堂前広場では学生同士の意見がときに食い違う。例えば、学費値上げ反対運動の学生がテントを立てた後に、駒場キャンパスを本拠地とした「パレスチナ連帯キャンプ」も安田講堂前にやってきてテントを立てた。だが、一部の学生はパレスチナ連帯キャンプに対して、距離を置きたいと考えた。
学費値上げ反対運動をパレスチナ連帯キャンプと結びつけると、効果が下がるのではないかという危惧や、そもそもパレスチナに対してはそこまでの情熱を持っていないといった意見が見られる。他方でもちろん、二つの運動は連帯すべきだと主張する人もいる。
そこで、学費値上げ反対運動の主催団体「学費値上げ反対緊急アクション」は、次のような声明を出した。
つまり学費値上げ反対緊急アクションは、パレスチナ連帯キャンプと距離をとりながらも、ヒロバの不協和音、異種混淆、齟齬や緊張を許容する。異質性を許してはじめて、安田講堂前広場が学生の自由に意見を交わす場所となる。足並みが揃っていないからこそ、安田講堂前広場は戦時下の羽仁五郎が夢見た自由都市フィレンツェを体現している。
実は、社会運動は必ずしも異質性を許容するヒロバを生み出すとは限らない。多くの社会運動は信念にこだわり、団結を強調するあまり、異質的な人や意見を排除してしまう。サンドによると、戦後の安保闘争や共産党の集会は、実は戦前の皇居前広場の形式を踏襲しているという。例えば、共産党が皇居前で開催した集会では、「共産党の新しいカリスマが演壇に立ち、人々に向かって一方的に話しかける形式自体は、天皇が勅語を朗読した昭和初期の天皇制儀礼を踏襲するものであった」(3)。安保闘争も、統一された目的を掲げており、「究極的には依然として国民の団結」だ。サンドは、「戦後民主主義におけるいわゆる『広場』は、戦時の全体主義の『広場』や共産党によるメーデーの抗議の『広場』と、本質的に異なるものではなかった」と手厳しく評する(4)。
1969年、新宿駅西口地下広場
サンドにとって、ヒロバの理想を最も体現したのは、1969年の新宿駅西口地下広場だ。
主役の「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)は、当時ラディカルで暴力も辞さない学生団体を一線を画し、「遊びの精神」を重視し、草の根的で祝祭的な方法で抗議活動を行なっていた(5)。また、政党との提携を拒み、「各人の自発的な立場を尊重」することを掲げた(6)——「特定の政治勢力・思想と連携、協力しません」と度々釈明する学費値上げ反対緊急アクションといささか似ている。
ベ平連は1969年の2月下旬から、新宿駅西口地下広場で毎週土曜日の夜に「フォーク集会」を行なっていた。基本的には、6時ごろに何人かのギターリストが広場で現れて反戦ソングを歌い、演説や討論を行い、8時ごろにインターナショナルを歌って解散する。5月に入ると、全共闘の学生も加わり、参加者が3000人まで膨らんだ。
ベ平連のフォーク集会は、いくつかの点において特殊だった。まず、フォーク集会は公園など認可された空間で行うものではなかった。むしろ、わざとサラリーマンにとって通らないといけばい場所で行うことにした。新宿駅西口地下広場は、資本主義の最中に西新宿を新たなビジネス街として開発するために作った建築だった。竣工した当時(1966年)の西口広場は、人の「よどみない流れ」を作り、最も効率的に鉄道、バスと歩行者を結ぶ空間と称賛され、日本建築学会賞を受賞した(8)。
しかし、フォーク集会はサラリーマンたちの流れ——資本主義の流れと言っていい——を妨害させようとした。いや、厳密に言えば人々は広場を通ることができる。だが、必ずベ平連と遭遇してしまう。まさに、いまの安田講堂前広場とそっくりだ——安田講堂の前を通り、安田講堂の写真を撮ることはできなくはないが、必ず学費値上げ反対運動の人と遭遇し、テントの様子が写ってしまう。教室や公園など認可され、閉じられた空間ではなく、出会いの可能性と偶発性の満ちたヒロバだ。
また、フォーク集会は行動様式の面でも思想の面でも、統一されていなかった。討論する時には参加者がいくつかの輪をなし、立ち歩く人と座り込む人が共存していた。すべての参加者が斉一的に歩き、スローガンを叫ぶ抗議デモと異なり、フォーク集会は参加者の行動様式が多焦点的だった(9)。また、参加者同士——通勤客も否応なく参加者になってしまった——の意見はときに食い違い、それによって「対話」が生じる。1969年6月22日の朝日新聞は、次のように報じる。
だが、フォーク集会の熱気は長く続かなかった。警察は、ようやくフォーク集会を一掃する切り札を使うことにした。そして、その切り札は「ヒロバ」の持つ政治的な意味と力を物語っている。
7月18日、東京都の警察は一夜で新宿駅にある45個の表示板を「西口地下広場」から「西口地下通路」にかけ替えた。機動隊員が、西口地下広場(通路)を埋め、あらゆる通行人を立ち止まらないように追い立てていた。警視庁は、西口地下広場(通路)が「都道」であり、フォーク集会の参加者が都道の路上で許可なく人寄せ行為を行ったとし、12人を道路交通法違反で逮捕した。歌う人やギターリストはプラカードなどを持っていなかったため、無届けデモという理由で逮捕することが難しかったからだ。(11)
「広場」を「通路」に変更することは、「広場」という言葉が持つ力を何よりも物語った。サンドは、次のような結論をつけた。
※この文章は、東大学費値上げ反対運動の周辺に起きている出来事を、少し学術的な視点から分析する連載の第2回です。合わせて、連載の第1回「藤井総長と『対話』の奇妙な縁」もぜひご一読ください。第3回の連載は、「これからの東大共同体へ」(暫定タイトル)です。
参考文献
※本文は、ジョルダン・サンドの『東京ヴァナキュラー——モニュメントなき都市の歴史と記憶』の第1章「広場」を多く参照している。都市論や歴史に興味のある方は、ぜひご一読ください。
(1)ジョルダン・サンド『東京ヴァナキュラー——モニュメントなき都市の歴史と記憶』. 新曜社, 2021, 35–36.
(2)前掲, 35.
(3)原武史『皇居前広場』. 光文社新書, 2003, 141.
(4)ジョルダン・サンド『東京ヴァナキュラー』, 39.
(5)吉川勇一「"遊び"で行こうベ平連」. 「『資料・「ベ平連」運動〈中巻〉』, 河出書房新社, 1974, 97.
(6)前掲, 94.
(7)ジョルダン・サンド『東京ヴァナキュラー』, 48–49.
(8)前掲, 52.
(9)前掲, 50.
(10)「新宿駅西口地下広場 フォークソング集会」. 朝日新聞. 1969年6月22日, 朝刊, 東京版, 16.
(11)ジョルダン・サンド『東京ヴァナキュラー』, 54.
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