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Legend2:小野瀬祐一さん(2)

前回の続き)

大洗の“free and easy”

小野瀬:自分の一世代前には、もう大洗が(サーフスポットの)メインだった。“free and easy”っていうお店が大洗にあったって聞いてるけど、自分もその時代にサーフィンしてなかった。

––––それはサーフショップだったんですか。

小野瀬:そう、メーカー。そこの古い板もうちにもあるんだけど。

––––そこが坂本さん(イエローサンズ代表の坂本清克さん。前回参照)が仰ってた、大貫にシェイパーさんがいたっていう話なんですか?

小野瀬:そこらの話は、大洗だとフジエダさんとかその頃の世代(=小野瀬さんより上の世代)だと思うんですよ。(あるいは)それを一番詳しく知ってるのはテヅカさんかな。茨城で一番古いのは、テヅカさんとオノさんですよ。一番最初の世代はそのあたり。

––––テヅカさんは今サーフショップをやってらっしゃるんですか?

小野瀬:いや、(本人は)やってないです。プロサーファーだった弟さんが勝田で「ファーストブレイク」さんをやっていて、そこは別の方が今も続けている。テヅカさんって、もう七〇になると思うんですよ。多分すごい詳しく知ってる。で、その頃あった“free and easy”を中心に大洗は結構盛り上がっていたと思うんですね。そこしかサーフボードを買うところがなかった。

 “free and easy”の次には、「サンサーフ」のオノさんが河原子(茨城県日立市の海岸)でサーフボード工場を始めた。それもやっぱりメインで影響が大きかった。サンサーフに後にお店やる人たちが働きに行ってたってのが、自分が始めた時の(状況)。(その後)お店始めた人らは(小野瀬さんより上の世代の)昭和二八年生まれが多くて、ちょうどサーフィンがブームで盛り上がってきた。その時代に、サンサーフが夏だけ阿字ヶ浦(茨城県ひたちなか市の海岸)のにちょこっと小屋みたいな店を出していて、そこの店番を(当時)大学生のテルヌマくんがしてて。

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––––小野瀬さんもバイトをされてたんですか。

小野瀬:そう。キヨちゃん(=坂本清克さん)もそうだけど、キヨちゃんが高校生で、自分はサーフィンばっかりして海で遊んでて。その頃、阿字ヶ浦はすごい海水浴が賑わってて、流されちゃうと結構サーファーが助けてたんですよ。

 その頃監視員って、地元のちょっと泳げる子がやってた。だけどサーファーを使った方が、波も荒いし、助けるのが早いっつって(=と言って)、サーファーを採用し始まったんですよ。自分も毎日阿字ヶ浦でサーフィンばっかりやってたから、夏一ヶ月は監視員のバイトして。その時高校生だったキヨちゃんとかもバイトに来たり。みんな夏やってたもんね、監視員。

お店に来ていた常連のお客さん(以下、常連):サーフボードもって(監視員に)来てくれって。(溺れた人を)すっげえ助けましたよね、毎日。

小野瀬:監視塔にはみんなサーファーがいる感じ。

––––潮が早かったんですか。

小野瀬:波があるんで。

常連:波があると潮が速くなっちゃう。離岸流に逆らったらサーファーだって戻ってこれないもんね。

小野瀬:今でいうジョイフル本田から真っ直ぐ降りてきたところも、みんな泳いじゃうんだよね。あそこが一番流されて。赤いピア(浮き桟橋)があって、その周りが夏は波よくなるから、自分らもそこでサーフィンやってたんだけど。

常連:だいたいピアの脇で流された。沖に流れちゃって。

小野瀬:そんで、だいたい今の常陸那珂港の沢田川っていうとこに打ち上がるって言われてて。

常連:サーフィンの大会で流されちゃった人が、原研の方まで流されちゃって、終わる頃歩いて帰って来た(笑) 一九八一年か八二年に三浦海岸抜いて、阿字ヶ浦が海水浴場の来場者で全国一位になった。東洋のナポリとか言われて。

“free and easy”から「第二世代」へ

––––坂本さんのところで、那珂湊のショップのことを聞きました。

小野瀬:それはもっと後ですね。自分らがサーフィンを始めた頃だから、(free and easyの)もう一世代後。話戻ると、テルヌマくんがそこ(サンサーフの夏季限定店舗)で大学生のときにバイトしてた。(当時サンサーフの)ショウジさんも働きに行っていた。その頃、ショウジさんは自分ちが農家だから、納屋でシェイプも始めたんだよ。で、テルヌマくんと独立したショウジさんとで那珂湊水産(現・茨城県立海洋高校)の脇でサーフショップ「ファンタジーアイランド」を立ち上げた。その頃にキヨちゃんなんかが行き出したんだと思うんですよ。そのうちそのお店が阿字ヶ浦に来たんですよ。そこでキヨちゃんも高校生でプロになって、卒業後に湘南へ行って戻ってきてファンタジーの社員に。

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小野瀬:(昭和)二八年生まれの、自分らより五、六つ上の世代は「第二世代」。一番はテヅカさんらがいて、その後に続いた人たちが、サーフィンが盛り上がってきた時にみんなブランドを作った。

常連:いっぱいあったもんね。大貫にあったみたいに。

小野瀬:だからサーフボーフドメーカーも何社か地元にあって。コッペさん(オレンジカウンティー)も阿字ヶ浦で工場やってたから自分で削って。結構色々あったよね、トマトとか。

常連:阿字ヶ浦はとにかく人がいっぱいいましたよ。

(続く)

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