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書籍:『デス・ゾーン』、インフルエンサーの死が問いかけるもの

昨年はコロナ禍で大変だったねえ、なんて振り返って年が明け、さてそれで感染が止んだなんてことはない。今年も苦難の年になりそうだ。かつてのスペイン風邪も終息するのに2年ぐらいかかっているみたいで、来年の今ごろもマスク生活なんて可能性は大いにある。気が重い。


さて、本日は読書。

■ 『デス・ゾーン:栗城史多のエベレスト劇場』
作 者 河野啓
発行所 集英社
発 行 2020年 
状 態 ページをめくる手が止められなかった

この本は、2018年にエベレストで亡くなった登山家・栗城史多のノンフィクションだ。栗城は、目標に「単独無酸素で七大陸最高峰の制覇」を掲げ、その活動は何度もテレビドキュメンタリーになった。また栗城自身も「夢の共有」として、ネットで情報発信を積極的で、登山をネット中継し、講演活動や自己啓発本の刊行を通じて、ファン(信者的でもあった)を増やし、多額の遠征費をクラウドファンディングで集めるまでになっていた。その姿は、インフルエンサーと呼べるものだった。


ただ登山の専門家からは、彼のいう「単独」「無酸素」は妥当なのか、という疑問の声があった。とくにエベレスト頭頂計画について、最も難しいコースで、酸素ボンベを使わず一人で挑むというのは抜き栗城の経験からいって無謀だと、繰り返し指摘されていた。それでも栗城は「単独無酸素」を掲げてエベレスト頭頂に挑戦し続け、そのなかで大多数の手の指も失い、8度目の挑戦の途中で滑落死した。


当時、そのニュースはSNSですぐに話題となった。わてしが彼を知ったのはこのタイミングで、その後流れてくる栗城の情報を知るにつけ、呆れつつも、なぜここまでのことをしなくてはならなかったのか?と興味を抱いていた。

本書の著者・河野啓は、北海道放送のディレクターで、北海道出身の栗城を早くから取材をしていた。途中から関係がうまくいかず、取材から離れるのだが。河野は、栗城への取材について以下のような後悔があったという。これが本書を書くモチベーションだったのだろう。

……ほとんどの制作者が彼と一過性の関係で終わった。私もそれに近い。一人の人物を旬のときだけ持ち上げるのはメディアの性だ。本当は輝きを失った人物にこそ多くの教訓が潜んでいるはずなのだが、こうした取材は非効率的だ。制作には根気を要し、時には苦痛も伴う。
 私たちは栗城史多の本当の姿を伝えようとしただろうか?

本書では栗城のオフレコのやりとりや、さまざまな関係者への丹念な取材によって実像をあぶりだしていく。それをわたしがまとめると、「自分で自分のリアリティーショーをやった人」。かつてはお笑い芸人を目指していたという栗城の行動原理は、注目を集めること一点だった。本書で登山のための訓練より、講演活動に熱心だったことが書かれている。支援者の反応やメディア映えで、自分の行動を常にウケる方を選択していったのだ。


たしかに、人気者になり資金を集めないと遠征は行けない。しかし、地味な訓練を怠ると死んでしまう。それでも彼にとって大事なことは「目立つこと」だった。リアリティーショーでの自分が、リアルな自分を凌駕したようだった。

河野の栗城への評価はフェアだ。彼へのツッコミだけ書くのではなく、彼の愛嬌やインフルエンサーとしての悲哀にも理解を示している。終わり方も栗城のパーソナリティに寄り添うエモーショナルなものだった。読み終えたあと、わたしはじーんのしてしまった。

が、やっぱり栗城がエベレスト頭頂にこだわったことは分からなかった。というか、ぼやっと不気味に思った。言語化するために、以下の演出家・平田オリザの言葉を借りよう。

 エベレストは、1度誰かが登ってしまえば、あとはそれほど登ることに価値のある山でなくなってしまう。だから人は最初の登頂のあとは、単独で登ったり、女性だけで登ったり、無酸素で登ったり、厳冬期北壁といった負荷をかけたりして、その価値をどうにか高めようと試みる。
 しかし、そこに生じる様々な人為的な負荷は、人為的であるだけに何らかの形で克服可能なはずで、少なくとも負荷をかけた段階から、その対策が冒険者の脳みその中に想定されている。そういう類の試みになってしまう。(「イノベーションに関する文人的考察」『情報処理学会論文誌』49(4)、2008年)

言ってしまえば、栗城がこだわる「単独」も「無酸素」も人為的な負荷でしかない。でも栗城的には、シェルパを頼り、酸素ボンベをつけて登るだけでダメだった。なぜならそれはすでに多くの人がやってきたことであり、リアリティーショーとして「映えない」し「ウケない」からだ。


この、最初は演出の意図で掲げたはずの人為的な負荷が、いつしか栗城のなかで揺るがないものとして絶対視されていった。それは彼の強い思い込みなのか、メディアが煽ったからなのか、それはわからない。両方かもしれない。さらに、それを観て感動するわれわれもいる。この構図がわたしがぼやっと抱いていた不気味さである。

栗城までいかなくとも、いま、SNSというものが人のリアルな人生に大きな影響を与えるようになった。人からの反応は数値化され、さらなる反応を求めて「ネタ」としての行動をする。わたしだってあなただって、多かれ少なかれ気にしてるだろう? そのことが人の一生にとってどんな影響があるのか、その「実験」の最中にいる。その意味で、本書でいち早く「インフルエンサー」の行く末を描いていることはとても重要なのかもしれない。

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