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書籍:『雑貨の終わり』、本もCDも雑貨化している。

当時、とても衝撃を受けた事件だった。2017年、神奈川県の座間市のアパートで、男女9人の遺体が切断された状態でみつかった事件だ。被害者は自殺を望むような投稿をSNSで投稿しており、それをみた犯人が彼ら彼女らに「自殺を手伝う」といって近づいた。最近、この事件の初公判に関する記事を読んだ。犯人は落ち着いているようで、自分について「死刑じゃ足りないんじゃないですか」と述べ、被害者たちを「本当に死にたいと思っている人はいなかった」と振り返ってるという。記事を何度読んでも、犯人の心情についてわたしが思い浮かべられる情景はない。犯人とわれわれは同じ世界に生きているのだろうか。底知れぬ「わからなさ」だ。
 さて、今回は書籍。

■ 『雑貨の終わり』
作 者 三品輝起 
発行所 新潮社
発 行 2020年
状 態 一回通しで読んだ

 著者の三品輝起は、東京の西荻駅に近い雑貨店「FALL」の店主で、本書はまさに店であつかう「雑貨」をテーマにしたエッセー集だ。「雑貨」がテーマのエッセイというと、「このペンは、何年にどこそこの国のなにがしというデザイナーがつくったビンテージもので……」というこだわりのうんちくがつづくものを想像しそうだが、そういうものじゃない。本書は、現代消費論と自伝的なエピソードがあわさったような一冊だ。それ、初期の村上春樹じゃないか。まさしく本書の著者も名文家であり、「〇〇といえば、××を思い出した」というかたちでエピソードからエピソードへと散歩するように語っていく。こういったタイプの読み物は、どこにいきつくのだろう?と不安になりならがら読んでしまうこともあるが、本書はほんとうに流ちょうでひきこまれてしまい、あっという間にさいごの一行まで来ていた。

 作中、「雑貨化」という言葉がよくでてくる。これは「いままで雑貨ではなかった物が雑貨として流通して消費されること」を指す。おたま、まくら、ランプ、プラスチックケース、水筒、腕輪……としりとりのように永遠に続けられそうな日用品たち。いま、それらはどれも、あらゆるアプローチで「おしゃれ」になるようにデザインされている。かつては、それ自体が生活のなかでどれくらい役に立ちそうかということで価値は決まっていたはずだが、いまやモノがあふれそれぞれが消費者の生活スタイルや趣味をアピールせんばかりに、さまざまな意匠をまとう。それらがアマゾンで統一のフォーマットで提示され、趣味の良さ悪さの上下なくフラットにどこまでも続いていく……それがわたしたちの消費のいまである。

 わたしが「雑貨化」を感じるのは、本やCDだ。これまではモノがなければ内容に触れることができなかった。10年前は「いろいろ読んだり聴いたり、オレって勤勉だなあ」と思って、それでせっせと広くもない部屋に持ち帰っていた。が、いまや、本ならキンドル、CDならサブスクリプションがある。内容にふれるだけならばモノはいらない。そうなんだけど、いまのわたしは、手触りが良いからとか、めくりながら内容を深く理解したいからとか何かと理由をつけて紙の本を買っている。音楽なんて、わざわざサブスクにないからという理由で聴き出したジャンルもある。これは本やCDが雑貨化なのだ。もっともらしい理由をつけていたが、けっきょくは、好きなモノに囲まれて悦に浸りたいだけだとやっと自覚した。こうやってすべてのものは「雑貨化」していくのである。

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