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隅田川花火大会激混みはなぜ?

激混みにもかかわらず浅草に行って、周りの人の手と手の隙間から打ち上がる花火をのぞくのは、なんかおかしいと思わないか。花火大会は、「納涼」は、もっとゆとりを持って享受するものなのではないか。ドラマの、アニメの、主人公たちの恋心を一歩推し進める花火大会は、もっとロマンチックなはずなのではないか。

なぜ、隅田川花火大会は混むのだろう。一見素朴な質問だが、そこには文化が同質的になってしまい、夏を楽しめる想像力が乏しいという、我々の時代精神があると思う。

隅田川花火大会の人混みと、毎朝東京へと向かう中央線の満員電車と、席が埋まった金曜夜の渋谷の居酒屋と、大手商社・デベロッパー・コンサルの説明会に駆けつけた就活生はどこか似ている気がする。

資本主義の都市で生きる我々の生活があまりにも同質的である。人と腹を割って話すのは居酒屋でしかない。恋人とロマンチックな夏夜を過ごすのは隅田川花火大会でしかない。立身出世するためには大手企業に行くしかない。

下北沢の台湾料理屋にて、僕はある友人に問いかけた。「なぜ、我々が友たちと遊ぼうと思うときや、関係を一歩進めたいとき、思いついたのは金がかかる選択肢しかないのか」と。誰かともっと知り合いたいと思うのならその人を飲みに誘うしかない。だから金曜夜の渋谷の居酒屋が混むのだろう。思うに、幼少期の僕は金を使わなくても友たちができていた。

もしこの資本主義が極まった都市に何か神秘な力があるとすれば、それはきっと我々を朝の中央線の満員電車に捕らえ、料理のクオリティが値段に値しない居酒屋に行かせ、さらに、異なる休日の過ごし方、異なる働き方、異なる生き方を想像する能力を我々から剥奪する力だろう。あんなに多い人が小さな列車にぎゅうぎゅう詰め込まれるのはおかしいと思わないか。安い食材を使ってコクテルを水増しして氷をたくさん入れているのに、1人3000円もかかるーーあ、それプラス席料とお通しだよ。

これも目新しい議論ではない。1962年の『一元的人間:先進産業社会におけるイデオロギーの研究』ではすでに、産業社会において人間が次第に「一元的」になりつつあるという危惧が現れた。採用サイトでよく見る「やるときは全力でやる、遊ぶときは全力で遊ぶ」というスローガンはまさにその表れである。「遊ぶのはいいけど、仕事が終わってからでね、指定された場所で遊んでね」という論理が通底する。労働も娯楽も管理される時代に、人間の自由や批判的な思考が失われるのではないかと、ヘルベルト・マルクーゼは考えている。

管理された方法以外で遊んだり働いたり、自分の人生の意味を見出したりすることができない。それを想像する力はすでに失った。その結果、大勢の人が暑さと人混みをしのいで隅田川にやってきた。




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