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『献身性とか自己犠牲っていい言葉だけど、めっちゃ難しい』 たぶんこれ銀河鉄道の夜の感想※ネタバレあり

生で舞台を見るのは、それが2度目の経験だった。
その劇団の舞台を見るのは、僕の密かな夢であり、楽しみだった。
ヨーロッパ企画の舞台自体は見たことがなかったが、「ドロステのはてで僕ら」や「サマータイムマシンブルース」などの映画は拝見したことがあり、特に脚本家の上田誠さんの描く作品が好きだった。

上田誠さんとの出会い

大学1年生の頃、人と関わることがとにかく苦手だった。今も苦手なことには変わりないが、サークルのようなたくさんの人間がいる場所に自分が置かれるという状況が人生で初めてであり、やり方が分からず上手く馴染めなかった。
中学高校までは、クラスの端っこから中心にいるような人たちに、嫌な目線で陰口を叩いているような毎日だったのが、急にサークルの中心でわちゃわちゃするようになり、そこから見る初めての景色に正直、戸惑っていた。困惑しながらも、その生活が楽しいのだと思い込んで、馴染もうとした。
半年かそれ以上の月日が経つと、周りの人たちの嫌な部分もおのずと見えてきた。この人たちからは少し距離を置こうかなと考えていた時に出会ったアニメが「四畳半神話大系」という森見登美彦さんが原作の作品である。
その作品と出会って、僕が見ていた嫌な部分というのは人の一面に過ぎず、相手に対する本質的な理解ではないと思った。それから、自分の視野の狭さを恥じ、もう一度ちゃんとみんなのことをいろんな角度から見てみようと思った。結果的に彼らのことはその時以上に嫌いになってしまうのだが、何も自分から努力をせずに嫌いになったわけじゃないということは、生きる上で大事な経験だったと思っている。
その「四畳半神話体系」のアニメ脚本を書いたのが、ヨーロッパ企画の上田誠さんである。

生で見るすごさ

初めて行く会場でどこから上に上がるのか少し迷ったが、乃木坂46・田村真佑さんの缶バッジをつけてエレベーターを待たれている女性がいたので、その方についていった。ボタンの近くに立っていた僕は、少しの感謝を込めて、会場の階に着いた時に、開ボタンを押して出るのを譲った。他にも5人ほど乗客がいたが、その女性だけが小さく“ありがとうございます”と返してくれた。

会場に入ると、とても幻想的な舞台セットにまず驚かされた。舞台が始まり、銀河鉄道の中が見えると、その作りこまれた車内の様子や窓に見える景色がとても美しかった。
銀河鉄道の夜は、舞台を見に行く数日前に読了して臨んだが、びっくりするほど原作に忠実に運行していく物語の凄さと詩人であるからこそ書ける美しい文章を歌やラップにして昇華しているところに、宮沢賢治への最大のリスペクトを感じた。

妙にリアルな乗客の背景

銀河鉄道には、亡くなった人だけでなく、“炎上”を起こしてしまった人たちが乗り込んでくる。自分が犠牲になればと相手に突っ込んだアイスホッケーの選手、消費者センターで“サギ”にあった顧客を“カモ”呼ばわりしてしまった職員、よくしてもらった社長の罪を肩代わりした社員などさまざまな事情を抱えた人物たちである。原作にはタイタニック号やラッコ乱獲事件など当時の世俗風刺も含まれているが、本作ではより複雑に世俗風刺が効いていた。余談になるが、世俗風刺的な要素はあくまで後付けの設定であり、音楽劇を作ろうというところが出発点だったことがパンフレットに書いてあり、驚かされた。

炎上してしまったどの人物も“誰かのためになると思って”、“だって仕方ないだろう”と、自分は悪くないんだという思いを抱えながら、銀河鉄道に乗り込んでいる。たしかに、自分も同じ局面に立たされたら、勝手に周りからの圧力を感じて、これは自分にしかできないんだと思い込んでしまうかもしれない。それでも、献身性や自己犠牲ということの意味をはき違えれば、そこに待ち受けるのは他人の冷たい視線であり、信頼していた人の知らない顔なのである。いくらフィクションの世界であっても、少し考えるとぞっとする。
カムパネルラが消えた後、原作・銀河鉄道の夜の終盤で黒い大きな帽子を被った青白い顔の痩せた大人が現れる。
その大人が「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。」というセリフを述べる。
“炎上”してしまったどの人物も、自分の信じる神さま、つまりはその時正しいと信じた行動を取ることによって、誰かを傷つけたり、傷ついたりしている。誰かのために犠牲になればいい、優しくすればいい、こうすれば人のためになると思っていても、裏目に出ることもある。「必ずみんなは自分のことを分かってくれるだろう」と思って行動しても、世間には伝わらない面や隠される面があって、誰も擁護をしてくれないこともある。デスゲームの進行をしている車掌でさえ、欲を出せば車両から追い出されてしまう。人生とはいかにシビアなものであるかを痛感させられるシーンであった。
舞台上でも、う大さんの演じる・宮沢賢治が「みんながめいめいじぶんの神さまが…」と言いかけるが、ナオとレナによって遮られている。

いいやつと悪いやつの曖昧さ


舞台中、登場人物の良い面と悪い面がたくさん描かれていて、さっきまでいいやつだったのがあっという間に嫌なやつに変貌し、かと思えば逆のパターンもあるのが、上田誠さんの人間に対する厳しさでもあり、愛情のようにも感じた。この人がどんな人なのか、過程を知らないからこそ悪い人だと決めつけてしまうことがある。逆に人当たりが良いからこの人は良い子なんだろうと思うことがある。が、レナのようにいじめをしていたという過去を知ってしまったら、完全に良い人だと思うことは難しいだろうし、いじめを受けた本人にとっては、レナがみんなから良い人だと思われることは癪だろう。
脱落してしまった4人が、もう1度銀河鉄道に乗ろうとしたシブサワを助けに、詐欺師・フナキのアジトへ乗り込むシーンがある。シブサワをその精神世界から取り戻すと、シブサワは「なんで俺を引き戻した!」と叫ぶ。それに対して、タノウエは「馬鹿野郎!」と一蹴し、「また乗れますよ、俺たち一度はあの列車に乗ったんですから。」と声をかける。

僕は良い人であろうと心掛けているつもりだが、これまでに人にしてしまったことは絶対に消えない。された本人が自分を許してくれると思うこと自体おこがましいと考えている。反対に、自分が絶対に許さない相手というのも存在する。もし僕が彼らと一緒に“あの”銀河鉄道“に乗ったら、無事に最後までたどりつけるのだろうか。

笑いどころがたくさんあるコメディではあるものの、ストーリー自体はシリアスで「自分のこれまでの人生って正しく歩めてきたのだろうか」と考えさせられる。
宮沢賢治を庇った車掌とオーバードーズで死にかけているフナキが南十字にもたれかかる緊迫したシーンで、その南十字から酸素マスクが落ちてくるシーンは泣きながら笑っていた。
これだけ自由にやっていても、メッセージがブレないのはものすごいことだと感じた。
現実世界に戻った主人公のナオや弁当屋のシゲフミ、先輩のナツキ、他にも脱落していった乗客たちが少しずつだけど、変わっていく姿は胸を打った。

“ほんとうのさいわい”

自分の良かれと思ってやったことが、必ずしも自分や誰かを“さいわい”に導くとは限らない。誰もがそんなことは当たり前だろうと思うかもしれない。しかしながら、人は時にそんな当たり前なことですら、見失ってしまうことがある。
人からの圧力を期待と感じてしまったり、自分が面白いと思ったことが人を傷つけたり、そもそも自分の納得のいっていないことをやらされて後悔することもある。
シゲフミが蠍の炎に突っ込んだ後、「やっぱ、無理!」と叫んでいたのが、妙に印象的だった。皆のために犠牲になるってそんな簡単なことではない。ミュージシャンとしてスターになることを夢見る彼であったが、多分彼の憧れているような世界を感動させるようなミュージシャンでもそこまでの犠牲は払っていないと想像した。
何のために生きるのか、何をもって“さいわい”とするのか、僕もまだ探っている途中である。

会場を後にすると、エレベーターを待つお客さんがたくさんいた。会場のある建物に入っているテナントのほとんどが営業終了時刻を回っていたからだ。
来た時と同様、僕はボタンの近くに立っていた。下へ降りると、全員が降りるまで再び開ボタンを押し続けた。一体どうすれば自己犠牲や献身性を正しく実現できるのか僕にはまだ分からなかったが、開ボタンを押し続けるということを通して、少し実践してみようと思った。舞台を見る前にも開ボタンを押していたわけだが、その自分とは少し異なっているように思えた。
もうその時間は地上出口のある階以外には止まらないのに、エレベーターを出ない方が2人だけいらっしゃったが、その人たちに「ここ以外止まりませんよ」と声をかける勇気まではまだ持てていなかった。

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