マイノリティ、かくあるべし
身体等に何らかの障害のある人やLGBTなどいわゆるマイノリティと分類される人々について語る時、マイノリティを擁護する人の中にはときどき「マイノリティはこうあるべきだ」や「マイノリティでない人はこうあるべきだ」などと在り方について断定する人がいる。
私は今NHKで放送中の朝ドラ「半分、青い」を毎日楽しみにして観ているのだが、放送後にTwitterなどのSNSで感想を検索してみると「主人公の鈴愛の片耳が聞こえない設定やゲイのキャラクターがまるでドラマを盛り上げる為の道具のように使われているのではないか」とか脚本に批判的な意見もちらほら見えた。
「主人公の反応は障害のある人間としておかしい」とか「主人公が『ゲイだ!本物のゲイ、初めて見た!』と興奮するのは性的マイノリティに対する配慮が無いのではないか」とか。
マイノリティに対する配慮、とはなんだろう。
ドラマの登場人物がすべてマイノリティに理解がありマイノリティを批判することも囃し立てることもないフラットな人間であれば、配慮、なのだろうか。
個人的には、主人公の鈴愛の反応はとても現実的だと思った。
朝ドラの主人公はすべてを受け入れ誰にでも無条件に優しく差別も批判もしない神様ではない。
鈴愛は偏見もプライドも持つ、ごく普通の女の子だ。
その偏見やプライドで誰かを傷つけたり大きく挫折することもあるだろう。
そこからどのように成長するのかが「半分、青い」の肝だと私は思う。
主人公や脚本を批判する人は善意なのだろう。マイノリティを擁護しようという気持ちがあるはずだ。その善意は悪いものではないけど、マイノリティ当事者からすると「その善意はなんかちげぇんだよな」と感じてしまうこともたびたびある。
NHKが番組内で障害のある人やLGBTなどのマイノリティについて多く発信しているのは「マイノリティを擁護しよう」という意味ではなく「いろんな境遇、いろんな考えの人がいることを知ろう。知った上でどう考えるかはみなさんの自由」という多様性を認めるスタンスだと思う。
でも「マイノリティを知ること=マイノリティを擁護すること」だと飛躍して解釈してる人が多い。
マイノリティの存在を知った上で、無視するか批判するか尊重するかはみんなの自由。
ただし、無視や批判に対してはマイノリティが立ち向かい反論する自由がある、というだけなのだ。
「多様性を認める社会」ならマイノリティを批判する人へむやみやたらに噛みつくのではなく「あなたはどうしてそういう意見なのですか?」と正面きって問うことが正しいやり方なのだと思う。
だって多様性を認めるなら、マイノリティを批判する人の人権も尊重しなくてはいけないから。
「マイノリティを批判しているやつがいたから、SNSで匿名で個人的にめちゃくちゃ攻撃して、精神的に追い込み、相手を社会的に殺す」というのは正義の押し売りじゃないのかな、と疑問を感じてしまう。
「マイノリティはその境遇から人の痛みや苦しみがわかるはず」なんて言う人もいるが、たぶんそんなことはない。
「身体に障害あるから優しい」とか「LGBTだからおしゃれ」とか、そんなことは言い切れない。
マイノリティについてそういう断定をする人はおそらく「マイノリティはこうあるべきだ」と望んで、期待しているのだと思う。
「少数派なんだから謙虚にしてろよ」という謎の上から目線だったり、特に意図は無く単純に「そういうものに決まってる」と思い込んでいたり、そういう人もいる。
「自分はマイノリティだから」という理由で、他人に優しくするのではない。優しくしたいと思える人だから優しくするのだ。そんな当たり前のことがマイノリティというフィルターを通すと見えなくなってしまう。
そして「マイノリティでない人はマイノリティに優しくしなくてはいけない」というのもそのフィルターの効果だ。
相手がマイノリティだから優しくするのではない。
マイノリティか否かに関わらず、困っている人がいれば助ける。助けたくなければ、無視すれば良い。しかし、他人を助ける気持ちが無い人は、他人から助けてもらえないのが世の常なので、それをリスクととるかどうかは本人が判断すれば良い。
現在「半分、青い」の鈴愛が生きる時代は1980年代。
今よりはまだマイノリティの存在はそうでない人たちにとって未知の存在だったのではないか。
だから鈴愛の家族は「片耳が聞こえない」という鈴愛の障害を「そんな障害があっては就職も何もできるはずがない!」と不安になったのではないか。
「自分には身体障害がありますが、別に就職活動には支障ありませんでしたよ」と言って鈴愛を鼓舞してくれる人が、今のSNSが発達した時代ならいるのかもしれないが、あの時代には難しいはずだ。
個人が秘密にしている性的事柄等について他の誰かが暴露してしまう「アウティング」という概念もなかったかもしれない。だから鈴愛は興奮のままに家族へ「ゲイがいた!」と今の時代ではデリカシーが無いとも思えるような報告をしたのではないか。
鈴愛はこれから世界が変わっていこうという時代に生きる、まだ十代の女の子だ。
きっとこれから様々な経験を経て、自分の障害のこと、LGBTのこと、漫画家という職業のこと、どんどん考え直す機会に恵まれるだろう。それが脚本に描かれるかはまだわからないが。
今後の脚本の展開によっては「半分、青い」は視聴者、特にマイノリティに対する固定概念がある人たちにとっても、マイノリティを考え直す機会になりうると思う。
まだドラマは始まったばかり。
期待は失わずに、私は視聴し続けるつもりだ。