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さらば、駒場ロッジよ

静かな夜にかこまれ、真っ直ぐな道を進んでいる。その先にあるのは、駒場ロッジ。この長々しい夜道を歩きながら人生を思い悩む日常も、これが最後だなとまもなく駒場ロッジを去る僕は思わずにはいられない。

2年前に、14日間のホテル待機を終えて荷物を引きずりながら駒場ロッジへ入居した。程なくして、キャンパスから徒歩10分、光熱費を含め家賃4万円、渋谷まで電車で10分以内、という絶好な条件を有する寮はその住民たちに「北朝鮮空港の待合室」や「精神病院」と揶揄されていることがわかった。僕だって最初その汚さそうなトイレと、夏に見たこともない奇妙な虫に占領されかねない廊下を見て、キラキラした寮生活への期待がさめた。しかし、人生で最も息苦しい時期に付き合ってくれたこの寮を去る今日、そのトイレと廊下はどれもこれも愛しく見える。

駒場ロッジは家だったかもしれない。寮生活が始まって二ヶ月が経った頃、自然な成り行きで二階に住んでいる四人がキャンパスの食堂で昼食をするグループを結成した。すべての授業がZoomで行われ、ひきこもりのような日々を過ごしている僕らには、それが大学生活というものを味わえる貴重な時間だった。思うに、相性が良いから友達になったというわけではなく、一緒に昼ご飯を食べに行くのもそれしかないかもしれない。なぜなら僕らはコロナで人と人の交流が消滅した真最中に母国の家族や人間関係を手放し、日本にやってきた孤独な人々であり、もう一緒しかないからだ。ただ、その中で互いを助け合い、生まれたのは家族のごとく誠実な関係だといまは胸を張って言える。

駒場ロッジは個性のある住民が多いうえに管理が緩く、無法地帯と言っても過言ではない。ほぼ毎日酔っぱらいながら始発電車を乗って寮に帰る謎の日本人。キッチンの流し台に食器を洗わずに永遠に積み重ねさせるカナダ人。毎日深夜にキッチンでカレーを作るバングラデシュ人。いつも廊下でビールを飲みながら大声で歌い出すフランス人。酔っぱらって火災がないのに消火器を使ってしまい火災報知器が作動して消防に通報する事件を起こした中国人。彼らの迷惑行為に怒って寮から出ようと何回も思っていたところが、結局二年間も耐えてきた。そして驚くことに、いまは少し彼らの迷惑行為と一緒に過ごしたいとひそかに思っている。

どこに住むかと聞かれるたびに、僕は「駒場寮」ではなく「駒場の寮」あるいは「駒場ロッジ」と答える。「駒場寮」とはかつてキャンパスの中に存在し、一高時代に建てられ、2000年前後に取り壊された寮のことだ。僕はその寮の華々しい歴史と自治文化を尊敬し、自分が住んでいる駒場ロッジは駒場寮に到底及ばぬ存在だと思っている。学生自治団体のメンバーとして学生自治に関する過去資料をあさる機会があった。読んでわかったのは、当時学部は駒場寮の廃寮を検討していると同時に、国際化の風潮に乗ろうとし、三鷹国際学生宿舎や駒場ロッジなど留学生を受け入れる寮の建設計画を打ち出した。どうやら「駒場寮」から三鷹国際学生宿舎や駒場ロッジといった「国際寮」へ転換する背景には、寮に住まなくてもいい国内の学生を寮から排除し、代わりに留学生を受け入れるという大学の方針転換だ。換言すれば駒場寮の廃寮と駒場ロッジの建設はなんと表裏一体のものだ。過言ではあるが、もし駒場寮が取り壊されていなければ僕はいまこの大学にいないだろう。

僕らは二年間の契約期間が終わりそうな頃、契約期間を延長するようにハウジングオフィスに請願書を出した。水際対策によって契約が始まったものの渡日できない状態を余儀なくされたことから、実際部屋に住んでいない期間は契約期間に算入すべきではないと主張した。僅か1ページの文章を書くだけなのに、みんな集まって一字一句を考え、些末な言葉遣いや文法表現をめぐって激論を交わしていた。さらに、動き出したのが遅かったので残った時間は僅かだった。請願書を起草した人いわく、終戦後にGHQの民政局が一週間で日本国憲法を起草しようと指示された時の気持ちが少しわかったという。にもかかわらず、結局誓願書が却下され、僕らもハウジングオフィスとこれ以上闘う気がないので(僕は「独立宣言のあとは独立戦争だと言っていたが)、それぞれ自ずと引越し先を探しはじめた。ただ、寮という空間は実に不思議なものだと感慨深く思っていた。一緒に住むだけで共同意識が生まれ、共同の利益を守るために何でもできるような気がする。僕らのあっけない闘いは、当時駒場寮の1%に達したのだろうか。

寮から出なければならない日が間近に迫っている時に僕がつくづく思っていたのは、仮に10年後にまた駒場に戻り、仮にその頃に駒場ロッジがまだ健在しているのなら、僕はどのような出来事を思い出すのだろうか、ということだ。僕はこの寮で送っていた二年間をどのような目で見るのだろうか。正直、この二年間は少し鬱陶しい。外国人としての疎外感・言語の壁・文化の違い・学業のプレッシャー・親戚も友人もいないがゆえの孤独・何か成し遂げなければならないという自意識との闘い。この二年間は少し息苦しい。しかし、いまの憂鬱はどうでもいい。10年後にまたここに戻る時に、「そうね、あの頃は辛かった」と、平然に言えるようになりたい。僕が一番好きな詩のように、「回首向來蕭瑟處,歸去,也無風雨也無晴」(回首す向来の蕭瑟たる処を/帰去せん/也た風雨も無く也た晴れも無し)。

それは風雨も晴れもない風景なのだろうか。

2021年の春に寮の前に撮った桜の写真
2022年の春に寮の前に撮った桜の写真

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