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癖(4月エッセイ④)

 爪を切る時、足の小指から切ったら、なんとなくおさまりが悪かった。巻き爪気味だからか、それとも体から一番遠い箇所だからか、なぜか上手く切れる気がしなかった。親指まで爪を切り終えて、反対の足へ移行した時に、いつもは親指から切っていることに気がついた。どの指から切るかどうかなど今まで意識したことがなかった。

 小学生の時に、家の冷蔵庫が変わって、冷蔵室は右開きから左開きになり、3段目にあった冷凍庫は野菜室と入れ替わって、2段目になった。何の気なしにアイスを取り出そうとすると、「よく間違えなかったね、若いって羨ましい」と褒められた。届いてから数日間、母親が料理をする時に2段目を開けたと思ったら、すぐに閉めて3段目を開けるところを何度か目にしていた。うちに冷蔵庫が来た瞬間から、僕にとってはこの冷蔵庫はそういうものという認識だったから、褒められたのが不思議だった。
 今冷蔵庫が買い替えられたら、自分はすぐに新しい配置に慣れることができるのだろうか。

 今考えてみれば、若いから新しいものに慣れるのが早いというわけではなかったような気がする。母親ほど日常的に料理をするわけではないし、冷蔵庫自体に対する先入観が形成されていなかった。ここにあれがあって、あそこにはこれが入っているというような認識を持っていなかったから、新しい配置にすぐ適応しただけのことだった。
 固定観念を持つのはやめましょうとか、柔軟な考え方を持ちましょうと当たり前のように言うけれど、柔軟な考えだって常に癖づけて柔軟に考えようとしなかったら、頭を柔らかくすることはできない。そういった意味では、柔軟に考えることが絶対に必要という一種の固定観念を持たなければ、柔らかい頭を身につけることができないのではないかと考える。

 会社でいつもどでかいため息をついている先輩がいて、半年くらい何も言わずに我慢していた。部屋全体に聞こえるほどのため息を、全くの無意識でしていることがわかったのはつい最近のことだった。最近新しく入った社員の方に指摘されたらしく、「私っていつもため息ついちゃってましたか…?」と聞いてこられた。その後、大きなため息をついては、「あ、これが言ってたやつか」と独り言をつぶやいていた。そういえばこの人、独り言もデカいんだよなということを思い出した。
 どうせ無意識でやるんだったら、もっとこちらの気分の良くなることだったら良かったのにと思う。

 と好き勝手なことを人に言いつつ、僕にどんな癖があるのかは把握していない。もしかしたら、生活習慣だけじゃなくて、ものの見方や趣味嗜好もどんどん自分の型にはまってしまっているかもしれないと思うと、少し怖くなってくる。新しいモノ、新しい考え方に常に窓を開けていたい。凝り固まりたくない。
 けれど、自分の価値観は徐々に形成されつつある。爪切りひとつ取ってもそうだ。無意識で行っていたやり方から少し逸れただけで、不快に感じる。何で不快に感じるかにもすぐには気づけない。

 毎週文章を書いていて、何が自分にとって楽しくて、ムカつくのかだんだん分かってきた。自己表現をしようとすると、AかBどっちのか意見に偏りやすい。頭の中では、Aなんだけど、Bも一理あるし、その説明をするにはAと同じだけの文量を尽くす必要性を感じることがある。だけどそこにまで触れると話が長くなるし…と諦めてしまうことが多い。勝手に書いているだけの制限も何もない場所(note)なので、気にせず書ききらなければと思うけれど、蛇足になりそうなら省略してしまいたいというのが自分の癖だ。
 エッセイを書く時にも、気づかない間に手癖がついている。書きたいように書けているのか分からなくなる。話の展開の仕方とか、語尾とか、テーマとか書きやすいやり方だけでやっていいのか、時々不安になる。
 多分いつか凝り固まる。それは個性と呼べるものになるのか、欠点になるのか。

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